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安倍政権の解釈改憲の動きは行使容認の立場から見ても危険だ―『Journalism』5月号から―

木村草太

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1 政府の憲法解釈をめぐる動き

拡大朝日新聞2013年8月27日付朝刊
 昨年夏、安倍晋三政権は、法制局勤務経験のない外交官・小松一郎駐仏大使を内閣法制局長官に就任させる人事を行った。内閣法制局長官は、法制局勤務経験の豊かな内閣法制次長を昇格させるのが慣例だったので、かなり異例の人事である。小松氏は集団的自衛権行使容認派とされていたため、この人事は、従来の内閣法制局の解釈を変更し、現行憲法下で集団的自衛権の行使を容認する解釈を採用するためだと報道された。

 この人事は8月2日、読売新聞朝刊が特ダネとして報じ、一面には「法制局長官 解釈見直し派」という大きな見出しが躍った。また、読売新聞は翌3日の紙面で、首相の諮問会議である「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)の議論の動きも紹介している。

 その後、昨年中は、特定秘密保護法の制定などもあり、憲法解釈変更をめぐる大きな動きはなかった。しかし、年明けの通常国会では、安倍首相の積極的な発言が相次いだ。

 2月12日には、衆議院予算委員会で大串博志議員(民主)から「政府が適切な形で憲法解釈を明らかにすることによって集団的自衛権の行使は可能であり、憲法改正が必要だという指摘は必ずしも当たらないと。これは、先ほどお話があったように、政府としてはこの答弁をしたことはございません。新しい意味としてこの答弁をされたのか、総理の御存念をお聞かせください」との質問に対し、次のように回答する。

拡大朝日新聞2014年2月14日付朝刊
 先ほど来、法制局長官の答弁を求めていますが、最高の責任者は私です。私が責任者であって、政府の答弁に対しても私が責任を持って、その上において、私たちは選挙で国民から審判を受けるんですよ。審判を受けるのは、法制局長官ではないんです、私なんですよ。だからこそ、私は今こうやって答弁をしているわけであります。(2月12日、衆議院予算委員会、安倍首相発言)

 この発言は、いささか論旨が不明確である。しかし、内閣法制局などを全く無視して、自らの独断で憲法を解釈する姿勢を示したものとも解釈できるため、立憲主義の否定だと批判され、大きく報道された。

 その後、その懸念を裏付けるかのように、安倍政権は、閣議決定によって解釈を変更する姿勢を打ち出した。これに対しては、とくに野党から、国会での議論を軽視するものと強く批判された。さらに、連立政権を組む公明党の慎重な姿勢や、自民党内からの異論もあり、政権は、ある程度慎重な姿勢を示すに至っている。

 もっとも、慎重姿勢に転じたとはいえ、政権の動きは、海外での武力行使の可能性を、「内閣」というごく一部の者の判断で広げようとするものであり、極めて危険なものである。そこで、以下では、そもそも憲法解釈とは、どのような営みなのか、という点を検討し、安倍政権の動きのどこに問題があるのか、また、それはどのように報じられるべきなのか、を分析することにしたい。

2 憲法と立憲主義

 「憲法」とは、一言で言えば、国家権力を統制するための法典である。では、なぜ国家権力は、法によって統制されなければならないのだろうか。

 (1)個人の尊重
 国家権力を法で統制すべき第一の理由は、「個人の尊重」の理念である。

 そもそも国家を作る理由は、すべての人が人間らしく安心かつ幸せに暮らせるよう、しっかりした秩序を作るためである。しかし、ひとたび秩序が成立すると、少数派の弾圧が、権力者にとって秩序維持のための魅力的な選択肢となる。差別の対象になっている少数派を攻撃しても、反発するのはごく少数だし、他の多くの国民の支持も高まる。このため、一部の人の信仰や表現の自由を奪ったり、不平等な課税が行われたりする例は多い。

 しかし、そうした少数派の弾圧は、何ら正当性を説明できない不正義だろう。また、人は誰しもが異なる個性を有するが故に、何らかの意味では少数派である。とすれば、一部の少数派を弾圧すれば、他の市民は、よほど自分が「多数派」であると過信でもしていない限り、次は自分ではないかと不信を持つだろう。

