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経済政策を隠蔽する用語として アベノミクスは役割を果たしている ―『Journalism』10月号から―

小田嶋 隆

 昨年の暮れか今年のはじめだったと思うのだが、さる週刊誌の編集部から安倍政権について電話取材があった。

 担当の記者は、最初に「アベノミクスの正否についてどのように考えるか」といった感じの質問を投げかけてきた。

 私は、しばらく考えて「大成功だと思いますよ」と答えた。相手は意外そうな声で、「なぜですか?」と尋ねてきた。

 おそらく、編集部は、アンチ安倍側のコメントを調達する要員として、「オダジマ」の名前をリストアップしていたのだと思う。であるから、「アベノミクス大成功」という私の回答は、彼らにとって想定外だったのだろう。

 「だって記事を書く人たちがアベノミクスという言葉に乗っかった企画を立てている時点で、安倍さんの狙いは大当たりじゃないですか」と、私は、電話に向かってこんな感じのお話をしたのだが、記者さんは、わかったような、わからないような返事をして話題を変えた。

 ちなみに、この時の電話取材は、記事にならなかった。以来、私の見方は変わっていない。アベノミクスは成功している。それも、望外の大成功をおさめた。そう申し上げなければならない。

 理由は、さきほども述べた通り、あらゆるメディアが「アベノミクス」という言葉を使っているからだ。

総理の名前を冠しただけの「オレオレ経済政策用語」

 誤解してもらっては困る。経済政策としてのアベノミクスが成功しているのかどうかは、私にはわからない。そんなことを私に尋ねられても困る。

 であるから、その点については、「わかりません」とお答えしておく。

 その上で、私が強調したいのは、「アベノミクス」が、経済政策として機能する以前に、むしろ、経済政策を隠蔽(いんぺい)する用語として、見事にその役割を果たしているということだ。

 思うに、政権の側が用意したスローガンなりキャッチフレーズを、メディアの人間がそのままのカタチで使ってしまうことは、その媒体が政府の御用聞きに成り下がったことを意味している。

 新聞社の中で記事の差配をする立場にある人間が、政府のプレスリリースに書いてある経済政策のタイトルを、丸写しのカタチで見出しに採用していたのだとしたら、そのデスクなり編集長なりは、職務放棄をしていると言われても仕方がないということだ。

 しかも、そのタイトルが、よりにもよって、「アベノミクス」だ。言ってみれば、総理の名前を冠しただけの「オレオレ経済政策用語」だ。

 こんなずうずうしい名乗りを、うやうやしく拝受して、そのまま見出しに書いてしまうやりざまは、所作としては召使のそれに近い。

 三太夫根性と申し上げてもよい。「殿のおぼしめしはアベノミクスなるぞ」てなことを、大音声で呼ばわりながら松の廊下を走り回る木っ端役人とどこが違うというのだ?

 当稿では、「アベノミクス」という名前が、何を意味し、何を隠蔽しているのかを明らかにし、この言葉を使っている人間が、どんなふうに思考停止し、いかなる経路で敵の思うつぼにハマっているのかを解明したいと考えている。

総称が目立ちすぎ個々の政策の詳細が不明に

 経済に関するお話は書かない。

 理由は、私にとって経済が専門外だからでもあるが、それ以上に、「アベノミクス」が、経済用語ではないからだ。

 さよう。アベノミクスは、経済用語ではない。経済隠蔽用語だ。

 「アベノミクス」は、国民の目を経済の実態やその政策の正否からそらせるために発明された戦略的目くらましワードだ。

 個々の金融政策促進策や、財政出動や、税制改革や、民間投資については、それぞれの名前があり、それぞれについて詳細な説明がある。

 それらの、個々の施策や方針について、相応の解説を付す記事が書かれているのであれば、それを読んだ読者は、個々の政策なりについて賛否を述べることもできるし、疑問を呈することも可能だ。場合によっては、反対運動を始めることだってできるだろう。

