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都市の中で孤立化する日本の貧困者

メディアは身近な問題として本質に迫れ―『Journalism』11月号より―

石井光太 ノンフィクション作家、小説家

 今から10年ほど前、日本の貧困問題がマスメディアをにぎわせてから様々な視点で報じられてきた。毎週のように貧困が絡んだニュースが流されているといっても過言ではないだろう。

 だが、私には貧困に関する報道が多様になればなるほど、問題の核心から離れていってしまっているように思う。起きたことを伝えるという意味では間違っていない。ただその報じる視点が、現実とかけ離れたものになりつつあるように感じられるのである。

 一体なぜそうしたことが起きているのか。一人の物書きとして、貧困報道に関する違和感について述べたい。

誰の目にも明らかな途上国の絶対貧困

 まず日本の貧困を考える上で、世界において日本の貧困がどのような形を持っているかを認識しておく必要があるだろう。

 発展途上国の貧困は「絶対貧困」として定義されることが多く、日本のような先進国のそれは「相対貧困」として定義されるのが通例だ。

 いうまでもなく、絶対貧困は1日1・25ドル以下で暮らす人々を示し、相対貧困は世帯所得を世帯人数で調整して出した中央値の半分に満たない所得で暮らす人々を示す。前者は世界で6人に1人、後者も日本で6人に1人がそれに当てはまるとされている。

 ただし、貧困のあり方は大きく異なる。誌面の長さの制約で詳細を述べられないのが心苦しいが、大切な前提となることなのでその違いを示したい。

 発展途上国では、社会の中に貧困が共同体としてまとまった形で存在していることが多い。

 この典型的な例がスラムだろう。都市の中にスラムと呼ばれる貧民街が存在し、そこに絶対貧困層が数万人から数十万人という規模で集まって暮らしているのだ。貧しい人々の街ができあがってしまっているのである。

 なぜこうしたことが起こるのかといえば、貧困者たちの絶対数が多い上に、福祉制度などが整っていないために、全員が不法に土地を占拠して住み着くしかないからだ。

 人の住んでいない郊外の荒れた土地、川や線路の周辺、丘の斜面などに廃材をつかってバラックと呼ばれる簡易住宅を建てて暮らすのだ。

 世界的にも有名なスラムはいくつもあり、たとえばケニアのキベラ、フィリピンのトンド、ナイジェリアのマココなどがそれだ。メガスラムと呼ばれるところになれば、50万人、もしくは100万人近い人口を擁することもあり、都市人口の7、8割を占めてしまうことも少なくない(写真1、2)。

写真1 インド・コルカタのスラム。住宅が密集している拡大写真1 インド・コルカタのスラム。住宅が密集している
写真2 バングラデシュのスラムでの調理の風景拡大写真2 バングラデシュのスラムでの調理の風景

 町によっては中心部だけが高級住宅地であり、ダウンタウン(下町)から先はすべてスラムという、「貧困版ドーナツ化現象」なのだ。

 こうした途上国における貧困の形の特徴をいえば、貧困が可視化されていることが挙げられるだろう。

 町のある地区にはバラックが密集するスラムが広がっており、そこで人々がどのような暮らしをしているか見ることができる。一つのバラックに何人ぐらいの家族が住んでいて、何をどのように料理し、いかにして眠っているのか。都市空間の中で、貧困が誰の目にも明らかな形で存在しているのだ。

 貧困が可視化されているというのは、どのようなメリットとデメリットがあるものなのか。

 代表的なデメリットから先に言えば、差別である。貧困が可視化されるということは、即ち社会問題が形になって見えることであり、そのぶん偏見の眼差しにさらされて攻撃を受ける対象となりやすい。

 かつての日本でも被差別部落や朝鮮人部落がまるごと差別の対象となったことがあったが、同じように途上国でもスラムそのものが差別の対象となり、中傷や暴力の矛先となる場合がある。

