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ヘイトスピーチとマイノリティー沈黙効果 歴史的背景から見えてくるもの

りむよんみ(ニューヨーク市立大学非常勤講師)

 民間助成金を得て2010年の秋から2年間、「ネット言説と変わりゆく市民運動―現代日本における国家・人種主義をめぐって」という研究プロジェクトに日本人研究者や在日コリアンの研究者とともに関わっていた縁で、この特集に寄稿させていただくことになった。

 私は祖父母の代に渡日し、日本で生まれ育った在日コリアン三世で、留学を契機に日本を離れた。そして日本に帰省して外国人登録の切り替えを行ったときに、韓国籍の申請者にのみ与えられる「協定永住」から「特別永住」に切り替わる説明を役所の窓口で受けたのをよく覚えている。

 「特別永住」資格という日本の出入国管理制度における特例は、大まかにいうと、サンフランシスコ講和条約発効日に日本国籍を離脱した、旧植民地出身者とその子孫で日本に在留する人々に付与される永住資格である。

 在日コリアンの狭義の定義は、この在留資格を使うことが多い。法務省の在留外国人統計によれば、12年は韓国、朝鮮籍合わせて約37万7000人。この永住資格ができたのは1991年のことで、旧植民地出身者の国籍離脱から40年近くかかりやっと規定された、比較的安定した永住外国人としての法的地位だ。

 90年代末の永住外国人地方参政権に関する議論の際に、特別永住という、法的地位上限りなく日本人に近い外国人としての資格を問題視する意見が見られた(注1)。だが、「在日特権」なる表現で露骨にバッシングされるようになったのは特に00年代以降のことだ。

 在日コリアンの持つ特別永住資格は、「在日特権を許さない市民の会」(桜井誠会長、以下「在特会」)が在日コリアン批判の矛先に真っ先に挙げる「許しがたい制度」だ。在日コリアンを全員朝鮮半島に強制送還させたいというスタンスのこの市民団体にとっては、他の外国人と比較して安定した在留資格を有することが、子々孫々にわたって永続的に在日コリアンが日本に「棲み」つくという由々しき事態の元凶なのだ。

 東西冷戦に遭遇した戦後処理のひずみにあって、在日コリアンがこの「特権」を得たのは、戦後60数年の時間にして3分の1と歴史的に比較的最近の出来事であることは、彼らの認識にまったくない。

 私は米国市民権取得後の日本の外国人登録切り替え時に、国籍欄の記載を「韓国」から「米国」に変更した。そのため、私の日本での法律的な名前から漢字が消えてローマ字表記になってしまった。

 私の北米生活も長くなり、あと数年もたてば日本を離れていた年数のほうが長くなる。名前はコリアンで、母語は日本語、そして法律的にはアメリカ人と、初対面の人には若干の説明が必要な立場なのだが、アメリカに住んでいようが日本にいようが、国籍を今後さらにどこに変えようとも、在日コリアンとして生まれてしまった事実はどうにも選択も変更もしようがなく、コアな自己規定のひとつだ。

 在日コリアンであることは、その出自にずっと付き合わざるを得ない私自身にとってはごく当たり前のことだから、旧宗主国に暮らす旧植民地出身者という、歴史的経緯から差別されてきた存在だからといって、妙に気の毒がられたり、色眼鏡で見られたりしても困惑する。また四六時中立て続けに民族や国籍のことで悩んでいるわけがない。

 それでもアメリカの大学院で社会学を学ぼうと思ったのは、マイノリティーにたまたま生まれついたことと無縁ではない。人種・民族問題の研究といえばアメリカ合衆国という思い込みもあったのに加えて、日本をとにかく一度出てみたかっただけといえばそうだ。私の世代は、物心ついてからの日本はいわゆる「国際化」ブームで、日本人も若者がとにかくよく海外に出ていた時代だった。

 98年から2年間ほど、日本国籍を取得した在日コリアンがどのように「日本人」として日本社会に関わっているのかというテーマで取り掛かった博士論文の調査のため日本にいた。その時によく、日本で民族性の獲得に励むことも、地道に活動に取り組むことも、韓国本国を留学先に選ぶこともなくアメリカでふらふらしている「民族から逃げた」根性のない人間であるような叱責を、民族運動に関わってきた人や、そういう生き方に共感するジャーナリストを含む日本人から幾度となく受けた。