 が、それらを総称して、「アベノミクス」と表記してしまったら、記事の書きようはずっと窮屈になる。説明だって簡単にはできなくなる。

 なぜなら、総称はあくまでも総称で、その内には、膨大な内実が含まれているからだ。そんな大掛かりなものをいっぺんに説明することなど、できるはずがないではないか。

 で、結果として、いきなり持ち出された総称は、その内部に畳み込まれた未検討の内容をまんまと隠蔽するに至るのである。

 たとえばの話、憲法について考える時、どんなにアタマの良い人間であっても、個々の条文のそれぞれの意義と内容について、ひとつずつチェックしないとその全体像を把握することはできない。

 説明する場合も同様だ。

 日本国憲法を3行で説明しろ、と言われて、3行で説明できてしまう人間がいるのだとしたら、その人間は、うそつきだ。でなければ、バカだ。

 現代は、忙しい時代だ。

 あらゆる事象を5秒で切り取り、3行で説明する有識者が求められている。

 じっさい、テレビのスイッチを入れると、要約専門の、説明能力の権化みたいなコメンテーターが、世界中のすべての事件を5秒でやっつけていたりする。

 でも、経済政策は、無理だ。

 説明するにしても、補足するにしても、反論を加えるにしても、3行で要約することは到底不可能だ。

 憲法についても同様で、あたりまえに勉強するつもりなら、面倒なようでも、一文ずつ、すべてを読まないといけない。でないと、全体どころか、一部分さえ理解することはかなわない。

 憲法を総称して「オレたちの大切な法律」と名づけたからといって、その中身が了解できるようになるわけではない。アタマに入るわけでもない。

 なのに、経済政策については、われわれは、それをやっている。「アベノミクス」という安易なタイトルをつけて、それで、わかった気になっている。

 だからこそ、週刊誌の編集部は、「アベノミクスを支持しますか?」などと、およそ大雑把な質問を繰り出すことができるのであり、その空恐ろしい質問に、わかってもいないくせに回答を提供できる有識者がいるからこそ、記事が刷り出されてきたりもするわけなのだ。

キャッチフレーズは思考停止ワード

 しかもその「アベノミクス」なる総称は、安倍首相の名前を冠して「安倍政権の経済政策」である旨を宣明している。ということはつまり、この名前は何も言っていないに等しい。

 いいかげんなビストロがメニューに載せている「シェフの気まぐれサラダ」みたいなもので、客の側からはレシピの内容を類推することさえできない(まあ、どうせ、板場の残り物をかき集めて盛り合わせただけのものなのだ)からだ。

 政府の打ち出してくる経済政策に端的なタイトルを付与するのは、本来ならメディアの仕事だ。

 が、昨今の新聞社の偉い人たちは、その神聖なる業務を放棄している。

 政府が「骨太の方針」と言ってくれば、その日本語の気持ち悪さを検証することもせずに、そのまま「骨太の方針」という名前で記事を書いてしまう。

 「おい、『骨太』ってなんだ?」

 「辞書を引くと、《骨格が頑丈な様子》ぐらいの意味らしいけど、政府の方針の大枠に、あらかじめ自画自賛の形容詞がついているのはいかがなものか?」と、単なる一読者にすぎない私でさえ、反射的に疑問を抱かずにおれなかったというのに、記事を吟味し、見出しを考案するはずになっているデスクの人は、何の不審も抱かずに、「骨太の」などといった、たわけたタイトルを通してしまったわけだ。なんということだろう。

 で、以来、新聞各社は「今年度の『骨太の方針』は」などと、政府が発表するままの我田引水のキャッチフレーズを丸のみのまま、右から左に垂れ流している。

 「構造改革」も、「郵政民営化」も同様だ。政権の側の言い方をそのまま使って記事を書いている。

 「ねじれ解消」や「決められる政治」に至っては、新聞社の側が野に下って苦しんでいた当時の自民党の意向を忖度(そんたく)して、彼らに都合のよいお題目を考案してさしあげた気味さえある。

 どういうつもりなのだろうか。

 いずれにせよ、ひと息で発音できる耳に心地よいキャッチフレーズがデスクの前に転がっていれば、彼らはそれを見出しに使って記事を大量生産しにかかる。

 中身は問わない。

 というよりも、彼らは、ひと目見ただけですべてがわかった気になる言葉が、優秀なヘッドラインなのだと考えているわけで、しかも、その種の「思考停止ワード」を多用すればするほど、紙面の魅力がアップすると思い込んでいる。