 たとえば、インドネシアでは一般庶民や警察官などによるスラムの焼き討ち事件が度々起きている。社会事件が起きた時に、一般庶民や警察官が犯人はスラムの住人にちがいないと勝手に思い込んで無作為に火をつけたり、暴力をふるったりしたことがあるのだ。

 また、南アフリカ共和国のスラムでは、隣国ジンバブエから移り住んできた人々の居住区が焼き払われるという事件が起きた。彼らが低賃金で働くために、南アフリカの人々が仕事を失ったと逆恨みされ、暴動が起きたのである。

 無論、これらは極端な例ではある。だが、一般庶民にとっては見える形で貧困者の共同体が存在するからこそ、普段からそこに偏見の眼差しを向け、何かあった時にスケープゴートにするのだ。

 反対に、貧困が可視化されることのメリットを一つ挙げるとすれば、共同体の中で行われる助け合いだろう。

 途上国の貧困者は、福祉制度などの恩恵を受けて最低限の生活を保障されているわけではなく、どんなことをしてでも自力で苦境を打開していかなければならない。

 だが、弱い貧困者がすべてを一人で切り開いていくのは不可能に等しい。その日暮らしをしていれば、病気になったり怪我をしたりしただけで食べていくことができなくなるし、洪水や台風が起こることで最低限の仕事さえできなくなることもある。

 そんな時、生活が可視化されていれば、隣人が追い詰められている状況を見抜いて、手を差し伸べてくれる。風邪をひいている時にご飯を分けてくれたり、洪水で家が流れてしまえば泊めてくれたりするのだ。

 実際に私が暮らしたことのあるフィリピンの首都マニラのスラムでもそういう様子を度々見かけた。

 ある家族が仕事を失って食べられなくなった時に、別の家族がすぐに察知して仕事を探してきてくれたり、兄や姉が働けるように幼い子供を預かってくれたりするのだ。

 また、ナイトクラブで働く女性が、スラムの失業者たちに店の残り物を与えたり、客引きの仕事を紹介したりすることもあった。隣人が陥っている状況が目に見えるぶん、公然と支え合いが行われている、いや、行われなければならない状況があるのだ。

 これはどこか一つの家族に何かが起きても、別の家族たちによって支えられる相互扶助システムだといえる。

 逆に言えば、国から何の保障も受けられない途上国の人々は、こうした助け合いによって危機を乗り越えているのだ。言い換えれば、彼らにとって共同体としての貧困はなくてはならない命綱ということになるのである。

日本における相対貧困は見えない形で広く存在

 これに対して、日本における相対貧困とはどのような特色を持つものなのだろうか。

 現在、日本における相対貧困層の基準は年収でいうと約122万円以下で、その割合は6人に1人になるといわれている。数にすれば、約2000万人に及ぶ。膨大な数であることは誰にでもわかるはずだ。

 だが、日本には途上国のような貧困者だけが集まって暮らすスラムというものがない。少なくとも、スラムという言葉が本来示す「不法占拠による住宅が密集した貧困街」というものはない。

 では、日本において貧困者はどこに暮らしているのか。一言で表せば、都市に点在しているのだ。

 東京を例にとって考えてみたい。東京23区の中で荒川区、北区、足立区といった地域は平均所得が低いといわれているが、なにも貧困者はメガスラムのようにそこだけに集まって暮らしているわけではない。

 高級マンションが集まり、比較的所得が高いといわれる千代田区や港区や中央区といった地域においても、家賃4、5万円台のアパートというのは存在し、そこにも相対貧困層と区分される人々が暮らしている。

 なぜこうしたことが起こるのかといえば、日本では貧困者とはいえども最低賃金が定められていたり、福祉制度が適用されたりすることで、最低限度の生活が保障されているからだ。

 たとえば日本では失業して収入がゼロになっても、生活保護のような福祉制度によって住宅費用が支給される。地域によって異なるが、6畳1間の風呂・トイレ付きのアパートに住むぐらいのお金は出る。

