−連載「時代の正体」から
2015年10月10日
終戦の日を翌日に控えた今年8月14日、安倍晋三首相は戦後70年談話を発表した。注目されていた「侵略」「植民地支配」「痛切な反省」「心からのおわび」のキーワードはすべて盛り込まれた。
だが、そのいずれもが意味を失っていた。
〈我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました〉
「私」という主語がなく、これでは反省としても、おわびとしても伝わりようがない。
〈事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない〉
やはり「侵略」の主体が示されず、何を指しているのかがはっきりしない。朝鮮半島を植民地支配したことへの言及もない。
〈日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました〉
この一文にいたっては朝鮮半島への侵略、植民地支配につながった戦争を肯定していた。
つまり、安倍カラーは質実ともに談話にくっきり刻まれていた。「実」は歴史の歪曲であり、「質」はその言葉のあべこべさ。ひと続きの発言の中に正反対の意味の言葉が同居する論理破綻と語義矛盾、そして言行不一致。政治がさまざまな意見の者同士が言葉を駆使して合意形成を目指すものであるなら、それは安倍政治からもっとも遠いものであった。
非民主的政治、それは独裁と呼ばれる。
それは憲法改正を公言し、歴史を書き換えようと試み、それでもさして批判されず、されてもやがて忘れられるという安倍首相自身の成功体験の先にあった。異常事態をまたも目の当たりにし、私たち神奈川新聞「時代の正体」取材班は敗北感を覚えずにいられなかった。
シリーズ開始2週間前の7月1日、安倍内閣は集団的自衛権の行使を容認する閣議決定に踏み切った。憲法で禁じられてきた集団的自衛権の行使を、その解釈を百八十度ひっくり返すことで、できるようにする。憲法によって権力を縛る立憲主義は踏みにじられ、反対が多数を占めた世論が顧みられることもなかった。
私たちが目にしているのは、権力はかくも暴走するという実例にほかならなかった。こみ上げてきたのは落胆だった。
安倍政権の暴走を許し、歯止めになれない私たちは、何を見落とし、書き逃してきたのか。時代のいまを見据え、その先を展望してこそのジャーナリズムではないのか。
だから、シリーズのタイトルは、自分たちのふがいなさの裏返しであり、ひそかに込めた再出発の誓いにほかならなかった。
この目がいかに曇り、そして怠惰であったか。苦い思いとともによみがえる言葉がある。
2013年晩夏、小さな喫茶店でのインタビューで、元共同通信記者で作家の辺見庸さんは同僚記者に迫った。
「現在は平時か。僕は戦時だと思っています。あなたが平時だと思うなら、反論してください。でないと議論はかみ合わない」
安倍首相が集団的自衛権の行使を憲法解釈の変更という手法で進めようとしていることをどう見るか、と尋ねたときだった。
「十年一日のようにマスメディアも同じような記事を書いている。大した危機意識はないはずですよ。見ている限りはね」
居住まいを正す記者に、辺見さんは低くゆっくりとした声で続けた。
「日中戦争の始まり、あるいは盧溝橋事件。われわれの親の世代はそのとき、日常生活が1センチでも変わったかどうか。変わっていないはずです。あれは歴史的瞬間だったが、誰もそれを深く考えようとしなかった。実時間の渦中に『日中戦争はいけない』と認められた人はいたか。当時の新聞が『その通りだ』といって取り上げたでしょうか」
私たちはいま、歴史的瞬間に再び立ち会っている。その自覚があるか。目を凝らし、耳を澄ませ、気付こうという覚悟がそもそもあるのか。問われているのは、ジャーナリズムの存在価値だった。
辺見さんの言葉が心に残ったのは、歴史的瞬間として挙げたのが、まさに私たちの目の前で起きていた問題だったからでもあった。
高校の日本史教科書の選定に、神奈川県教育委員会が介入するという異例の事態が起きたのは、同年夏のことだった。
国旗・国歌法に関し、「一部の自治体で公務員への強制の動きがある」と記述した実教出版の教科書の使用を希望した28校に、県教委が「県の考え方と相いれない」「不採択になる可能性がある」と再考を求め、すべての学校が別の教科書を選び直していた。
辺見さんは言った。
「あれは県教委が高校に圧力をかけ、特定の教科書の不採用を押し付けているだけの話ではない。言いぐさがすごい。『強制』ではなく『責務』だ、と。その論法にあなた方はどれだけ反論しましたか。堕落してますよ。あいつらも、新聞も」
県教委の高校教育指導課長は主張した。
「入学式や卒業式での国旗掲揚と国歌の斉唱は学習指導要領に基づき、当然のこととして行われるべきで、強制と捉えるのは好ましくない」。県教委は以前から卒業式、入学式の君が代斉唱時に起立しなかった教職員の氏名を収集し、是正指導に活用していた。
実教出版への物言いがついた教育委員の会合は、自民党が圧勝した13年の参院選投開票日の2日後のことだった。第1次政権で改正教育基本法に「愛国心の育成」を明記し、その後も道徳の教科化を決めるなど、国家主義色の強い教育改革を進める安倍政権の影響はそこに明らかだった。
例外を認めず、従わぬ者を監視し、氏名を集め、報告する社会。辺見さんは問うた。