人名が入ることで政策の内容がぼける

 アベノミクスは、その典型例だ。

 内容が希薄で、なおかつ語呂がいい。

 だから、どこにでもどうにでも使いやすい。

 問題は、「アベノミクス」のようなアタマに人間の名前を冠した言葉を安易に流布させてしまうと、そのタイトルが指し示すところの内容について吟味することが、次第に困難になることだ。

 これは非常にやっかいな副作用だ。

 単純な話、「アベノミクスを支持するか?」と質問された時、多くの人間は、「アベノミクス」が本来意味している「安倍政権下で実施されている各種の経済政策」の内実について考えない。

 質問された人間は、「アベノミクス」に含まれる「アベ」という接頭辞に反応して、反射的に安倍晋三氏個人への思いを語るか、あるいは、安倍政権自体への賛否を答えることになる。

 この質問がたとえば、「消費増税」なり「金融緩和」なりという、特定の施策についてその賛否を問うものであったなら、人々の回答もまた、個々の経済政策への評価になったはずだ。

 つまり、「アベノミクス」という言葉を使った瞬間に、その内実は、支持する場合でも不支持を表明する場合でも、経済そのものとは一歩遠ざかった、曖あい昧まい模も糊ことした像を結ぶことになるということで、結局のところ、「アベノミクス」は、人々の目から、「経済」を隠蔽する役割を果たしているのである。

政策の名前なのに権威や称賛のニュアンス

 もうひとつ言うと、「アベノミクス」は、用語として、あらかじめ一定量の「権威」ないしは「称賛」を含んでいる。この点で、現職の総理が打ち出している現在進行形の経済政策に冠せられるタイトルとしてはふさわしくない。というか、どうにもこうにもアンフェアなのだ。

 一般に、なにかのタイトルとして、人名にちなんだ名前が採用されるのは、その人名が「大物」である場合に限られる。

 たとえば、「三島文学」というのは、辞書的な意味としては「三島由紀夫の文学」というだけの言葉だが、文学ファンがこういう言い方をする時には、「三島由紀夫の素晴らしい文学」というニュアンスを含んでいる。

 「三島文学における背徳と美」

 「三島文学ゆかりの地」

 という表現も、三島由紀夫なる作家が「文学」という大仰な看板と並べて見劣りのしない金看板であることを前提として成り立っている。

 逆にいえば、そこいらへんのチンピラ文筆家の作品群を総称するにあたって、「文学」という言葉は使わない。

 事実、「小田嶋文学」などという物言いは、グーグルで検索したところで、ひとっかけらも出てこないし、百田某がいかにベストセラー作家になりおおせているのだとしても「百田文学」という言い方でその作品に言及する批評家はいまのところ現れていない。

 すなわち「アベノミクス=安倍経済論ないしは安倍経済政策」という言い方が許されるためには、「安倍」なる人物が、碩学ないしは経済通でなければならないのであって、ポイントカードとクレジットカードの区別もつかない3代目の素人が、自前の才覚で一大経済理論を吹きまくるなんてことが許される道理は、まったくもってありゃしないのである。

 「トルーマン・ドクトリン」でも「ドゴール主義」でもその種の言葉は、歴史に名を刻んだ大政治家のオリジナルということになっている。

 安倍晋三が、同列に並ぶ名前だというのか? 冗談じゃない。

 ボクシングの世界には「アリ・シャッフル」という言葉がある

 意味合いとしては「左右の足を交互に前後して踊るように動く素早いフットワーク」のことだ。

 この名称に「アリ」という人名が含まれているのは偶然ではない。というよりも、「アリ・シャッフル」という言葉自体が、この名称の由来となったモハメド・アリという不世出のボクサーへの賛辞になっている。動作や技に名前がつくというのは、そういうことだ。

