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憲法9条で守られてきた自衛隊

活動拡大で必要なメディアの監視力

森健 ジャーナリスト

 東北本線・雀宮(すずめのみや)駅から南に車で8分ほど。陸上自衛隊宇都宮駐屯地は、ごく普通の住宅地を抜けた先に現れる。

 入り口に立つ、出動態勢の完全装備をした守衛の自衛隊員に、思わず目がいった。案内役の担当者によれば、全国に160ほど点在する陸上自衛隊の拠点で、守衛の隊員が完全装備しているのは、宇都宮ぐらいだという。

 完全装備には理由がある。宇都宮を拠点としているのは「中央即応連隊(中即連)」という部隊。全国の陸自部隊から選りすぐりが集められた精鋭部隊である。入り口の守衛もそれにふさわしく、というわけだ。

 中即連は陸自のなかでも特殊な組織だ。北部(北海道)や東北といった全国五方面隊に属しておらず、防衛大臣直下の組織という位置付け。なにより特徴的なのは、国連平和維持活動(PKO)や災害に伴う緊急援助活動など、陸自の海外派遣ではつねに先遣隊として赴いてきた、海外派遣のスペシャリスト集団であることだ。

自衛隊の海外での活動 経験者から聞いてみた

 自衛隊がはじめて国外で活動したのは1991年。湾岸戦争後に海上自衛隊がおこなったペルシャ湾での機雷の掃海作業である。翌92年には国際平和協力法(PKO法)が成立。カンボジアを皮切りに、陸上自衛隊も海外に出ていくようになった。

 その後の自衛隊の活動はPKOにとどまらない。難民救援や自然災害に伴う国際緊急援助など、ほぼ切れ目なく何がしかの国外活動に従事してきた。そのなかには、96年2月から2013年1月まで17年間も参加したゴラン高原(シリアとイスラエルの境界)もあるし、実状は「戦場と変わらなかった」とも評されるイラクへの派遣もあった。15年10月現在も、アデン湾に面するアフリカ北東部のジブチや、東アフリカの内陸国、南スーダンに展開しており、400人近くの自衛官が現地で任務を遂行している。

 これだけ多く行われてきた自衛隊の海外派遣だが、その活動内容がどのようなものかを理解している人はどれほどいるだろうか。どの地域に、どんな目的で、どれほどの人が派遣され、どのような活動をしたのか。内実はほとんど知られていないのが実態だろう。

 さらに言えば、そうした活動の結果、自衛隊員自身が自分たちの海外活動についてどう考え、どう理解しているのかもまた、あまり知られていない。安全保障関連法制が変わろうとする現在、その影響をもっとも受けるのは自衛隊だが、であるならば、海外派遣に従事した自衛隊員、それも現役の人たちに話を聞かねばならないだろう。

 そんな狙いから、中即連に取材の相談をしたのは14年7月。安倍晋三政権が、自衛隊のありようを大きく変える集団的自衛権の行使容認を閣議決定した直後である。

 「集団的自衛権については答えようがないですが、それでもいいですか」と〝予防線〟もはられたが、それは想定ずみ。結局、その月末、中即連の現役隊員4人と、副隊長の計5人から話を聞くことができた。

任務よりも心配だった部隊内での人間関係

 築40年は経とうかという古い鉄筋校舎のような建物の一室で待っていると、体格だけでなく、表情まで屈強さが漂うベテラン隊員2人、幹部候補だろうか、ややスマートさがうかがえる隊員が2人やってきた。インタビューは09年から自衛隊が派遣されているジブチについて聞くことからはじまった。

 7月になると日中の気温は40度以上。海が近く、強烈な蒸し暑さが加わる。それに慣れることがジブチ共和国での最初の洗礼だという。

 「雨が降っていないのに地面まで濡れる。なのにフル装備。防暑服に防暑ブーツですが、相当にきついです」

 そう苦笑いするのは、第3代最先任上級曹長の山浦忠氏(53・仮名・以下同)だ。最先任上級曹長とは下士官で最上位の役職で、山浦氏は09年5月、ソマリア沖の海賊対処のため、最初に現地入りした一人である。頑健な身体に眼光の鋭さが、下士官トップならではの厳しさを体現しているようにも映る。

 同年7月、海賊対処法が施行され、海自は水上部隊に加え、P3C対潜哨戒機での上空からの監視活動にも携わることになった。P3C機の空港での駐機に際しては、警護が必要で、山浦氏が加わった任務は、そのための先遣隊だった。