 私は、いわば在日としてやる気に欠ける「正しくない」存在であるので、ひとくくりになど到底できないほど多様な在日コリアンを無理矢理まとめて、全在日コリアン代表としてこの場で意見陳述をするものではないことだけはあらかじめお断りしておきたい。

二者択一をせまる日本の社会

 話が変わるが、今年3月になってやっと、細田守監督作品のアニメ映画「おおかみこどもの雨と雪」を見た。

 おおかみおとこの夫に先立たれた人間の若い母親が、おおかみでも人間でもある子どもたちを育て、それぞれの独り立ちを見送る物語で、日本での興行成績もよかったと聞く。美しい映画で、子どもを持つ親の琴線に触れ、いい大人がおいおいと泣いてしまう。

 しかし、日本風の通称名を使って育った私は、この映画には子どもの成長譚では済まされない、別の反応をしてしまった。

 おおかみおとこが人間の花と結ばれる前におおかみであることをカミングアウトするところ。姉の雪が人間の女の子らしく、本来好きだった虫やねずみ、へび集めなどのおおかみらしさを封印するところ。弟の雨が童話でいつもおおかみが悪者扱いされていることに傷つくところ。雪が転校生の男の子に自分の素性が見破られたかと追い詰められていくところ。台風のときにお迎えがこなかった者どうし、雪がその男の子と二人きりになったおりにカミングアウトするところ。どこも、とても他人事とは思えない。

 父親のおおかみおとこの代にせよ、娘の雪の代にせよ、カミングアウトは社会や家族関係から孤立した境遇にあって、一対一の人間関係でこれまで蓄積してきた信頼関係で対応できる相手に対してしかできない。仲がいい家族の反対という形の集団レベルで瞬時に拒絶される心配がとりあえず少なそうだからだ。

 最終的に子どもたちは別々の道を選んで巣立っていく。雪は人間の女の子として人間社会で生きていくことを選び、弟の雨はおおかみとして山奥に去る。この結末には、諦観の混じった息苦しさを感じた。おおかみでも人間でもある子どもたちにとって、そのままの自分を活かした成長は許されず、二者択一の選択の上にそれぞれ同化、適応していくしかなかったわけだ。

 日本人でもコリアンでもどちらでもある、というような曖昧な存在は許されない。日本に対して何か批判めいたことを言おうものなら、生まれ育ったところを離れて一体どこに「帰る」のかはさておき、「文句があるなら帰れば」と言われる。日本にいる以上、波風をたてずに静かに息をひそめていなければならず、ちょっと声をあげれば一斉に叩かれる。つい、映画の本筋とは直接関係がないところでいろいろな考えをめぐらしてしまう。

 21世紀になっても、日本社会でコリアンの名前を名乗れば、「日本語がお上手ですね」という反応が多く返ってくるだろうし、日本風の名前を使っている在日が思い切ってカミングアウトすれば、何も聞かれることもなく「別に同じじゃないの? そんな気にしなくていいじゃない」という反応だったり、反応が逆にさっぱりなくて拍子抜けしたりと、いつまでも歯車がかみ合っていない。

 そういう話が、私自身よりはるかに若い、ポスト指紋押捺世代の若い在日コリアンと話していてもどんどん出てきて、日本社会の在日コリアンの処遇において制度上は過去30年もの間にかなり変化があったにしては、驚くほど変化がない側面もあることを痛感している。

 したがって、ヘイトスピーチの背景となる事情は脈々と続いてきたかみ合わなさと差別感情の延長にあって、だからこそ「一部の極端な人たちの所業」では片付かない問題だと私は思う。

日本社会の研究としての在日コリアン研究

 在日コリアンに関する研究書の書評を 英文学術誌に書いたときに、その本が「地域研究としてのコリア研究」として分類されて驚いたことがある。私は在日コリアンに関する研究は、あくまで日本社会の研究であるととらえている。博士論文は日本社会全体に関わるテーマとして取り組むつもりで、人数的にもマイナーな少数民族の研究をマニアックに追究する意識ではまったくなかった。

 博士論文のためのフィールドワークの比較的初期に、在日コリアンと日本社会の関わりかたを規定するものは、とどのつまりは国籍でくくる話ではなかったことに気づかされた。つまり、国籍が日本であろうと、韓国であろうと、朝鮮であろうと、在日コリアンであることに向き合っている人であるほど、より深く日本社会、日本の地域社会に関心を持ち、建設的かつ積極的に社会に関わっていたという逆説的な関係が見られた。もちろんこれは無作為抽出の社会調査を実施したわけではないからあくまで仮説だ。