 実際、アリ・シャッフルは、対戦相手を翻ほん弄ろうし、観客を魅了する目的で繰り出される極めて装飾的なステップであり、本筋のボクシングのフットワークとは別の文脈に属する動作だった。

 それでも、その、実戦的にはあまり意味のないフットワークに「アリ・シャッフル」という名前がついたのは、真剣勝負のさなかに、こういう人を舐めたようなエレガンスを繰り出すことができた人物が、後にも先にもモハメド・アリただ一人であったことへの、ボクシング・ファンの賛嘆の念の表れなのである。

 もうひとつ例をあげる。

 サッカーの世界には「クライフ・ターン」と呼ばれるフェイントがある。

 言葉で説明すると、「ボールが自分の軸足の後ろを通過するようにして相手の逆を取るフェイント」てなことになって、なんだかわかりにくいのだが、動画で見れば一発でわかる。

 「ああ、あの不思議なフェイントか」という、その、アレだ。

 現在では、ちょっと小生意気な中学生ならやってみせることもある大衆的な技術になっているが、1970年代に、オランダからやってきたヨハン・クライフという痩せっぽちのサッカー選手がはじめてこの動きを披露した時には、世界中のサッカーファンが驚嘆したものなのである。まるで魔法のようだ、と。

 だからこそ、人々は、この独創的なフェイント技に、その完成者であるヨハン・クライフの名を刻んだのだ。

 そんなわけなので、「アベノミクス」という言葉をはじめて聞いた時、私は、ほとんど反射的に「ケッ」と思った。

 「なーにがアベノなんたらだか」

 「調子ぶっこいて自分の名前アピールしてんじゃねえぞこのタコ助野郎が」

 私はアタマにきた。

 アリのためにも、クライフのためにも、こういうネーミングが許されてよいはずがないと思ったからだ。

属人的な命名で中身を検討しなくなる

 なので、アベノミクスの中身については、今にいたるもろくに検討していない。

 もっとも、詳細に勉強したところで、私には、どうせ経済のことはわからない。

 いまだにアタマにくるのは、このいけずうずうしい僭称(せんしょう)が発表されるや、その日のうちに、朝日新聞社をはじめ、日経、読売、毎日から産経、東京に至るすべての新聞が、ノータイムで丸乗りしたことだ。

 つまり、日本の報道機関は、いつの間にやら政権の物言いをそのまま伝える広報装置に姿を変えていたのである。

 この種の経済政策に、人間の名前に寄りかかった属人的なタイトルをつけると、経済への見方もモロに属人的になる。

 属人的になるということは、言葉を変えていえば「中身を検討しなくなる」ということだ。もっと踏み込んでいえば、「思考停止」を誘発することでもある。

 つまり、「アベノミクス」が問うているのは、安倍という人間への賛否であって、その経済政策への評価ではないわけで、結局のところ、安倍さんは、自分の経済政策を隠蔽している。

 たとえば、日銀の金融緩和に賛成している人々の中には、このタイミングでの消費増税を必ずしも支持していない組の人たちがたくさんいる。

 インフレターゲットに真っ向から反対している人もいれば、円安を危険視している人たちもいる。で、そうした人々の一人ひとりに、その理由を尋ねてみると、あらゆる前提についての説明はまるで千差万別だったりする。

 すなわち、アベノミクスという6文字にまとめられてはいても、その中身には、多様な解釈の余地を含んだ政策群が格納されているわけで、おのおのの施策には、様々な立場の人々のそれぞれの賛否が寄せられてもいるのだ。

 そういう、本来なら実りあるはずの闊達な議論を、「アベノミクス」は、すべてをひっくるめて6文字のカタカナにまとめあげることによって、事実上無効化してしまっている。

 「アベノミクスを支持しますか?」

 「いや、アベノミクスと一言で言われちゃうと困るんだけど、私の場合、リフレ政策を推進する立場にあるので、一部支持、一部不支持という言い方をするほかにどうしようもないわけですが」