 こうなると、彼らは空き地に勝手にバラックを建てて住み着く必要はなく、町にある安いアパートに入居することになる。これが日本でスラムのような空間ができない主な要因だ。

ただし、この安いアパートは一つの地域だけに集まっているわけではなく、先ほど述べたように所得の低い地域であっても高い地域であっても存在する。この結果、貧困者が町のあらゆるところに点在し、姿が見えなくなってしまう。

 スラムのように一カ所に集まっていれば可視化されて、良くも悪くも社会の中で明確な存在になるが、日本では都市の中にまぎれこんでしまうことによって、不可視の存在になるのだ。

 これは貧困者の、「孤立化」という事態を生み出す。

 たとえば、町の格安アパートに生活保護を受給している貧困者が住んでいたとしよう。四方を壁に仕切られた部屋で、仕事をせずに暮らしていれば、なかなか隣人と関わったり、よそに暮らす人々と接したりする機会はない。そうなると、アパートの部屋で貧困者は孤立してしまう。

 私自身の取材経験からいえば、高級住宅地の方がこうした孤立化の傾向は強い。ある程度の値段のするマンションに囲まれるようにしてポツンと安価なアパートがあったりすれば、貧困者はなかなか周囲のマンションの住人と関わりを持つことができない。

 また、貧困家庭の子供が学校へ行ったところで、クラスメートと所得格差がありすぎるために同じ遊びをすることができず、一人ぼっちになってしまうこともある。全員が全員ではないが、特に子供や老人といった社会的弱者が何かしらの形で孤立する可能性が高い。

 貧困支援の現場において、孤立化はとても大きな問題だ。

 貧困問題を扱うNPOなどが積極的に行うことの一つが、この孤立化の防止あるいは解放である。子供や老人が貧困世界の中で孤立しないように防ぎ、外の社会とつながりを持たせて困ったことがあれば相談できる環境をつくろうとする。たとえばホームレスたちに対する夜回りや炊き出し、あるいは散髪ボランティアなどはその一つといえるだろう。

 また、NPOスタッフが独居老人の自宅を巡回して健康状態を確認したり、いつでも電話で相談できる窓口を設置したりして連絡先を確保する活動も同様だ。

 人とのつながりが遮断されるからこそ、ホームレスの凍死や餓死が起きたり、独居老人の孤独死という事態が起きたりする。だからこそ、NPOなど支援団体は孤立化を防ぐことで、問題を最小限に抑えようとしているのだ。

メディアは貧困をいかに報じているのか

 メディアはこうした日本の貧困をどのように報じているのだろう。

 ゼロ年代の初頭から半ばにかけて日本における貧困が注目された際、メディアは相対貧困率の高さやホームレスの多さを数字で表して貧困を裏づけしようとした。

 実際バブル崩壊から約10年を経て、日本の雇用形態や給与形態が大きく変わり、それによって目に見える形で格差が表れだしたのがこの時期だった。

 メディアが報じた相対貧困率やホームレスや生活保護受給者の数などによって人々が知ったのは、「一億総中流」が幻であり、すさまじい格差が広がっているという実態だった。多くの日本人はその現実を目の当たりにし、貧困を身近なこととして捉えるようになった。

 だが、それから徐々に時が経過して、日本において貧困が蔓延している事実が認識されるようになると、次にメディアはそこから派生する様々な社会問題を貧困問題として取り上げるようになった。

 「ワーキングプア」「ネットカフェ難民」「無縁社会」「ハウジングプア」といった新しい言葉で現代社会を再定義しようとしたのは、そのことを示している。貧困によって新たな社会潮流が生まれていると報じたのだ。

 その中で、メディアは社会で起きている様々な事件にも目を留め、度々貧困との関わりについて言及してきた。現代において起きている社会問題の根底には貧困が大きく影響しているのだ、と。

 その象徴的なニュースが、「貧困者の餓死事件」であったり、「母子家庭で起きたネグレクト」であったり、「暴力団による貧困ビジネス」だ。

 順を追って説明しよう。

 まず「貧困者の餓死事件」は、たとえば2012年に埼玉県で起きた、60代の夫婦とその息子の餓死事件が挙げられるだろう。電気とガスが止められたアパートで、3人の餓死した遺体が見つかったのである。