 その一方で、日本国籍者も含めて、自らのことを日本人とは手放しに自己規定しないことで、日本人=日本に住んでいる人/日本語を話す人、といった広義の解釈ではなく、日本人=あくまで日本の血統を有する人、という解釈を在日コリアン自身も踏襲していた。既存の日本人像は、それを実質拡大しているはずのマイノリティー自身によっても再生産される傾向にあった。

 冒頭でふれた共同研究の企画に関わったのは、大学院生時代からの友人で今回本特集に寄稿している山口智美さんと、保守系市民運動に関するプロジェクトを一緒に進めてきた仲間たちに学会で出会った偶然の賜物だ。ちょうどお互いのこれまでの研究の関心がうまくかみ合った。「在特会」(06年12月設立準備集会、07年発足)に見られるような組織化、活発化された排外主義の表出には私は心底、恐怖を感じたし、押しなべてリベラルな動きに着目しがちな社会科学において、明らかに研究の必要性が高いテーマでもあった。

 だが、「在特会」などの「行動する保守」諸団体の運動に関心がいくらあっても、在日コリアンを「ぶっ殺せ~!」「叩き出せ~!」などとメガホンを通じて絶叫している当事者たちに、在日コリアンの私が、のこのこと直接お話を伺いに行く勇気などあるはずがなく、日本人や在日コリアンの研究仲間と一緒に取り組むことにしたというのが本音だ。

 私は一昨年と昨年、かつてお話を伺わせていただいた同じ地域の在日コリアンを再訪した。共同研究プロジェクトの「在日」チームの一員として、主に在日コリアン側のヘイトスピーチの被害にあった人にお会いした。また「在特会」などへの抗議で今年注目をあびた「レイシストをしばき隊」等よりずっと以前から「行動する保守」諸団体の街宣に対抗していた日本人にもお話を伺った。

 その一方で、「日本人」チームの研究者たちは「行動する保守」サイドの参与観察や聞き取り調査、ウェブやソーシャルネットワークサイトなどの媒体の内容の分析を担当するというおおまかな分担だった。だが研究チーム発足時の単純な役割分担も、民族のラインを超えた対話の可能性の模索という形で再調整していかざるを得なかった。

 10年からの2年間にわたる共同研究はあくまで財源の区切りであって、プロジェクト自体は未完である。「行動する保守」界隈の動きは、「あくまでもごく一部の、実社会で生きていくうえで問題をかかえた人たちによる憂さ晴らし的な運動」という筋書きがメディアを通して影響力を持ちつつある。だがプロジェクト全体のフィールドワークを通しては、女性の運動における役割や「行動する保守」系の活動家の多様性など、二元対立的に図式化できない複雑な構図がうかびあがってきた。

 以下、昨今のヘイトスピーチをめぐる流れを振り返るにあたり、ヘイトスピーチを生み出す土壌とは何かを考える上で、戦後の歴史的経緯は欠かせないので、戦後の在日コリアンをめぐる状況と、在日コリアンに関する社会運動の流れをおさえておきたい。その上で、00年代後半から顕著化したヘイトスピーチを伴う「市民運動」とそれを報道するメディアの問題点について考えていきたい。

見えない「外国人」からさらに見えない存在へ

 戦後、在日コリアンは日本で生まれ育てば、外見や使用言語では日本人と区別がつかない、「制度上の見えない外国人」だった。しかもそれは、日本国籍者との婚姻件数の増加や帰化(日本国籍取得という表現を好む人もいるが、ここでは制度上の表記をあえて使用する)により、さらに見えにくくなった。

 植民地朝鮮にルーツがある日本国籍者は、政府の統計上の扱いは一括して「日本人」になってしまうので、正確な在日コリアン人口は把握のしようもない。90年代初頭に、社会学者の福岡安則氏は、少なくとも全人口の1パーセント、100人に1人と見積ったが、それでも極めて少ない比率にすぎない(注2)。

 在日コリアンの日本語は母語だから、日本のテレビ番組を見て、時代の流行り廃りも共有する。日本で暮らしていれば圧倒的に利害関係が一致するのは同じ国で一緒に暮らしている地域社会の人々で、その大半は言うまでもなく日本人だ。在日コリアンも、日本人と同じようにごく普通にささやかな幸福を追求して、地道に地域に溶け込んで生活している。日本人の友人も多く、日本人とずっと仲良くやっていこうという考えだろう。だから、「帰れ」などといわれては身もふたもない。