 と、普通に考えれば、この種の議論はこの程度には錯綜していてしかるべきなのだが、そこのところの議論を、「アベノミクス」は単純化してしまう。

 単純化というよりは、無化かもしれない。なぜなら、「アベノミクス」みたいなまとめ方をしたがさいご、実効的な議論は不可能になるからだ。

 ただでさえ安倍支持層は、細部について考えることを嫌う。

「安倍好き」「安倍嫌い」を選別させるための弁

 何カ月か前、ときどきツイッターでやりとりをする知り合いの経済学者の先生が、アベノミクスに含まれる政策の一部に苦言を呈したことがある。

 内容は、無論、経済の話だ。

 この苦言に、経済の議論で反論が返ってくるというのなら話はわかるのだが、その先生の言うには、ツイッターを通じて反論を寄せてくる人々のほとんどが、「反日」「売国」「サヨク」「在日」と、経済とは無縁な罵倒を並べる安倍シンパのチンピラであったのだそうだ。

 ありそうな話だ。

 安倍さんを支持する層のうちで最も活動的な人々は、経済を解さない。解するも解さないも、それ以前に、彼らは経済に関心を抱いていないし、理解する気持ちも持っていない。

 わからないだけではない。はなから勉強するつもりを装備していないのだ。経済のようなむずかしいことは、アタマの良い連中が考えることだとテンから決めてかかっている。

 アベノミクスは、その種の反知性主義をかかえた経済無関心層に、居心地の良い思考停止をもたらすためのおあつらえ向きの安楽椅子になっている。

 また、彼らを経済から隔離するためのバリアーとしても機能しているわけで、してみると、アベノミクスがその場で「オレは知らねえよ」に直訳可能なカタカナとして供給されていることの意味は決して小さくないのだ。

 ある層の人々は、見たことのないカタカナで提示される事象については、はじめから理解を拒むことにしている。

 で、おそらく、安倍シンパのコアな部分を占める若い人たち(アベ・ユーゲント?)にとっては、アベノミクスは、永遠にカタカナのままであるほうがありがたいのである。

 無論、安倍シンパの中にも、それなりの経済通はいるだろうし、その中には、アベノミクスを総合的に評価して考えることのできる賢い人々もたくさん含まれているのだろうとは思う。

 ただ、ネットで活発に発言する安倍支持者が、経済にはほとんどまったく興味を示さない人々であることもまた事実なのであって、彼らは、「日本」「愛国」「戦後レジーム」「改憲」「靖国」「慰安婦」「アカピ」「ブサヨ」「在日」「売国」といった単語を繰り返しタイプする以上のことはあまりしたがらない。

 であるから、「アベノミクス」は、彼らの中では、安倍シンパとアンチ安倍を仕分けるためのリトマス試験紙として扱われている。

 彼らはアベノミクスに期待しているから安倍政権を支持しているのではない。

 順序が逆だ。

 彼らは、安倍さんを支持するからこそアベノミクスを持ち上げることに決めているのであって、自分たちが信頼し応援している安倍さんが推進しているアベノミクスが素晴らしくないはずがないという理路で、それを称揚している。

 ということはつまり、経済はどうでもよいわけだ。

 要するに、安倍シンパのうちのコアな部分はすぐれて属人的な人々で、彼らは、個々の政策の中身はほとんどまったく知らないし検討もしていない。ただ、安倍さん個人のすることのすべてを丸のみで支持している。

 アベノミクスという言葉自体が、そういう属人的な支持者を育てたわけではないのだろうが、アベノミクスへの評価が、支持者にとっても、反対者にとっても、内容よりも、安倍晋三という個人の評価に引きずられがちであることは、動かしがたい事実だ。