 したがって、少数派を平然と弾圧する国家権力は、結局、すべての国民の支持を失い、非常に不安定なものになる。そうなれば、国家権力は社会秩序を維持する力を失い、国民は無政府状態に苦しまなくてはならなくなる。

 このため、国家を作る際には、個人の権利を保障し、一人ひとりの国民を個人として尊重する法を定めておく必要があろう。

 (2)権力独占・濫用の防止
 第二の理由は、権力独占・濫用の防止である。

 それまでどんなに好人物であろうと、一度権力の座に就いた人間は、権力を独占し好き勝手に権力を行使しようとする傾向がある。歴史をひもとけば、「首相」や「大統領」の地位にある人が、議会や裁判所の権限を縮小し、自分の権力を拡大しようとした事例は枚挙に暇がない。ナチス政権は、議会の権限をまるまるヒトラー内閣に委譲する授権法を制定してしまった。また、現代世界を見渡しても、権力独占への欲望は至る所に見られる。

 そして、権力独占は権力濫用を招き、極めて悲惨な事態をもたらす。内閣などごく一部の者の判断で、軍や警察を動かせるので、無謀な戦争や不当な逮捕が横行する。また、経済政策や社会保障政策でも、国民一般の利益を無視した不合理な措置が採られたりする。こうした事態は、絶対に防がなくてはならないだろう。このためには、権力の独占・濫用を防止する法を定めておく必要があろう。

 (3)国家権力の予測可能性
 続く第三の理由は、国家権力に予測可能性を与えることである。

 国家権力の行動は、国民生活に重大な影響を与える。このため、国家権力の行動基準を、予め明確に定め、国民がそれを予測しやすくしておく必要がある。例えば、刑法が存在せず、何をすると罰せられるかが不明確であったなら、国民は、いつ罰せられるか分からない極めて不安な状態に置かれるだろう。

 国家権力は普通の人と異なる強大な権力を有するからこそ、国家権力の将来の行動を予測できることが、国民にとって重要となる。

 (4)立憲主義
 以上のように、個人を尊重し、権力独占・濫用を防止し、国家権力に予測可能性を与えるために、国家権力を統制するための法典が重要になる。

 その法典には、個人の権利保障や、権力独占を防止するための権力分立規定などの内容が盛り込まれる必要があろう。また、予測可能性の確保という観点から、その法典は、国家権力を行使する前に、予め明確に規定され、公示されたものであることが好ましい。このような権利保障と権力分立を内容とする公示された法典を制定し、国家権力を統制すべきだ、という原理を立憲主義という。

 そして、立憲主義の原理に基づき制定された国家権力統制のための法典を「憲法」と呼ぶ。日本の場合には、「日本国憲法」がそれに該当する。

3 憲法解釈とは何か?

 「憲法」とは何かが明確になったところで、その「解釈」について考えよう。「個人の尊重」「権力独占・濫用の防止」「予測可能性の担保」という立憲主義の考え方からすれば、憲法は、いかなる場合に誰が読んでも同じ帰結が出るような明確で詳細な文章であることが望ましい。

 例えば、首相や大統領の任期の規定が、「国民の支持のある限り」のように曖昧だと、人によって判断が分かれてしまう。そうなると、腐敗した長期政権の居座りを許してしまったり、選挙日程などの政治の見通しをつけることができなくなったりする。そこで、そうした職の任期は、「下院が不信任決議を可決するまで」とか、「4年」といった誰でも明快に判断できる文言を使うべきである。

 (1)抽象的な文言の必要性
 とはいえ、明確で詳細な憲法という理想を完全に実現するのは、難しい。

 まず、憲法が適用される場面は非常に多様であるため、統治の基本原理や個人の権利保障は、抽象的な理念や原理を表す文言で規定せざるを得ない場合もある。例えば、憲法14条1項が保障する平等権は、租税徴収や刑罰、社会保障など多様な場面に適用される。それを「所得税を課す場合には○○を等しくしなければならない、常習窃盗の加重は○○の範囲でなければならない……」といった形で、場面ごとに詳細に規定して行けば、憲法14条はそれだけで膨大な法典になってしまうだろう。そこで、「法の下に平等」という抽象的な文言が採用されている。