 家には1円玉数枚と飴玉しかなく、冷蔵庫は空っぽだったという。この出来事は貧困の果てに一家3人が助けを求める人もないまま餓死した事件として報じられた。

 「母子家庭で起きたネグレクト」に関しては毎年何件も起きている(図1、図2)。

図1 児童相談所における児童虐待に関する相談対応件数。(内閣府の資料から)拡大図1 児童相談所における児童虐待に関する相談対応件数。(内閣府の資料から)
図2 相談内容の種別による割合(内閣府の資料から)拡大図2 相談内容の種別による割合(内閣府の資料から)

 貧しい母親が、夜の水商売などに励み、幼い子供の世話を放棄することで餓死に至らしめてしまうような事件である。また餓死までいかなくても、栄養失調の状態で発見されるケースであればニュースにすらならないほど頻発している。これらは貧しい母子家庭で起きた悲劇として報じられることが多い事件だろう。

 「暴力団による貧困ビジネス」は、まさに貧困者を狙った事件だ。

 暴力団の組員が、ホームレスを集めて生活保護費を受給させた上で、安価な簡易住宅での集団生活を強いるのである。

 組員はホームレスが受給する生活保護費を奪って余った分を資金とするだけでなく、息のかかった病院で診察をさせる。生活保護受給者の医療費はすべて国の負担となるため、病院側は不正に診察費や治療費を請求し、その何割かを暴力団に流していたのである。また、無料で処方された薬を転売していたこともあった。

 ここからわかるのは、メディアの貧困報道は、日本の貧困を数字で示すという段階を経て次の段階、つまり貧困がいかなる問題を引き起こしているのかということを伝える段階に進んでいるということだ。

その際、メディアが貧困を描く際のキーワードとして使うのが「孤立化」といえるのではないだろうか。すでに述べたように、日本の貧困のあり方は人々を孤立させる側面があり、それが問題を大きくさせる要因となっていることが少なくない。だからこそ、メディアは貧困者の孤立化という視点で貧困問題を描こうとする。

「貧困者の餓死事件」であれば、貧困者が社会から隔絶されたことによって餓死に追い詰められたとするし、「母子家庭で起きたネグレクト」であれば母親が貧困にかく乱されるようにして育児放棄をしたとする。あるいは「暴力団による貧困ビジネス」であれば、ホームレスという社会から切り捨てられた人々が孤立した結果として暴力団に利用されたという視点で描くだろう。

 つまり、広い社会の中で貧困者が孤立し、それが事件となって私たちの前に現れているという捉え方なのである。

こっちとあっちの世界 勝手に線引きしていないか

 しかしながら、こうした貧困問題の切り取り方は、貧困と孤立というキーワードによって社会を二分していることに他ならない。

 「こっちの世界(一般世界)」と「あっちの世界(貧困世界)」にわけて、一般社会の位置から貧困社会を分析し、報じているのである。だからこそ、孤立した「あっちの世界」で起きた出来事として報じられているのである。