「強制っていうのは身体的強要を伴う。起立させ、歌わせる。人の内面を著しく侵している。これがファシズムでなくてなんですか」
そのインタビューの3カ月後、言論統制的な側面から治安維持法にもなぞらえられる特定秘密保護法が成立した。14年7月には、憲法改正を経ることなく、集団的自衛権の行使容認に転じる閣議決定がなされた。
見えて聞こえていたのに、やりすごしていた日常が、突き刺す風景として立ち上ってくるような記事を―。このような思いを胸に、巻き返しを期して始めたのが「時代の正体」シリーズだった。
主に現場ルポと、専門家へのインタビュー記事からなり、テーマは集団的自衛権、特定秘密保護法、安全保障関連法案、憲法、慰安婦問題、ヘイトスピーチ、在日米軍基地など。記者たちが見聞きしたのは民主主義の危機であり、それに抗う人たちの言葉だった。
「安倍政権がやろうとしているのは憲法無視。憲法泥棒、いや憲法強盗だ」
歯に衣着せぬ物言いで知られるが、言葉へのこだわりは人一倍あった。
小林さんは左手の指が生まれつきない。白い手袋で包んだ義手を見られるのが嫌で、記者会見では左手をいつも机の下に置く。「人の目がそこへ向くのが分かる。そのために、俺の言葉が届かないのが嫌なんだ」
少年時代、手のことをからかわれ、仲間外れにされた。母に詰め寄った。「頼んでもいないのに、なんで僕なんかを産んだんだ」。泣きながらわびる母に、自らの言葉を呪った。「自分の存在自体が母を傷つけていると気付いた。それから変わった。強くならなければ、と」
腕力では勝てないから、議論でいじめっ子に立ち向かった。弁の立つ人をまね、研究した。それでも打ち負かしたはずの相手が、負け惜しみに言い捨てた。「指がないくせに、ムカつくんだよ」
やがて思い知る。「いくら口で勝っても、最後に裏切られるんだ」。言葉は人を救いもするが殺しもする。その畏れこそが、憲法学者としての原点だった(14年8月12日付本紙)。
安倍首相はその言葉をないがしろにする。〈国民の命と平和な暮らしを守るため、切れ目のない安全保障法制を整備する必要がある〉と繰り返すばかりで、それがなぜ集団的自衛権の行使でなければならないのか、明確な説明はない。
「この暴挙を許せば、この国は独裁国家になってしまう。それでも自民党が合憲だと反論するなら、憲法学者として徹底的に論破し続ける」
言葉を軽んじる者たちに屈したくはない。それが小林さんの根っこだった。
意味を脱臼させるかのように語られる安倍首相の言葉だが、その都度の検証は、言葉の無力化を許さないためにも必要だった。安保法案の閣議決定を受けた今年5月14日の会見の翌日から掲載した「安倍首相の言葉」(全5回)では、言論の危機がより一層浮き彫りになった。
〈平和安全法案を整備することは、結果として紛争に巻き込まれることも、日本が攻撃を受けることも、日本人の命が危うくなることもリスクとしては減少していくと考えている〉
このような安倍首相の見立てに対し、日米同盟の実情に詳しい拓殖大学大学院の川上高司教授は疑問を呈した。
「抑止力によってリスクが減っていくとは断言できない。抑止力とは万が一の事態に備えるためにあり、危険自体が減るとはいえない。こちらが戦争の備えをすれば、向こうも戦争の備えをする。安全保障のジレンマに陥る可能性がある。抑止力強化は不可欠だが、同じくらいに信頼を醸成する措置、つまり外交努力が欠かせない」(15年5月15日付本紙)
〈戦争法案などという無責任なレッテル貼りはまったくの誤りです〉との物言いに対し、憲法学者の青井未帆・学習院大学大学院教授は首を振った。
「『命を守るため』『切れ目のない備えを行う』と言われ、否定できる人がいるだろうか。そうした異論のない言葉を並べ、事を単純化してみせている印象を持つ。だが、国の安全保障の現実は単純なものではない。安保法制に反対している人たちの主張も多様で、論理も異なる。なのに巻き込まれ論や戦争法案と批判をひとまとめにして誤りと決め付けた。自らは抽象的な言葉を並べておきながら、反論に対してはごく一部の主張に色を付けて切り捨てた。無責任なレッテルを貼ってみせたのは安倍首相ではないか」(15年5月16日付本紙)
思想家の内田樹さんが示したのは根本的な懸念だった。
「論争というのは、論理的に首尾一貫し、一つ一つの判断の客観的根拠を明らかにできることが『大切だ』と思う人間たち同士の間でのみ成立します。言うことがどんどん変わっても、根拠がなくても、約束が履行されなくても、まったく気にしないという人を相手にして言論は無力です。安倍首相は年金問題のときに『最後の一人まで』と見えを切り、TPP(環太平洋連携協定)については『絶対反対』で選挙を制し、原発事故処理では『アンダーコントロール』と国際社会に約束しました。『あの約束はどうなったのか?』という問いを誰も首相に向けないのは、彼からはまともな答えが返ってこないことをみんな知っているからです」
そして続けた。「ここまで知的に不誠実な政治家が国を支配していることに恐怖を感じない国民の鈍感さに、私は恐怖を感じます」(15年5月18、19日付本紙)
首相自らが歴史と向き合わず、ねじ曲げようとさえする。そうした振る舞いに私たちは慣らされてしまったのだろうか。
足元に目を凝らすと、時代の裂け目が口を広げていた。
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