 警護するのは駐機場と整備工場の2箇所で、24時間を2時間交代で見張る。現在ジブチには自衛隊の派遣駐屯地ができているが、当初、部隊の生活拠点は米軍のキャンプ・レモニエ─アフリカ最大の米軍航空基地─だった。

 中即連が発足したのが08年3月なので、連隊として編成されて1年足らずでの同連隊初の海外派遣。山浦氏がまず心配したのは、任務そのものよりも部隊内での人間関係だったという。

 「任務の内容は明確に決まっており、そのための訓練もしてきたので、さほど迷いはない。ただ、ふつうの何年も一緒に過ごしている部隊と違い、中即連は全国から集まった集団。きちんと人間関係ができないとまずいと思っていました」

 やはり初期にジブチに派遣された一等陸曹の大沢浩氏(42)は、環境や状況の変化への対応に追われっぱなしだったと振り返る。事前にマラリアなど20種近い予防接種をしたが、なかでも厄介だったのが野犬への備えだったという。

 「笑い事ではなく、野犬は狂犬病を保有しているので非常に危ないのです。実際、現地では犬に舐められただけで狂犬病を発症した人もいました。敷地内に野犬が入ってくると、車を飛ばして隊員に注意喚起をしていたほどです」

 ただ、警護の任務についていうと、ジブチではとりたてて危険な目に遭うことはなかったと一等陸尉の遠山慎太郎氏(48)は言う。

 「銃声が響いても、近傍のフランス軍のジェンダマリ(憲兵隊)が野犬駆除やバードストライク防止のためにする威嚇発砲であったりする程度。我々も直接的な銃の使用はまずないだろうと想定していた。海に海賊はいますが、陸のジブチの治安は非常によかった。だから非番のときは町への外出もできていました」

 もちろん治安が荒れているところへの派遣もある。たとえばハイチ。前出の山浦上級曹長は2010年、地震と津波で壊滅的な被害を受けた同地での国際緊急援助活動にも赴いている。

警備中に遠方で銃声が 警戒レベル上げた夜も

 もともとハイチには地震の前から国連PKOが入っていた。そこに地震の混乱で国連の追加決議がおこなわれ、PKOが拡大された。自衛隊は地震の後に派遣。暴動に遭うことはなかったが、治安はけっしてよくなかったという。

 山浦氏がポルトープランスの宿営地に入って2日目の夜、警備をしているとやや遠方で銃声が聞こえた。「パン、パンパンパンと散発的に銃声が鳴るんです。すぐに警戒レベルを引き上げました」と振り返る。

 翌日、情報収集で町に出てみると、銃を撃っていたのは被災した店の民間のガードマンだと分かった。「セキュリティのための威嚇発砲ということでしたが、銃社会ならではの違いを感じました」

 ハイチでのおもな任務は復旧支援。地震後の瓦礫の撤去や道路補修、孤児院などの施設の建設だった。ドーザ、油圧ショベルなど重機を扱う施設部隊が活躍する派遣だった。山浦氏と同時期にハイチに派遣された三等陸佐の吉田祐太氏(35)が語る。

 「たとえば国連の敷地内の砂利整備。あるいは、崩壊したナデール美術館の瓦礫の除去。埋まっていた彫刻などをイタリアの美術専門業者と連携して掘り出す。我々の宿営地点の横にペルー軍の部隊が来る時には、我々がドーザでならして準備した。おもな実働を担ったのは施設部隊で、周囲に警護班がつき、さらに外側をネパール軍が警護する形でした」

 情報担当でもある吉田氏は、先遣隊より2週間ほど早く入って現地を調査した。PKOの命令が出る前に入ったのは、迅速に対処できるための事前調査が必要だったためだ。

 宿営候補地の選出と実際に設置可能かの確認、正式な命令が出た際、その活動のためにどんな機材がどれほど必要か、インフラとして水はどう調達するか、そのための道路はどうすればよいか……。

 「国連機関との調整や司令部との顔合わせ、担当窓口の確認など、実際に活動するために必要な作業も進めました。他国との情報の共有や信頼関係が、国外の活動ではなによりも重要だからです」

 吉田氏は北海道・岩見沢駐屯地の施設部隊が長かったが、その間に幹部英語の普通課程、さらに上級課程を履修。英語を扱えるようになった。そのため、海外派遣に出た際には、国連司令部などでの調整役が多くなったという。ただし、いつも英語は「根性英会話」だと笑う。

 「任務に関する話は自分が正確にわかっていないと、部隊が困ってしまう。少しでもわからないことがあれば、徹底的に、ときには絵を描いてでも、確認します。何が何でも、確実な情報を伝達しなければいけないからです」