 日本風の名前を日常的に地域社会で使って日本の学校に通っていれば、外国人として、コリアンとしての自覚が育つのはそもそも無理だ。

 「見えない外国人」としての在日コリアンが日本において可視的な存在になるには、社会的なコリアン名の常時使用か、言語の獲得か、朝鮮半島の歴史や社会に関する知識の習得、また民族衣装の積極的着用、民族文化の実践、などの試みが必要になる。

 ネガティブなマイノリティーとしての出発点をポジティブなものに一大転換するにはかなりの努力が必要で、この際「創られた伝統」だろうが、具体的なイメージができればなんでもオーケーだ。自分ひとりだけではない、と思えるだけでも大違いだ。

 在日コリアンのための全日制の学校や、全日制とまでいかなくとも、課外活動的な民族教育(狭義の民族教育というよりマイノリティーエンパワーメント教育)は、子どもがのびのびと自分自身の出自を受け入れるための受け皿になる。しかし、国際人権規約にもある少数民族の教育権の法的保障など、日本においては夢のまた夢だ。

 全日制の民族教育にせよ、クラブ活動や校内学習であろうと、それらは少数の関心ある日本人教師たちや地元の在日コリアン活動家、子どもたちの経験によって意識が高まった保護者たち、そして子どもたち自身の熱意によってのみ例外的に一部の地域で継続されてきた。

 その一方でアイデンティティーの押し付けや決め付けに抗うノンフィクション的な読み物、自叙伝や論評、また一枚岩ではない在日のアイデンティティーを取り上げた研究書は、多少の紙幅では紹介しきれないほどの蓄積がある。在日コリアンは常にカテゴリーの縛りを感じ続け、そこから自由になりたいともがく存在だ。

 違うけれど同じ、同じだけれど違う、その違いは個人の好みや関心の問題というよりは、やはり歴史的な経緯に根ざした力関係による構造的要因が絡んでいる。

 在日コリアンは日本人のことをよく知っているのに、日本人は在日コリアンのことをほとんど知らない、片思いに似た関係が今でも続いている。

日本人と在日コリアン差別秩序のリニューアル

 在日コリアン差別は国民国家の枠組みが整った近現代の歴史的産物である。

 日韓併合以降、内地(宗主国)出身者と外地(植民地)出身者は、国際法上同じ日本国籍者であっても、労働者の賃金体系や参政権などで内地/外地出身者別に差別待遇が制度化されていた。差別秩序が当然のこととされた。

 ただ、一昔前のアメリカ合衆国の南部の州のように異人種間結婚が日本で法律制度として禁止されていたことはない。植民地出身者は制度上明らかに下のランクに属するのだが、イデオロギー上は内鮮一体、日鮮同祖(歴史用語としてそのまま使用する)でもあり、日本の皇族女性と朝鮮王朝の王子の婚姻もあった。戦中戦後の大半、最も件数の多い日本における異民族との結婚は朝鮮半島出身者だった(注3)。

 親族一同大賛成の結婚ではないとしても、現実には珍しくない組み合わせで、特に言語的、文化、風習的に日本に同化している世代では、家族連れを一見したところでは「国際」結婚であるとか、異民族間結婚であることなどわかりようもない。日本人だと思い込んでいる本人が知らないだけで、祖父母の代に朝鮮半島出身者がまざっていることだって大いにありうるのだ。

 社会学者の小熊英二氏が指摘したように、「単一民族国家」日本の言説としての起源は歴史的にとても浅く、あくまで戦後のことにすぎない。したがって今日的な意味での在日コリアン差別は、宗主国対植民地という、支配体系が崩壊したある種の規範の欠落した戦後の状況への反動といった要素が強い。

 戦勝国民でもない、敗戦国民でもない「第三国人」、ことに「朝鮮人」といったカテゴリーそのものが差別語たりえた理由には、戦後の混沌と、東西冷戦に伴う治安への懸案、食糧不足と闇商売をめぐる生存をかけた資源の争奪など様々な要因がある。だが根本的には、日本から見れば植民地喪失、朝鮮半島から見れば植民地支配からの解放に伴う、オフィシャルな民族間上下関係の決壊に起因していたといえる。

 奴隷制度を廃止した米国が、ほどなく南部諸州で「ジム・クロー」という名の法律的に保障された差別秩序を回復させたり、非公式の慣行として居住地の人種隔離が北部諸州でも徹底したりしていたように、一旦宗主国と植民地の間で存在していた日本における差別秩序は別の形の二重構造をもって復活、再生産され続けた。