 結局、「アベノミクス」という言葉は、「安倍好き」と「安倍嫌い」を選別させる弁の役割を果たしてしまっている。

政策の賛否の論議が悪口の次元で処理される

 私の経験をお話しする。

 昨年来、私は、さまざまな場所で、集団的自衛権や憲法の扱いについて、安倍政権のやり方をいろいろと何度も批判している。

 と、ツイッターやメールを介して、反論がやってくる。

 すべてに返事を書いているわけではないが、私は、時間に余裕のある時には、ある程度真面目な反論を寄せた人間と対話することにしている。

 で、多くの場合、議論は、

 「どうして安倍さんがそんなに憎いのですか?」「要するにあなたは安倍首相が嫌いなのですね」という決めつけられ方で終了することになる。

 なんというのか、政策や政治姿勢についての賛否を語っていたはずなのに、さんざんやりあった最後は必ず「嫌悪」や「憎悪」の次元の話として処理されてしまうのだ。

 これは、議論の相手が、私の言説を感情レベルの罵倒や中傷に見せかけようとして言っている立論と見ることさえできる。

 が、彼らは、そこまで悪辣(あくらつ)な人々ではない。おそらく、彼らは、「安倍さんの悪口を言う人は安倍さんを憎んでいる人に違いない」ということをごく自然に信じているのだと思う。実際、安倍シンパには、そういういじらしい面々が多いのだ。

 安倍支持層は、安倍政権が打ち出している個々の政策を支持しているのではない。彼らは、言ってみれば「安倍」という気分ないしは現象に共感を抱いている。

 そして、その「気分」の根の部分には、「戦後レジームからの脱却」というあの茫洋としたルサンチマン(第1次世界大戦後のドイツが「ベルサイユ体制の打破」と呼んでいたものに酷似した何か)が広がっている。

「アベノミクス」の安易な連発は政権の下支えに等しい

 そういう意味で、安倍支持者は、特定の政策や政治思想によって連帯しているというよりは、「日本が不当におとしめられている」という被害者意識によって結ばれている人々だ。この2年ほど、ツイッター上で、幾多の安倍シンパの若い人たち(だと思う)と対話をしてきて、私には、その確信がある。彼らは、安倍さんの「ファン」なのだ。

 で、そういう安倍ファンの耳に「アベノミクス」は、「日本の誇り」「日本が日本であるための条件」「日本を取り戻すための基礎」「日本の独自性」ぐらいな、天然の金科玉条に翻訳されたカタチで受け止められている。

 だからこそ、「アベノミクス」に批判を加えた人間は、ただちに「反日分子」に分類され「売国」認定を受けるのだ。

 安倍さんを特に支持していない人々であっても、「アベノミクス」という言い方で問われる政策には点が甘くなる。

 というのも、「アベノミクス」は、「個々の具体的な政策」を覆い隠して、「全体としての政府の方針」をイメージさせる言葉だからだ。

 当然、それを受け止める側は、「もう少し長い目で見てやろうじゃないか」「お国のやることなんだから短兵急に結論を出すものじゃない」と、一種寛大な気分で政策を評価する。

 以上のような状況で、メディアが「アベノミクス」を安易に連発することは、政権を下支えする動作になる。

 具体的にいえば、「アベノミクスの正否」だとか、「アベノミクスへの賛否」という問いの立て方で記事を書いた時点で、その記事は、政府広報と区別のつかないものになるということだ。

 そういうわけなので、ジャーナリスト諸氏は、今後、極力「アベノミクス」という活字をタイプしないように心がけてほしい。

 代わりに、ひとつ、使い勝手のよい政策ワードをお勧めしよう。

 「アベデュケーション(=安倍印の教育政策)」だ。

 安倍さんの本当の恐ろしさと間抜けさは、今後、教育畑で表面化してくるはずだ。語感の不潔さもなかなか。

 ぜひ、多用してください。

     ◇

本論考は朝日新聞の専門誌『Journalism』10月号から収録しています。同号の特集は「『アベノミクス』はどうなるのか?――人口急減・財政再建…… 課題を徹底検証」です


筆者

小田嶋 隆

小田嶋 隆(おだじま・たかし) 

コラムニスト。 1956年生まれ。早稲田大学を卒業後、食品メーカー勤務、小学校事務員見習い、ラジオ局ADなどを経てテクニカルライターに。88年刊の『我が心はICにあらず』(BNN)で注目され、「噂の真相」などの雑誌で連載コラムを持つ。現在はひきこもり系コラムニストとして数々の連載をこなす。『小田嶋隆のコラム道』(ミシマ社)、『もっと地雷を踏む勇気―わが炎上の日々』(技術評論社)、『場末の文体論』(日経BP社)など。