 また、憲法を制定した時点では存在しなかった技術や社会状況が生じることがある。例えば、日本国憲法制定時には、テレビやインターネットなどの技術はなく、プライバシー権の社会的意義も大きくはなかった。このため、憲法には、プライバシー権を明文で規定した条文はない。しかし、憲法を改正しない限り、プライバシー権を侵害し放題だ、というのは妥当ではないだろう。時代状況の変化に対応しながら人権保障を適切に実現するために、憲法には、柔軟な文言を使った条項を入れておくのが好ましい。

 このように、国家は様々な領域で様々な活動を長期にわたってするため、それらすべてをカバーするためには憲法の文言は抽象的にならざるを得ない。この抽象的な文言を具体的な事案にあてはめるために、憲法解釈が必要になる。

 (2)具体的な文言の限界
 では、文言が具体的であれば解釈が不要かというと、そうではない。一つの法典であらゆる適用事例の扱いを網羅的かつ明確に規定することは、実際の出来事がすべて固有性を有する以上、原理的に不可能である。

 例えば、多くの国の憲法には、首相が死亡したり病気で意識を失ったりした場合の規定があるが、強度の躁うつ病になった場合や山で遭難した場合について明確に定める規定はない。しかし、そうした場合に、死亡などに準じて特別な扱いをしなくてよいのだろうか、といったことは問題になるだろう。

 このように、具体的に規定された文言がある場合に、文言上は必ずしもあてはまらないように思える事案でどう対応すべきかを考えるためにも、憲法解釈が必要になる。

 (3)憲法理解の対立
 憲法解釈、すなわち、憲法に規定された抽象的文言をどう具体化するか、あるいは、具体的文言のエッセンスをどう抽象化するかについては、しばしば複数の理解が対立する。

 こうした場合、複数の解釈を吟味し、どれが一番妥当かを検討して、一つに統一・画定する作業が必要になる。これが、憲法解釈学という作業である。憲法を解釈する人は、普通は自分の解釈が正しいという主張を含んでいるので、憲法解釈学のことを単に「憲法解釈」という場合も多い。

4 どう憲法を解釈すべきか?

 では、そうした場合、どのように憲法を解釈すべきだろうか。

 憲法解釈は、異なる考えが対立している場合の作業である。そうした場合、もし、自分の主張を一方的に押し付ける態度をとれば、相手はもちろん納得しないだろう。さらに、第三者がそれを正当な解釈だと考えてくれる可能性も低いだろう。このため、憲法解釈にあたっては、自分の主張をただ強硬に押し通すのではなく、相手や第三者も「なるほど」と思うように、十分な説明ができる解釈を示すべきである。

 (1)権力抑制と権利尊重
 では、それは、どのような解釈か。まず重要になるのは、憲法解釈者が共通の基盤としているところに立ち戻ること、つまり、立憲主義の原理に立ち戻った上で、これに適合していることを示すことである。具体的には、次のようなことを言う。

 まず、立憲主義の原理からは、個人の権利を尊重する解釈が求められる。憲法は、少数派の弾圧を防止し、正義に適った統治を進めるための法典である。このため、少数派の弾圧を容易にするような解釈は、やはり説得的ではない。

 また、立憲主義の原理からすれば、憲法は、権力制限的に解釈されなくてはならない。先ほど述べたように、憲法は、権力の独占を禁止し、その濫用を防止するための法である。このため、国家権力の独占や拡張を認める方向での解釈は、基本的に説得力がない。

 このように、立憲主義の原則に、より適合する解釈の方が説得力を持ち、相手方や第三者の納得を得やすい。

 (2)解釈の整合性と安定性
 また、立憲主義に基づく予測可能性の確保という観点からは、解釈の整合性と安定性という視点も重要である。

 まず、解釈の整合性とは、ある解釈が、憲法の他の条項やその解釈と整合的であることを意味する。例えば、憲法65条は、「行政権は、内閣に属する」と定めるが、この「行政権」に侵略戦争をする権限が含まれるとの解釈は、戦争放棄を規定した憲法9条と整合的でない。国民は、憲法9条の文言から、政府は戦争をしないだろうと予測するはずなので、こうした整合性のない解釈は、国民の予測可能性を大きく裏切るものになる。

 さらに、解釈の安定性という観点も重要である。憲法の条文には、様々な解釈の可能性がある。しかし、様々な解釈が積み重なる中で、国民や法律家の間で、一定の理解が共有されるに至る場合がある。例えば、憲法44条は、国会議員の選挙人の資格を「人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならない」と定める。この文言からは、選挙区ごとの定数不均衡(投票価値の不平等)が禁止されるかどうかは定かではなく、憲法制定当初は、その点について争いがあった。