 その観点からすると、より密な情報共有が必要だと痛感したのは、南スーダンへの派遣だったという。危険度が相当高かったからだ。

現地の国連司令部で現地情報を密接に共有

 南スーダンは6年間の包括和平合意期間を経て、11年7月にスーダンから独立したばかりの新しい国家である。以前から、和平合意支援の国連スーダンミッションはあったが、南スーダンの独立で同国の「国造り」支援を国連が決議。その際、自衛隊も協力要請を受け、派遣が決まった。

 施設部隊の一員として派遣された吉田氏の任務は、後続部隊の宿営地の構築や国連施設の設置作業。さらに、施設内の側溝の整備やヘリコプター降着場の整備などである。施設部隊は中即連だけでない部隊も参加して200人ほどだった。

 施設の任務に劣らず重要だったのが現地の情勢分析だったという。

 「独立はしましたが、南スーダンは元のスーダンと小競り合いが続いていました。我々が赴任したのは首都ジュバで、スーダンとの国境から南に550キロほど離れていましたが、ジュバから北の地域では空爆があり、数十人の死者も出ていた。ジュバの近郊でも、巨大なアントノフ爆撃機が目撃されてもいました」

 安全とはけっして言えない情勢だった。事実、国連の司令部でも爆撃に備えて窓にガムテープを貼ったり、防空壕をつくったりしていた。「情勢は見えにくかった」と吉田氏。

 「万が一、北のスーダンが大規模に攻撃をかけてきて、ジュバにいる我々に迫ってきたら、どうなるか? 『撤収』となって、PKOの活動そのものがなくなる可能性もある。情勢がどう動くかわからず、安心できないわけです。それだけに、現地の情勢情報にはつねにアンテナを張っていました」

 こうした治安情報に関しては、現地の国連司令部で密接に共有していた。国連司令部では毎日、ミーティングがおこなわれており、そのうち軍事部門の司令官(フォースコマンダー)が主宰する「モーニングレポート」という会合に参加する。そこで得た情報を自衛隊の現地司令部と共有してから、各部隊で説明をする。情勢把握の過程で何らかの変化があれば、それに合わせて対策を考えたという。

作戦の判断はすべて現地ではなく日本政府

 興味をひかれるのは、そうした情勢分析の結果、どんな状況をもって危険と判断するかである。情報も装備も異なる市民とミリタリーでは、危険度の認識も異なって当然のはず。判断基準はどのあたりにあるのだろうか?

 尋ねてみると、「残念ながら、それは安全上公表できないものです」という答えが返ってきた。くわえてその判断基準は、各国でも異なるという。

 「ただし、国連のミッションではSOP(Standard Operating Procedure。標準作業手順)という基準も事前に設けられています。受入国(南スーダン)の情勢がどこまで緊迫したら、どの部隊をどこに下げるという段取りが事前に決まっているのです」

 その詳細も安全に関わるから公表できない、と山浦氏が言葉を補う。「もし公表して、よからぬ層が『そうか』と理解して動いた場合、情勢が変わってしまう可能性があるわけです」

 ならば、そうした判断内容とは別に、情勢をどのように判断し、どう活動に反映するかという手順ならどうか? そう問いかけると、同席した副隊長はその手続きはもちろんありますと応じた。

 「まず国連のフォースコマンダーの判断があります。と同時に、自衛隊は日本に連絡するので、内地の判断があります。この二つの『判断』は意味が違います。具体的には『指揮』と『指図』の違いです。国連はコマンド(命令)をしません。オペレーショナル・コントロール、つまり『運用上の統制』をしている。一方、その活動における法的範囲は、個々の参加国の法に関わってくる。もし活動の運用上、判断を必要とすることがあれば、個々の国と国連との法的な取り決めに関わってくるのです」

 そのうえで、しばしば誤解されがちですが、と副隊長が急いで付け加える。

 「現地で暴動など状況の変化があったとして、現地部隊の判断で動くことはありません。つまり、『危なくなったね。では、下がりましょう』という話にはならないんです。なぜなら、作戦の展開や撤収に関わる最終的な判断をするのは日本政府。私たちはその判断のための情報を提供するだけなのです」

重要な判断の決め手はあくまで日本の国内法

 そうした重要な判断が迫られるとき、決め手となるのが法である。法は自衛隊の活動のすべてに深く関わっている。

 日本がPKO(国連平和維持活動)に参加する際、当然、国連と契約をする。ただ、契約の根拠となるのは、あくまで国内法だ。

 「我々が海外派遣される根拠は、国際平和協力法や国際緊急援助隊法、そして各種の特措法です。国際平和協力法は自衛隊法のもとに定められている。また、自衛隊法の上には憲法がある。そうした日本の法制度の重なりを国連も理解したうえで、日本=自衛隊ができる任務を、全体の中で考えていくわけです」