 日本国籍の有無に基づく「当然の」差別としてリニューアルされると同時に、象徴的なレベルで差別感情をかえって激化させた。理性的判断というより、イメージとして「朝鮮人はこわい、汚い、臭い、ずるい」といった偏見として。

 戦後の在日コリアン運動の課題の一つは、マイノリティーとして自ら内面化した偏見を克服することでもあった。

遠隔地ナショナリズムから定住志向の人権運動へ

 戦後の在日コリアンの社会運動は、朝鮮半島の解放、米国、ソ連による分断占領、分断国家の樹立により、祖国志向が非常に高いところから出発している。そのため選択による日本国籍の維持を求めるような、国際法上大いにありえた植民地の喪失に伴う国籍選択権の要求は、当時の植民地独立の反動で議題にすらのぼらなかったのも無理はない。

 70年代、80年代と在日コリアンの世代の交代を経るにつれ、朝鮮半島の平和的統一や韓国の独裁政権反対といった朝鮮半島情勢も在日コリアンにとっての関心事でありつつも、日本での定住志向の人権運動へと重心が転換していった。

 いずれの時期の運動にせよ、ある種の壮絶な民族意識獲得体験を伴う、いわば「気合と根性」のエスニシティーの実践が、日本におけるマイノリティーとしての自己回復の一大飛躍ステップだったと思う。「民族的主体性の確立」や、「民族意識の追求」など、表現は多様だが、積極的かつ肯定的な在日コリアン性の追求は、ともかく強くたくましくなければならなかった。

 日本政府の難民条約批准(82年発効)は、基本的人権の尊重としての内外人平等政策推進にむけて様々な変化をもたらした。同時に内側から変革を求める住民運動も活発化していた。

 70年代の裁判闘争や行政交渉を経て、80年代は雇用機会の面においても前進した。外国籍のまま弁護士にもなれれば、コリアン名で日本の大企業に正社員として、一部の地方自治体では公務員として就職する学生も少しずつ出てきた。

 80年代の指紋押捺反対運動や各地の在日コリアンの権利に関する住民運動は、「共生」「ともに生きる」という合言葉のもとに、日本人と在日コリアンが手を携えて権利を獲得していったのである。

 既存の民族運動団体大手、韓国支持の「民団」、朝鮮民主主義人民共和国支持の「総連」の祖国志向の動きに、あらたに加わった、市民ベース、住民ベースの国籍を超えた運動が80年代に特に活発化した。いずれにせよ、それらは在日コリアン側の民族的アイデンティティーの確立を踏まえたうえでのものだ。

 80年代は戦後の在日コリアン運動の反差別、抑圧への抵抗として、外国人登録指紋押捺制度反対運動が活発で、各地で指紋押捺拒否者が続出した。91年日韓外相会談での合意を受けて、「特別永住資格」ができ、韓国籍、朝鮮籍の違いや生年月日によってきわめて複雑化していた在日コリアンの在留資格が一本化されるとともに、永住外国人に対する外国人登録の際の指紋押捺制度も、この会談の合意を踏まえて撤廃された。

一定の前進を見た処遇、その反動も強まる

 最も切実な問題、運動の課題として団結しやすい問題点(抑圧の象徴としての法的地位問題と指紋押捺問題)の一応の決着を見たことは、在日コリアンに関する社会運動がわかりやすい目標を見失うことにもつながった。またさらなる在日コリアンの世代交代も進んだ。在日コリアンのみならず他の在日外国人住民の人権、福祉、教育権を包摂した方向性に加えて、新たに地方参政権獲得運動や、権利としての日本国籍取得運動等、運動の方向性もさらに多様化していった。

 一定の前進を見た在日コリアンの処遇であるが、改善、向上とともに反動的に強まっていった動きが、今日のヘイトスピーチにつながる「在日コリアンバッシング」である。

 私が最後に日本に比較的長期間暮らしていた世紀の変わり目の時期と現在を比べると隔世の感がある。

 00年前後は、地方参政権を永住外国人にも付与しようという議論と、参政権に国籍問題を絡ませるよりむしろ日本国籍者による権利の行使という枠組みをくずさないよう、届出によって日本国籍取得が可能になるようにしようという議論とが併行していた。

 将来的な人口減少による経済規模縮小への危機感に駆り立てられた移民積極論では、より先のことを見越した在日コリアン以外の在留外国人の二世問題も見据え、思い切った移民政策の転換として、「国籍付与における出生地主義の導入」といった踏み込んだ意見もあったほどだ。