 しかし、現在では、多くの法律家・国民は、投票価値の平等は、憲法上の要請だと理解しているし、歴代政府もそう理解してきた。このため、ほとんどの国民は、国会や政府は、それを前提に行動するだろうと信頼し、また予測している。このような場合に、国会や政府が、それと異なる解釈を採用し、投票価値の不均衡を拡大させるような政策をとるのは、国民の信頼や予測を裏切る。これは、予測可能性の確保という観点から好ましくない。

 このように、整合性と安定性ある解釈は、予測可能性の確保につながる。

 (3)バランスのとれた解釈
 このように、憲法解釈は、権利尊重と権力抑制の理念との適合性、他の条文との整合性、解釈の安定性といった要素を考慮して行うべきである。そして、今述べてきたような諸々の要素は、しばしば対立するという点にも注意が必要である。

 例えば、ニューディール期のアメリカ連邦最高裁判所は、ルーズベルト政権の社会政策立法に違憲判決を連発し、司法部門と政治部門の緊張関係を招いた。これは、「社会政策立法はそれまで自由に行使できた財産権や契約の自由の侵害であり、権利尊重に反する」と考えた裁判所が、権利尊重を重視する半面で、裁判所の権限を拡張しすぎたせいで、権力分立の理念から好ましくない事態を生じさせたものである。

 また、不当な解釈が積み重なっている状況で、解釈の安定性を強調しすぎると、権利尊重や権力分立の理念から好ましくない事態が生じる。現在の憲法規定の下では、内閣は何時でも自由に衆議院を解散できるという解釈が一般的で、国会議員や歴代政府もそう解釈してきたが、近年、一部の憲法学説は、それでは与党が有利なタイミングを選んで選挙をできるので不当ではないかと主張している。こうした場面で、解釈の安定性を優先させれば、より良い権力分立のあり方は実現できないかもしれない。

 では、どのようにバランスをとるべきだろうか。重要なのは、「国家はそもそもすべての人が人間らしく安心かつ幸せに暮らせるようにするために設立されたものだ」という大原則を忘れないことである。

 この大原則によるならば、権利尊重のための変更は、予測可能性を多少犠牲にしても許されることになる。なぜなら、予測可能性は権利の尊重を実現するための手段であって、権利のより尊重された社会への変化は、国民の期待でもあるからである。

 他方で、国家権力の拡大や、国民の権利制限のための変化は、許されないことになろう。なぜなら、国家権力の拡大は権力濫用の危険を高め、国家の本来の目的に反する危険が高いからである。

 (4)説得力のある憲法解釈
 ところで、憲法解釈の最大の難しさは、何が権利尊重で何が権利制限か、何が権力拡大で何が権力抑制かといった判断そのものが、なかなか峻別できないところにある。先に例に挙げたニューディール政策も、裁判所は財産権の制約と判断したが、政権の側は市民生活改善のための政策ととらえた。また、裁判所は政権の活動を市民生活への不当な介入と判断したが、政府の側はむしろ裁判所の判断こそ不当な介入だと訴えた。

 こうした判断を適切にしていくには、国家と人権の歴史や、諸外国の憲法制度、あるいは日本の法制度・社会実態についての専門知識も必要だろう。国家は人権を抑圧しようとするとき、正面から「人権を抑圧します」とは決して言わない。それらしい大義名分を準備するものである。あるいは、善良な意図で作られた法律も、それを運用する人が悪用する可能性もある。そうした事態に備えるためにこそ、どういう形で人権侵害が起きやすいのかについての豊富な知識が重要なのである。こうした専門知に裏打ちされた解釈こそが、対立する相手や第三者にも、説得力を有する。

 このように、一定の専門知識を踏まえ、立憲主義への適合性や他の条文との整合性・解釈の安定性などの諸々の要素に十分な配慮ができていないと、対立する相手や第三者に対して、十分な説明ができる解釈は示せない。

 では、十分な説明のできない解釈をすると、どのような問題が起きるのだろうか。まず、そのような解釈は、国民や法律家の納得を得られない。そうした解釈をもとに国家権力を行使すれば、憲法を無視した暴挙と批判され、政権に対する支持は低下するだろう。