 論より証拠。たとえば次の記事を読んでもらいたい。

■娘絞殺:生活に困り 容疑で母逮捕 (毎日新聞14年9月24日)
 24日午前11時10分ごろ、千葉県銚子市豊里台3の県営住宅の一室で、中学2年の松谷可か純すみさん(13)が布団の上で倒れているのを、部屋の明け渡しを行うために訪れた裁判所の執行官が発見し、110番通報した。銚子署員が死亡を確認し、部屋にいた母の美花容疑者(43)を殺人容疑で逮捕した。容疑を認めているという。
 逮捕容疑は同日午前9時ごろ、可純さんの首を絞めて殺害したとしている。県警によると、美花容疑者は可純さんと2人暮らし。約2年間家賃を滞納しており、同日までの立ち退きを迫られていた。「このままでは生きていけないと思った」と将来を悲観する内容の供述をしているという。 可純さんが通う中学によると、可純さんは23日も部活動の練習試合に参加するなど元気そうだったという。教頭は「家賃の滞納などは知らなかったので驚いている」と話した。
■中2の娘殺害容疑で母逮捕 生活保護を相談(産経新聞14年9月24日)
 千葉県銚子市豊里台の県営住宅で24日、住人の市立中2年、松谷可純さん(13)が布団の上で倒れて死亡していた事件で、銚子署は殺人容疑で同居の母親、美花容疑者(43)を逮捕した。逮捕容疑は24日午前9時ごろ、自宅で可純さんの首を鉢巻きで絞めて殺害した疑い。
 銚子署によると、美花容疑者は可純さんと2人暮らし。平成24年7月以降、家賃を滞納しており「このままでは生きていけず、一緒に死のうと思った」と容疑を認めている。経済的に困窮して無理心中を図ろうとしたとみて調べている。
 銚子市などによると、美花容疑者は昨年4月、市の生活保護の相談窓口で制度の説明を受けたが、申請はせずに帰っていたという。
 可純さんが通う中学によると、可純さんはバレーボール部のレギュラー選手で、23日の練習試合にも参加していたが、変わった様子はなかったという。

 おそらく新聞の社会面を読みなれている読者にとっては、既視感すらあるような事件ではないだろうか。

 この記事からいえるのは、まず記事自体が「こっちの世界」と「あっちの世界」をわけているということだ。最後の教頭の談話にもあるように「知らなかった」「驚いている」というのがまさにそれを示している。一般社会から見えないところに貧困があり、そこで起きた事件としているのだ。

 こういう目線で事件を報じた時、私は事件の因果関係が曖昧になってしまうのではないかと懸念する。

 記事をよく読んでいただきたい。なるほど記事は、学校が把握していないところで母親が貧困に苦しんでおり、結果として生活が行き詰まって娘を殺したと書いていることは確かだ。「経済的に困窮して無理心中を図ろうとした」とあるが、それを示している。

 だが、立ち止まってよくよく考えてみれば、同じような家庭は山ほどあるわけで、なぜこの家に限って母親が娘を殺害してしまったのかという答えにはなっていないのだ。

 つまり、「こっちの世界では知らなかったことが、あっちの世界では起きていますよ」と伝えているだけで、事件の本質ともいうべき殺人にいたる経緯がまるで抜け落ちてしまっているのである。

知的障害などの他の問題が隠れてしまう

 私がこのように感じるようになったのは、関西のとある貧困家庭で起きた事件を取材していた時に、関係者からある言葉を投げかけられたのがきっかけだった。

 それは生活保護を受けて暮らすシングルマザーのアパートで起きた出来事だった。20代の母親は生活保護のお金に頼り、生まれたばかりの赤ん坊を一人で育てていた。ギリギリの生活だっただろう。ある日、母親は泣いている赤ん坊の口を塞いで窒息死させてしまった。

 事件が明るみに出ると、メディアは母親が貧しさの中で一人で懸命に子育てをしたものの、誰からも支援を得られず、ノイローゼになって赤子を殺害してしまったというような視点で報じた。つまり、孤立した「あっちの世界」での出来事として片付けてしまったのである。

 だが、この家に一時期出入りしていた福祉関係の女性は、私にこう言った。

 「あの母親は、たしかに貧しかったし、一人で子育てをして大変な思いをしていたと思います。けど、彼女の問題はそこにあるわけじゃないんです。彼女はもともと知的な問題があって、赤ちゃんを殺したのも『口を塞げば静かになると思った』と言っていたそうです。つまり、彼女は殺す気でやったんじゃなく、わからないでやったら死んでしまったんです。

 でも、これって貧困家庭で起こりうることなんですよ。知的や精神的に問題のある女性が一人で子供を育てなければならなくなった時、それがうまくできずに子供に重大な怪我をさせてしまったり、最悪死に至らしめてしまったりすることがあるんです。