 しかし最終的にどちらも慎重意見や他の法案に優先度を奪われるうちに、うやむやになった。そして現在にいたるまで、あくまで法務大臣の裁量内での帰化制度は維持され(実際のところは法務大臣自らが一件ずつ帰化申請を審査などしていられないので各法務局担当者の判断が大きいわけだが)、参政権議論も結局頓挫した。

 その流れを振り返るにあたって、02年は重要な意味を持つ一年だ。ヨン様ブームと日韓ワールドカップ、そして小泉総理大臣の訪朝の際に、金正日総書記が日本人の拉致を認めた年だ。韓流ドラマとサッカーのワールドカップは日韓の距離を縮める一方で、反・韓流を通り越して嫌韓流をも一気に呼び込んだ。

 もちろんそれより以前の90年代以降顕著に現れた歴史修正主義、自由主義史観が、マンガなどのメディアを通じて広がっていた土壌も忘れてはならない。その延長線上に、嫌韓流も、「行動する保守」諸団体によるヘイトスピーチ、威嚇妨害行為の拡散もある。反レイシズムの対抗運動との対峙が激化するにつれ、以前より大きい扱いで報道されるようになった鶴橋や新大久保での街頭宣伝行動より、はるか以前にさかのぼる動きである。

 すでに指摘されているように、嫌韓意識は、韓国という外国に対する反感というよりはむしろ、リバイバルした「朝鮮人」差別だ。それは、「コリアン」とカタカナでポップに表記されたり、韓国の俳優やミュージシャンがどれだけ日本で人気が出たりしても、いくら在日コリアンの有名人や文化人が出てこようとも、脈々とコンスタントに続いているいびつな戦後処理と歴史認識問題の延長にすぎない。

ヘイトスピーチの組織化、ネットから街頭へ

 日本社会における体制批判は、常に匿名の脅迫にさらされてきた。70年代の靖国神社合祀訴訟の原告は日本人だが、訴訟をきっかけに、「日本人ではない」、「日本から出て行け」などと罵倒された。

 日本人ですら、反体制を訴えると非国民呼ばわりの空気がある社会だ。社会に異をとなえる存在が在日コリアンであろうものならますます「出て行け」である。

 80年代の指紋押捺拒否者に届いた大量の脅迫状は本に編まれたほどだ。朝日新聞の「ひと」欄などで紹介された在日コリアンの地方公務員のところにも、脅迫状は届いた。

 一方で、いわゆる従来の右翼のカーキ色の街宣車が、朝鮮総連本部に来るというようなこともめずらしくもなかった。(朝鮮総連は設立の55年以降一貫して、日本の政治事情、法律体系に関与しない立場であることはあまり一般の理解を得ていない)。では00年代半ば以降の「行動する保守」諸団体の行動がどのように違うのか。

 前項で嫌韓意識も従前の在日コリアン差別も同一線上にあることを述べた。その決定的な違いは、かつては個別にプライベートに表現されていたマイノリティーや体制に異をとなえる人への憎悪や敵てきがい愾心が、インターネットを通じて表現されるようになったことだ。

 公の場で表現することがはばかられるような極端な言動や、あきらかに問題をはらむ差別用語も含めて、ものの感じ方や言動が共有化され、孤立していた差別表現者が連携して市民団体を作り、ネット空間を飛び出した。

 実際に街頭で、恫喝行為にエスカレートしうる直接抗議行動が出始めた。さらにその様子が、その場で聞いている聴衆がいようといまいと、ネットの動画で再現、共有される。その動画の視聴においても、大量のヘイトスピーチにあたるコメントや支持、応援のコメントが書き込まれることによって、動画がさらに強調される。

 もちろんインターネットは基本的に、能動的に自分が検索事項を打ち込んだり、特定のサイトに自ら見に行ったりしなければ利用できないため、一切こういった動きから目をつぶることも不可能ではない。

 それでも、在日コリアンについてグーグルで検索でもすれば、一大ネガティブキャンペーンに簡単にアクセスできる。ネット上で攻撃される立場の人の最大の防御はネットを最小限しか使わないことにするぐらいだ。

マイノリティー沈黙効果、いつか来た道また帰る道

 ネットを使ってさらに拡散していく情報でも、基本は自らアクセスするというメディアとしての限界がありながらも、今日の組織化されたヘイトスピーチはマイノリティーを沈黙させる効果を持っている。