 また、裁判所が、その解釈を採用しない、という問題も大きい。憲法や法律の条文について理解が分かれた場合、統一的な解釈を決定する権限を司法権という。憲法76条1項は、この権限を裁判所の権限だと定めている。したがって、政府や国会が「憲法をこう解釈すべきだ」と主張しても、最終的に憲法解釈を画定するのは裁判所である。とすれば、裁判所に採用され得ない憲法解釈をもとに立法をしたり、権力を行使したりすれば、違憲の評価を受け、損害賠償を命じられたり、刑罰を科されたりするかもしれない。

 したがって、憲法を解釈する場合には、本節で述べた要素に十分な配慮をした慎重な態度が必要である。

5 政権の憲法解釈をめぐる動きの評価

 さて、以上の議論を踏まえたとき、冒頭に紹介した政権の憲法解釈をめぐる動きは、どのように評価できるだろうか。また、それはどのように報じられるべきだったか。

 (1)内閣法制局の人事
 まず、内閣法制局と政府の憲法解釈について、考えよう。

 一度成立した法律が、後になって裁判所に違憲と判断されれば大きな混乱が生じる。例えば、年金法が違憲無効になれば、それに基づき給付した年金をすべて回収しなければならない。そこで、内閣は、法案作成段階で、法律専門家の助言を聞いておく必要がある。こうした助言を行うための組織が、内閣法制局である。株式会社における「法務部」や「顧問弁護士」だと思えば、分かりやすいだろう。さて、その職務の性質上、内閣法制局の長官には、法的専門知識が要求される。このため、長官は、法制局勤務経験のある者から選ばれてきた。

拡大朝日新聞2014年3月14日付朝刊
 これを踏まえると、歴代の内閣が、内閣法制局の法解釈を尊重してきたことにも十分な理由がある。法制局のような法律専門家の助言を無視すれば、裁判所に違憲・違法と評価される危険が高い。

 さて、こうした観点からすると、法制局長官人事は、十分な法的専門知識を持つ者であるか否か、を基準に行われるべきである。そして、その基準に照らすと、法制局勤務経験のない外交官を、唐突に内閣法制局長官に据える人事は適切でない。とすれば、昨年夏の法制局長官人事に対し、長官としての資質の不十分さを批判する報道を行うべきだっただろう。

 では、実際の報道は、どうだったか。この点、今回の報道の多くは、集団的自衛権行使容認の賛否という基準で、今回の人事を評価していたように思われる。

 しかし、仮に集団的自衛権の行使が政策的に望ましく、かつ、小松氏がそれに賛成する政治的信条を持っていたとしても、そのことと法的専門知識を持っているかどうかは別問題である。もし、十分な資質を持たない者が法制局長官になれば、様々な法領域で違憲な立法が行われてしまう可能性が高くなる。

 したがって、集団的自衛権行使を容認すべきという立場をとるメディアであっても、今回の人事を批判的に報道すべきだったのではないだろうか。

 (2)憲法と集団的自衛権
 では、そもそも、現行憲法下で集団的自衛権を行使できるとの解釈は妥当なのだろうか。

 これまでの日本政府は、概ね次のように解釈をしてきた。まず、憲法9条は、日本政府による対外的な実力行使一般を禁じている。このため、対外的な実力行使をするには、それを正当化する憲法上の根拠が必要になる。この点、自国の自衛行為(個別的自衛権の行使)については、憲法上、日本政府が日本国民の生命や安全を保護する義務を負っているという点から説明できる。しかし、他国の自衛を援助する行為(集団的自衛権の行使)については、それを義務としたり、日本国の業務に含めたりする憲法規定が存在しない。また、そうした行為を行う場合の手続の規定もない。したがって、集団的自衛権の行使は、憲法上想定されておらず、違憲である。

 こうした解釈は、幾つかの観点から正当化できる。

 まず、対外的な実力行使は、攻撃対象となる外国政府や外国人にとってはもちろんのこと、国内に対しても多大な影響を及ぼす権力作用である。対外的に実力を行使することになれば、莫大な財政出動が必要となるし、それに伴う増税・国債発行による国民経済への影響は大きい。また、多くの人が生命の危険にさらされる。したがって、権力抑制の観点からも、権利尊重の観点からも、憲法は、対外的実力行使を抑制する方向で解釈すべきだろう。