 私がマスコミに求めるのは、貧しい家で変な女性がこんな事件を起こしてしまったよって報じることじゃないんです。そんなふうに報じられてしまったら、誰も事件の本当のことをわからないし、どうしていいかわかりません。

だけど、事件の女性がどんな人で、どんなふうにして赤ちゃんを殺してしまったかをちゃんと報じれば、みんな問題の本質を理解しますよね。そして、身近にそれに該当する人がいれば、同じことが起きないように目を光らせて観察するようになったり、怪しいなと思うことがあれば警察などに通報するようになったりします。つまり、貧困家庭で起きたことというのではなく、みんなが同じ土俵に立って事件の原因を理解して再発を防ぐことが大切だと思うんです」

 私はこの言葉を聞かされた時、まさにそうなのだろうと思った。

 メディアはこの事件を「生活保護を受けていた母子家庭で起きたこと」としてつたえてしまう。しかし、当たり前だが生活保護を受けている母子家庭すべてでそんなことが起こるわけがない。

 母親が子供を窒息死させてしまったのは、生活保護を受けている母子家庭だからではなく、知的な問題があったからだ。にもかかわらず、貧困という枠組みでそれを報じるから本当の因果関係が見えなくなってしまう。

 なぜそういうことが起きてしまうのか。それは貧困と孤立というキーワードによって「こっちの世界」と「あっちの世界」と社会を二つに分けて、あっちの世界はこっちの世界には理解できないことが起こりうるという突き放す姿勢があるからではないか。件の女性が取材の際に語ったように「みんなが同じ土俵に立って事件の原因を理解」しようとすれば、そんな報道にはならないはずなのだ。

 「貧困」や「孤立」というキーワードだけに委ねない

 すでに述べたように、日本における相対貧困率は16・1%となり(13年)、6人に1人という状態になっている。予備軍も含めればその数はさらに膨らみ、大多数の日本人にとって貧困は身近な日常となっているものだといえるだろう。

 現代日本において、貧困はもはや特別なものではない。社会の前提として横たわっているものだ。

 だからこそ、もはや物事の因果関係をすべて貧困だとか孤立といったキーワードで説明することは難しい。

 貧困だからネグレクトをしたとか貧困ビジネスに巻き込まれたというのは、非正規労働者(3人に1人)だから万引きをしたとか結婚できないといっているようなもので、もはやそれだけでは因果関係の直接的な説明にならないのだ。

 実際に読者や視聴者はそのことを直感的に感じ取り、メディアに対して不信感を募らせていると思う。

たとえば、新聞に関する意識調査で、「新聞は社会的弱者に目を向けているか」というアンケート(図3)を行ったところ、「そう思う」「どちらかといえばそう思う」と答えた人の割合は合計してもわずか22・2パーセントしかなかった。

図3 「新聞は社会的弱者に目を向けているか」の調査結果(新聞通信調査会の2012年の全国世論調査から)拡大図3 「新聞は社会的弱者に目を向けているか」の調査結果(新聞通信調査会の2012年の全国世論調査から)

 つまり5人に4人近くの人は、新聞が社会的弱者に向き合っていないと考えているのである。しかし現に新聞を読めば、「社会的弱者」の記事はたくさんある。にもかかわらずそう思われてしまうのは、問題の根本をつかんでいないからこそ、そういう印象が生まれてしまうのではないか。報じる側と報じられる側の間に大きな溝があるのだろう。

 こうした意識の乖離を少しでも埋めるためには、メディアがまず貧困や孤立というキーワードで社会の事象を切り取ることを極力やめるべきだと考える。

 それはあくまで前提であって因果関係を説明するものではない。だからこそ、いったんそれらをとっぱらった上でしっかりと因果関係を考えるべきなのだ。

 たとえば、先に紹介した「貧困ビジネス」を思い出してもらいたい。メディアがこの問題を貧困と孤立というキーワードで切り取ろうとすれば、先述のように日本に蔓延する貧困が一般庶民をホームレスへと転落させ、社会から隔たった空間で暴力団員たちが彼らを利用して違法な取引を行っているとなるだろう。