 とある「行動保守」団体による「抗議行動」に合わせて現場に出向いたことがある。
とにかく音声のボリュームが異常に高く、それだけでも穏やかではいられない。ただひたすら怖い、の一言につきる。いまどきこんなことが? と目も耳も疑い茫然自失で、遠巻きに見ているだけでも、とにかく音は響いてきて臨場感がものすごい。手がふるえて、写真の撮影すらままならない。

 最前線で抗議行動の対応をした数人はひたすら黙って聞き流すのに徹したが、心のうちを察するにあまりある。だいぶ期間をおいてその数人に連絡をとろうとしたが、結局会うことはかなわなかった。

 病気で団体をやめていたり海外留学中であったり、理由はいろいろだ。別の抗議にあった団体で対応をせまられた人にも会うことはかなわなかった。あの時のことはとにかく蒸し返したくない、考えたくもないということだった。

 そう思っても無理もない。抗議行動に名を借りた恫喝行為の映像は、ネットに恒久的に流れ続ける。一方的に罵声をあびせられる姿がさらされ続けることを想像するだけでも、たとえ実際にその人自身がその動画を目にしなくとも、精神的な二次被害、三次被害どころの騒ぎではない。

 「在特会」らのデモに参加している人々が、個々には礼儀正しい人だろうがなかろうが、単なる特定の場でのパフォーマンスだと受け流すことは私にはできなかった。

 遠巻きにしか見ていなくても、そのときの耳がびりびりとした感覚はぬけない。ましてや、至近距離から面と向かって罵声を浴び続けていた人は、どんなに屈辱を感じても、同じように裏返しの恫喝行為に陥るわけにもいかず、とにかくひたすら嵐が過ぎ去るのを待つしかない。

 その「抗議」行動で対応した人の一人は、「みんな、よく耐えた……」と仲間をねぎらっていた。言葉の暴力に言葉の暴力で返すのは、被差別体験に差別の仕返しで対抗するような不毛で無意味な行為だ。暴言に暴言を返すこともなくとにかく聞き流し、「関係者はいません」という対応で自衛する。対応をせまられた人は、ネットでさんざん悪口を言われることを予想してしまう。だから気持ちを持ち直すのに多大な時間とエネルギーを要する。私がお話を伺うことのできた関係者の、現場で対応をせまられるヘイトスピーチの攻撃対象の立場からすれば、言論の自由だのなんだの言っている場合ではない、限度を超えた行為だ。そして警察は小競り合いなどのいさかいが実際起きたりしないかぎりは、この言いたいやりたい放題を傍観するのみである。

 ヘイトスピーチによる授業妨害事件が起きた京都朝鮮第一初級学校を訪ねた時に、子どもたちのいる教室と集団で大音響でがなりたてていた校門のあまりの至近距離に、絶句するよりほかなかった(注4)。繰り返し街宣が行われた地域の在日コリアンは、「歩いていてはやしたてられたり、石を投げられたりするような時代ではなくなったはずだった」のに、その時代に逆行した感があり、「これまで世の中は少しずつ良くなるんじゃないかと思っていたけれど、どんどん悪い方向へ向かっている感じがする」と言ったあと、言葉が続かなかった。

 別の旧知の地域住民は、「在特会」らの諸団体は、「全員お金をもらってアルバイトでやっているに違いない」と信じて疑わなかった。とても自発的に参加する人たちがたくさんいる、などと思いたくない気持ちを代弁している。

 「いつか来た道また帰る道」である。そして在日コリアンがそのように思ってしまうのは、戦後60数年、変わったようで変わっていないことが多く感じられて途方にくれるからなのだ。

ストーリーありきの思い込み報道はやめてほしい

 在日コリアンとマスメディアの関係は元来いびつなものだ。マイノリティー言説ニッチのようなものがある。在日のカテゴリーを背負う人々は、日本社会の矛盾の象徴として借り出されることもあれば、逆に日本社会の制度を正当化する象徴として使われてきたように私は感じている。

 つまり、社会の変化を求める声を代弁するか、現状維持もしくは復古の声を代弁するか、の二極に収斂されがちだ。在日コリアンの知識人とされる発言権のある一握りの人々の中にも、左派的革新論客もいれば、右派的保守論客としての役割を担う人たちもいる。

