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反知性主義に抗い、歴史を知ろう

その営為の放棄は伝統を捨てるに等しい

本郷和人 東京大学史料編纂所教授

 このほど文部科学省は、全国の国立大学に対し、人文社会科学系の学部・大学院のあり方の見直しを求める通知を出した。この中で同省は「社会的役割を踏まえた速やかな組織改革」を要請し、とくに人文社会科学系学部・大学院に対しては「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう」促したのだ。

和綴じ本は『大日本史料』作成のための資料。戦前に作られたものも多い和綴じ本は『大日本史料』作成のための資料。戦前に作られたものも多い
 ああ、ついにここまで踏み込んできたか、という感がある。かねて人文科学、具体的には文学・哲学・歴史学への風当たりは強い。役に立たぬ学問より実学を。英語が話せてITを駆使する即戦力を大学は養成すべきだ、と財界はことあるごとに主張しているし、そうしたトーンでの議論を展開する論客も少なくない。

 歴史学の徒である私は、もちろん賛成できない。実学のみが貴いというところに違和感を覚えるし、学問を何と心得るか、と単純に腹も立つ。そもそも哲学・文学・歴史学だって立派に実学、もっと平たく言えばカネもうけの手段になり得ると考える。だが、そうした諸々は、とりあえず措(お)いておこう。声高に人文科学の有為性を主張するのではなく、まずは自らを省みたい。

 このあたりの謙虚さこそは、品のない「実学第一主義者」に乗ぜられる瑕疵(かし)になるのかもしれない。だが重厚かつ闊達な知性を重んじる者にとり、反省なき自己擁護は恥というべきである。浅薄で硬直した振る舞いと、忌避すべきである。だから私はともかくも、自身が専門とする日本中世史の歩みを回顧する。そして実学重視の趨勢がこの学問の奈辺に作用しているか、を具体的に考える。しかる後にその成果を踏まえて、「反知性主義」の問題点の一端にふれてみよう。

中世史学の行き詰まり すぐれた研究者は孤立

 今日の日本中世史学は、重苦しい閉塞感に覆われている。かつては、最大の学会たる「歴史学研究会」が掲げる年1回の大会のメイン・テーマが、広く江湖の話題となった。そこまでではないにしろ、まだ20年ほど前であれば、画期的な論文の登場を待望し歓迎する雰囲気を、容易に感得することができた。

 学会誌に瞠目すべき論文が掲載されると研究室で自然に話題となり、議論は内外に展開していった。学問的達成の貧弱な分野を補う意思と努力とを研究者の多くが共有し、新しい知見や解釈が能動的に積み重ねられた。それゆえ研究のトレンドが自然に醸成され、大学や所属学会の垣根を越えて研究者がそこに参入した。熱気はたしかに存在したのだ。

 それがどうだろう。そうしたエネルギーが、いまはすっかり失われてしまった。すぐれた研究者はかろうじて生き延びていて、学界への問いかけを続けている(五味文彦『中世の身体』〈2006年、角川学芸出版〉、村井章介『東アジアのなかの日本文化』〈05年、放送大学教育振興会〉)。ところが、それを起点とした話の輪が生まれない。それに触発された試みがなされない。彼らはその仕事が独自性を帯びる故に、ますます個々の拠点で孤立し、孤独な戦いを強いられている。

 いったい、どうしたというのか。この閉塞感は何に由来するのだろうか。とりあえずだが、考えついたことはAとBの二つである。

皇国史観からの脱却と網野善彦という「祝祭」

 一つ、A。「祝祭の終わり」。祭りはたぶん、2度あった。1度目は太平洋戦争後の「再出発の祝祭」である。軍部の台頭が著しかった昭和初年から、日本中世史は周知のごとく、悪名高い皇国史観に支配されていた。この歴史観においては、歴史は文学であり、英雄興亡の物語であった。歴史は倫理であり、天皇への忠節を説いて、生き方の規矩(きく)を臣民に下賜した。歴史は政治ですらあり、人々を容赦なく戦地に追いやった。

 敗戦後に歴史教科書に墨が塗られて皇国史観が否定されると、研究状況は一変した。様々な禁忌に制約されない、科学的分析に基礎を置く歴史学研究が、晴れて解禁されたのである。皇国史観が軽視していた、手つかずの歴史資料(史料、と略す。古文書や日記など)が眼前にある。成果が出せれば全てが新しく、直ちにその分野の第一人者たりうる。学問的にまことに幸せな時節、祝祭の時節が到来したのだ(石母田正『中世的世界の形成』〈1946年〉、佐藤進一『日本の中世国家』〈83年〉。

 皇国史観の後継としては唯物史観が登場し、80年代にはそれも色褪あせ始めたが、中世史学界はこれに代わる歴史観を用意しようとしなかった。それは明らかに研究者の怠惰の所為であるが、史料の豊かさも遠因になっていた。史料解釈の工夫次第で、格別な方法論をもたずとも、効果的に新知見を導き出すことができたのだ。それでも流石(さすが)に行き詰まり感が出てきたとき、もう一つの祝祭の幕が開く。「網野まつり」である。

 荘園制研究のトップランナーとして学界に知られていた網野善彦は、78年に

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