 また、それを根拠づける規定がないという点は、憲法条項の整合性という観点から、非常に重要視される要素である。

 さらに、解釈の安定性という観点からも、今回の政権の動きには問題が大きい。これまで、歴代政府は、集団的自衛権は行使できないとしてきた。また、現行憲法下で集団的自衛権を行使できるとの見解は、憲法学説の中でもごく少数にとどまる。

 このため、多くの日本国民は、現行憲法下では日本政府は集団的自衛権を行使しない、という予測を前提に行動している。もし今、解釈を変更し、集団的自衛権を行使すれば、多くの国民の予測を裏切ることになるだろう。

 このように、現行憲法下で集団的自衛権を行使できるとの解釈には、問題が多い。そして、この点は、今回の動きに批判的なメディアで指摘されていたように思われる。

 (3)強引な解釈を進めた場合の問題
 もっとも、こうした不適切な解釈を、敢えて推し進めた場合に「どんな悪いことが起きるのか」という点について、メディアの検証は不十分だったように思われる。

 先ほど述べたように、政府が不当な憲法解釈を行うことは、政府の信頼を維持する上で好ましくない。政府の信頼低下は、安全保障の領域のみならず、経済政策や社会保障など、様々な点で弊害をもたらす。そうした射程を広げた弊害の検討が必要だったのではないだろうか。

 また、ほとんどのメディアで、裁判所という視点が欠けていたことが残念だった。先ほど述べたように、最終的に憲法解釈を画定するのは裁判所である。そして、安倍政権が採用する解釈は、法律家や国民の支持を得られず、裁判所に採用されない可能性も高い。そうすると、解釈を変更し、集団的自衛権行使法を制定したとしても、それに基づく自衛隊の海外派遣は違憲と評価される可能性が高い。

 これは、戦慄すべき事態である。誤った憲法解釈に基づく派遣命令やそれに伴う諸々の措置のすべてが違憲無効になれば、政府は、莫大な損害賠償責任を負うことになる。また、派遣命令が無効になれば、自衛隊の規律は大きく乱れる。さらに、違憲な命令を出した政府や自衛隊幹部が刑事責任を負う可能性すらある。そのような極めて不安定な法的基盤の下に、生命の危険を伴う任務を命じるのは、非常に無責任な態度と言わざるを得ない。

 とすれば、集団的自衛権行使を容認すべきだと考えるメディアであっても、このような強引な解釈変更の妥当性は慎重に検討すべきだったと思われる。

 しかし、そうしたメディアは、裁判所や法律家の判断について掘り下げておらず、安倍晋三首相や北岡伸一氏(安保法制懇座長代理)へのインタビューでも、裁判所に違憲と判断される可能性については質問をしていなかったように思われる。

おわりに

 以上に見たように、安倍政権の動きは、集団的自衛権を行使すべきでないという立場からはもちろん、その行使を容認すべきという立場から見ても、極めて危険なものを含んでいる。

 とすれば、各メディアは、今一度、憲法解釈という営みの意義を再確認し、政権の動きを批判的に検証すべきであろう。それができていない現状は、様々な意味で危機的である。

     ◇

木村草太(きむら・そうた)
首都大学東京准教授、憲法学者。
1980年生まれ。東京大学法学部卒。東京大学法学政治学研究科助手を経て、2006年から現職。著書に『平等なき平等条項論』(東京大学出版会)、『憲法の急所』(羽鳥書店)、『キヨミズ准教授の法学入門』(星海社新書)『憲法の創造力』(NHK出版新書)『テレビが伝えない憲法の話』(PHP新書)、共著に『憲法学再入門』(有斐閣)、『未完の憲法』(潮出版社)など。

※本論考は朝日新聞の専門誌『Journalism』5月号から収録しています。同号の特集は「集団的自衛権を考える」です


筆者

木村草太

木村草太(きむら・そうた) 首都大学東京准教授、憲法学者

1980年生まれ。東京大学法学部卒。東京大学法学政治学研究科助手を経て、2006年から現職。著書に『平等なき平等条項論』(東京大学出版会)、『憲法の急所』(羽鳥書店)、『キヨミズ准教授の法学入門』(星海社新書)『憲法の創造力』(NHK出版新書)『テレビが伝えない憲法の話』(PHP新書)、共著に『憲法学再入門』(有斐閣)、『未完の憲法』(潮出版社)など。