 左派だろうが右派だろうが、それぞれ出自によって規定される既存のカテゴリーからの自由を求めて、それぞれの思うところを発信している。在日コリアンは常に合わせ鏡のようなもので、その表象はマジョリティー言論のマーケット次第で、いかようにも取り上げられ方が変化するようなものだ。

 一連のヘイトスピーチは、「日本人こそが被害者である」という前提だ。近年の「被害者意識」バッシングは、いかに在日コリアンが自らを被害者として主張することが許されず、マジョリティーがお墨付きを与えたときのみ被害者と認められてきたかという皮肉な事態を露呈した。

 だからといって、マスコミに一方的な被害者像をセンセーショナルに取り上げられるのも、マジョリティーの優位性に立つ者がマイノリティーになしうる力関係の押しつけなのだ。

 私にとっては、「行動する保守」の諸団体の活動が、なぜここまで恐怖を感じさせるかといえば、一般的な日本人とさほど認識のレベルが異なっているとは思えないからだ。そして彼らがかかげる日章旗は、法定化された日本国の象徴だ。それはネオナチが正当な国家シンボルではない鉤十字をかかげたり、KKKが南北戦争時の南部諸州を統合する旗を使用したりするのとは様相が異なる。さらにメジャーな政治家の歴史認識と在特会の歴史認識はあまり差がない。要職につく者のヘイトスピーチは、政治生命や社会生命にほとんど影響がない。

 私はヘイトスピーチ問題のマスコミ報道には以下のことを望みたい。

 まず、はじめにストーリーありきの報道は避けてほしい。私が昨今のヘイトスピーチ報道で見かける「在特会」らの「行動する保守」団体関係者の定型化した描写には、そういった団体の行動そのものが信じられない私ですら、「反差別の逆差別言説創出」の流れを感じ取ってしまう。

 ヘイトスピーチをめぐる報道をするのも、差別、反差別は全ての人にかかわる切実な問題だ、ということを踏まえたうえで、もっと双方の当事者の話を直接聞いてほしい。

 いつも似たような組み合わせの「識者」のコメントで安易に状況を図式化、様式化、簡潔化させないでほしい。わかりやすい善悪二分論に収められる話をあえて引き出すような取材ではなく、多くの語らない、語れない人の話を、先行するイメージなしで耳をかたむけてほしい。それは社会科学上の質的調査でも注意しなければならないことと同じだ。聞きたい話を取れた時点で取材の手を止めずに、丁寧にもうあと数人だけでも話を聞いてほしい。

 最後に、これまでも幾度となく指摘されてきたように、日本人が日本人として日本社会をどのようにしていきたいのか。マジョリティーががんばらなければいけない問題に、これ以上在日コリアンを強くがんばらせないでほしい。

 気合と根性のエスニシティーは弱者をおのずとはじきだす反差別が差別を呼ぶ土壌にもなりやすく、それではあまりにも20世紀すぎる。

1 例えば田久保忠衛編著『「国家」を見失った日本人-外国人参政権問題の本質』(小学館文庫2000)

2 福岡安則『在日韓国・朝鮮人-若い世代のアイデンティティ』(中公新書1993)

3 竹下修子『国際結婚の社会学』(学文社 2000)

4 京都朝鮮学校襲撃事件と関係者の対応については、中村一成氏が「世界」の誌上において詳報している(2013年7~9月号)。この事件に関しては、京都地方裁判所が民事裁判の判決を10月7日に学校側の請求を一部認める形で言い渡したが、被告側は控訴した。

謝辞
トヨタ財団による共同研究助成プログラムなしには、日本でのフィールドワークは実現しなかった。厚く御礼申し上げる。下書きに目を通し、貴重なコメントを下さった斉藤正美さん、朝日新聞仙台総局石巻駐在の小野智美記者、日本でお話を伺わせていただいた関係者の皆様、フィールド調査の相方、鄭幸子さんにも謝意を表したい。

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りむよんみ

ニューヨーク市立大学非常勤講師。

1964年東京生まれ。ニューヨーク市立大学グラデュエイトセンター社会学博士課程終了。社会学博士(Ph.D.)。発表論文 “Reinventing Korean Roots and Zainichi Routes: The Invisible Diaspora among Naturalized Japanese of Korean Descent”(2009)(In Diaspora without Homeland: Being Koreans in Japan, edited by Sonia Ryang and John Lie, Berkley and Los Angeles: University of California Press. pp. 81-106.)等。

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本論考は朝日新聞の専門誌『Journalism』11月号から収録しました。同号の特集は「ヘイトスピーチを考える」です