 だが、読者や視聴者は、そうした情報を求めているだろうか。そうではない。彼らがこの事件を知ってまず思うのは、ホームレスはなぜ暴力団員に利用されるまで生活保護を申請しないのか、とか、暴力団の手によって生活保護を受給できるようになったのならば逃げ出して一人で暮らせばいいではないか、ということだ。

 私自身この手の貧困ビジネスを取材したことがあるが、そこで知ったのはホームレスたちが精神障害や認知症をわずらっており、それゆえ自分では生活保護の申請をする能力がなかったり、受給後に逃げ出すという発想にならなかったりするという現実だった。

 また、別の元ホームレスは、暴力団にだまされているのは知っていたけど、知り合いと酒を飲んでいる時間が楽しいので、暴力団やホームレスたちと一緒に仲良く過ごす方がいいと考えたから留まっていたと語っていた。

 おそらくこうした情報を伝えれば、読者や視聴者も貧困ビジネスについて理解を深められるだろう。だが、先に述べたようにひと飛びに一般庶民がホームレスになって、私たちの知らないところで暴力団に利用されたというだけでは、核心の部分が抜け落ちてしまう。

 同じようなことは、アパートでの餓死事件においても当てはまる。貧困や孤立というキーワードで報じようとすれば、家族が貧しさゆえにアパートで孤独に苦しんだ末に餓死したということになる。

 だが、もしそうだったらアパートで生活保護を受けて暮らす人全員が餓死することになるだろう。

 読者や視聴者がこの事件を知った時に真っ先に思うのは、どうして餓死する前に行政などに助けを求めなかったのか、とか、3人同時に餓死するわけがないから、なぜ誰か一人が死んだ時に残りの者が通報しなかったのか、ということだ。

 私は類似の餓死事件を取材したことがあるが、この時は餓死した貧困者がコミュニケーション能力のない障害者だった。つまり、人に対して助けを求める能力のない人間が孤立したからこそ、こうした事態に陥ったのだ。

 一家3人の餓死事件と私の取材した事件とはまったく同一ではないにせよ、たとえばこうした情報を報じれば、読者や視聴者は餓死の理由を納得することができるだろう。

 念を押して言いたいのは、私は貧困について考えるなと言っているのではない。そうではなく、貧困がここまで広がった以上、もはや貧困という切り口だけで社会で起きていることを説明することは難しいということだ。

 ならば、いったん「貧困」という大雑把な枠組みを取っ払ってみてはどうだろうか。その上で出来事の因果関係を考え、情報として報じなければ、少なくとも貧困を実感している読者や視聴者の心には響かないし、溝がどんどん広がっていってしまうだけだ。

 ジャーナリズムとは、物事の本質を伝える作業をいう。ならばこの枠組みを取っ払うということが、そのための第一歩ではあるまいか。

 少なくとも私はこれまで国内外の貧困を書いてきた一人の物書きとしてそう考えているし、自分自身にそのことを絶えず戒めて現代と向き合っていこうとしている。

※本論考は朝日新聞の専門誌『Journalism』11月号から収録しています。同号の特集は「どうする 格差社会ニッポン」です

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筆者

石井光太

石井光太(いしい・こうた) ノンフィクション作家、小説家

1977年東京都生まれ。2005年に『物乞う仏陀』(文春文庫)を出版して注目される。その後、『神の棄てた裸体ーイスラームの夜を歩く』(新潮文庫)、『絶対貧困ー世界リアル貧困学講義』(新潮文庫)、『レンタルチャイルド』(新潮文庫)など多数出版。東日本大震災を取材した『遺体ー震災、津波の果てに』(新潮文庫)は13年に映画化される。最新刊は戦後の上野駅の地下道にいた戦災孤児のルポ『浮浪児1945-』(新潮社)。