 派遣されている間に当該地域で治安に変化が起きるのはやむを得ないことだが、その状況の中で任務として引き受けられるものと、できないものがある。そうした線引きは事前協議の段階で詰められているが、そもそも武器の使用権限や軍の目的など活動の根底に関わる重要事項は、法によって決められている。

 つまり、いかに強力な武器を保有し、周到な訓練があったとしても、どれほど他国から要請があったとしても、憲法を頂点とする各種の法をもとに、自衛隊は活動を制限されてきた。言い換えれば、自衛隊はつねに国内法で守られてきた。そういう言い方も可能だろう。

 一方、海外派遣で彼らの命の責任を担ってきたのは、つねに政府だ。それは比喩ではなく、実際の命令系統としてそうなっている。というのも、派遣先での活動の主たる報告先は日本政府だからだ。

 国際平和協力法に基づき国際平和協力本部という組織がつくられているが、その国際平和協力本部の委員は各大臣、本部長は内閣総理大臣が兼務している。もちろん情報は防衛省の統合幕僚監部にも伝達されているが、重要な判断は政府の判断というのが海外派遣の実際だ。

 そうした仕組みを、隊員は基本知識として理解しており、他国も日本の事情は大抵、知っていると吉田氏は言う。

 「日ごろのつきあいの中で、ちょっとした作業のお手伝いを頼まれることはあります。でも、歩兵部隊としての任務を現場で頼まれることはない。冗談としてはありますけどね。建設や医療、給水といった、いわゆる後方支援で派遣されているのが、日本の自衛隊だと理解されているからです」

銃は携行しなくても厳しい訓練に一目置く

 では、銃を携行した任務をしていないから、一段下に見られているかと言えば、そんなことはない、と隊員は口を揃える。日々の活動のなかで、自衛隊の日頃の訓練の厳しさを他国の兵士が感じとっているからだという。一例をあげよう。

 2014年7月14日、フランスの革命記念日。パリのシャンゼリゼ通りで行われた軍事パレードに、遠山一尉はPKO部隊の一人として参加した。武器庫に陳列されてある各国の銃を見学に行った際、同行した各国の兵士はみな、それを漫然と眺めるだけだったが、遠山氏ら自衛隊員だけは手にとってしっかり「空打ち」の動作をしていた。

 「仏軍の火器陸曹に、『愚直にルールを守ってくれて、日本は素晴らしい』と驚かれました。我々としては、空打ちは訓練で身体に染み付いている動作に過ぎない。『ふだんの訓練がすごければ、有事でも自然とできるものです』と言われたのですが、そう思われるのだなと、こちらが驚きました」

 訓練だけにとどまらない。日本ではごく当たり前の行動なのに、他国の兵士にとっては驚きであったという逸話は、ほかにも事欠かない。

 ジブチは、しばしばハムシンという砂嵐に見舞われる。これが吹き荒れると、周囲にゴミが散乱する。見るに見かねた陸自の隊員が、海自の隊員と一緒に拠点のゴミ拾いをおこなったところ、空港のスタッフに感謝され、米軍も見習うようになったという。

 また、南スーダンでは施設部隊が国連の施設を建設。隣でバングラデシュの歩兵中隊が同じものをつくっていた。施設部隊はいつもと同じように作業をしたのに、完成後、クオリティーのあまりの違いに、国連の多くのスタッフが驚いた。

 とはいえ、丁寧すぎる仕事に不満を言われることも、時にはあるという。

 「『日本人はすばらしい仕事をするが、簡単にイエスと言わないから困る』と。要は、自衛隊は安請け合いしないと文句を言うわけです。でも、こちらは引き受けたら、きちんと仕事をする。そういう姿勢を見せると、次第に理解してくれました」(吉田氏)

 こうした自衛隊特有のきまじめともいえる姿勢は、期せずして出会った人の認識を変えていると副隊長が言う。

 「宿営地での車の置き方やテントの建て方から、『自衛隊はとんでもなくきちんとしている』という認識をもたれます。それはふだんの訓練がいかに厳しく、練度が高いことを意味しています。相手がプロであれば、そうした些細なことが持つ意味をわかる。自衛隊と事を構えると大変だという理解にもつながる。戦わないための抑止力になるわけです」

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