この国の未来に絶望しかなかった僕たち
2015年12月10日
民主主義ってなんだ?
今年の夏、僕は何度、そう国会に向けて問いかけ、叫んだだろう。
ただ、安全保障関連法制(以下安保法制)の国会審議を通じ、僕の心に生まれたこの問いかけ、この叫びは、議員バッジを付け、「先生」と呼ばれる与党の政治家たち、個人としてではなく、党という組織に属する一人としてしか動けなかった「彼ら」には、最後まで伝わらなかった。安保法制が参院本会議で可決した時、彼らが見せた表情を僕は決して忘れないだろう。
その時、9月19日未明。僕は国会前にいた。そぼ降る雨に打たれながら、SEALDsの仲間、そしてデモに参加したさまざまな人たちと、声を枯らし、夜を徹して反対の意思を示していた。
国会内の様子はワンセグの中継で逐一、分かっていた。野党議員が長々と反対演説をする「フィリバスター」や、投票に時間をかける牛歩には「ガンバレ!」という声もとんだ。国会の外にいる僕らの思いに呼応し、政党の違いを超えて尽力してくれた「代表」が国会の中にもいるという事実は、体力や気力の限界をゆうに超えていた僕らに勇気を与えた。
2時18分。
賛成多数で、安保法制は成立した。
一瞬の静けさ。ふと、どこからともなく「憲法違反」の声が上がった。沈んでなんかいられない。絶望なんかしていられない。「選挙に行こう」「デモに行こう」。デモの参加者からのわき上がる叫びは、始発電車が動き出すまでやむことはなかった。
実は、法案が通ったらそれまでの5月からの歩みが走馬灯のように頭に流れ、感情が溢(あふ)れてしまうかもしれない、と思っていた。でも僕たちの目には誰一人、涙はなかった。あの夜、国会前で共有されていた感情とは間違いなく「絶望」ではなく「希望」だった。
この夏、僕たちは再確認したことがある。それは、戦後70年の歩みを止めない、立憲主義を蔑(ないがし)ろにさせない、平和主義を守り通す、民主主義を諦めないという思いに、世代の壁は存在しないということだ。
杖をつきながら「憲法守れ」と訴えたおじいちゃんがいた。道路の縁石にペタンと座ってプラカードを掲げるおばあちゃんがいた。会社帰りにスーツのまま抗議に参加するサラリーマンもいた。そして僕たち大学生。
渋谷ではオシャレに気を配りながら、高校生がデモ行進をした。東京だけじゃない。地方のまちでも抗議の集会が開かれた。「国民の声を聞け」という怒りの運動は文字どおり全国に波及し、大きなうねりを社会につくりだした。それは戦後、この国で培われた国民意識、日本人のアイデンティティーの表れだった気がする。
そのうねりの中で僕たちSEALDsはどんな役割を果たしたのか。当事者である僕がいま評価を下すべきではないだろう。言えるのは、20歳そこそこの僕たちが思っていること、できることを精いっぱい誠実に試みただけということだ。
僕たちはどうしてSEALDsとして活動することになったのか。背景にあったのは、いまの日本に対する茫漠とした不安感だと思う。
少しばかり個人的な話をしたい。2011年3月11日。
その日、僕は春からスタートする大学生活の準備をするため、夕方の新幹線で故郷・宮城県から東京に向かうはずだった。
午後2時46分。
圧倒的な自然を前に、僕は立ち尽くすことしかできなかったあの時。防波堤も街並みも「豊かさ」への期待も、すべてが壊れた。
福島第一原子力発電所の事故では「絶対安全」な原発が爆発し、放射性物質をまき散らした。大地や海は汚染され、子々孫々に守ってきた土地に人間は住めなくなった。
信じ込まされていた「安全」が音を立てて崩れた。この国の、この社会の、なにを信じればいいのだろう。絶望感や閉塞感にとらわれたまま、僕は上京し、東京で大学生活を始めた。
親元を離れ、一人暮らしをしながら、ひたすら考えた。いったい誰が、こんな国、社会をつくったのかと。
政治家? たしかに僕たちはエラい「先生たち」が決めたことが正しいと信じていた。政治を一部の人間に任せて安心していた。だが、それでよかったのか?
社会に絶望しながら、そうした社会をつくり出したのは、自分たちの「政治」への怠惰であったと気づいた時、それまでの社会に対する振る舞いを、政治への接し方を、僕は恥じずにいられなかった。現在、社会が抱える幾多の問題は、自分たち有権者が観客席に座り、政治を遠巻きにしか見てこようとしてこなかったツケなのだ。
平成の初め、バブルの末期に生まれた僕たちの世代は、経済の発展や資本主義的な豊かさを知らない。僕たちの成長と裏腹に経済は成長をやめ、「失われた10年」は気がつけば「20年」になった。僕らはそんな「失われた」社会の空気を吸って育った。発展や豊かさは常に空白だった。
学校では、「ゆとり教育」が勝手に与えられ、大人たちからは常に「学力低下」を言い立てられた。何をしても「ゆとり」という言葉が、否定的な響きと一緒に僕らの後をついて回った。多様性の尊重は形ばかりで、個性は淘汰され、数字がついて回る「成功コース」に縛られた価値観が幅をきかした。大人が政治を敬遠し、「政治的問題」を学校では教えようとしないのに、政治的関心が低い、投票に行かないと批判のやり玉にあげられるのは、いつも私たち、若者であった。
おかしくないか。
大人だけに、政治家だけに任せておいていいのか。僕たち自身がもっと政治に関わってもいいんじゃないか。でも、どうやって?―そんな思いを共有する大学の友人たちと悶々とするなか、目に飛び込んできたのが、毎週金曜日の首相官邸前でおこなわれていた脱原発デモだった。
これって一体、何なんだ? テレビに映るたくさんの人、人、そして人。路上で何が起こっているのか。僕には分からなかった。
今でこそ、デモなどの抗議活動は再び市民権を得つつある。その点だけにフォーカスしても、この夏の国会前デモには大きな意義があったと思う。だが当時、僕たちには、どこか得体(えたい)の知れない活動に見えていた。
誰が参加しているのだろう。何がおこなわれているのだろう。その場の空気は? 行ってみたい気もするが、デモの中に入るハードルは決して低くはなかった。デモなどの「政治的な運動」は過激な意思表示と見られるのか、友だちの共感はなかなか得られなかったのだ。
僕たちは考えた。デモをイベントと見てはどうか。奥田愛基ら数人の友人とフェイスブックに「脱原発デモを見に行ってみよう」というイベントページを立ち上げた。ポップなフライヤーも作って一緒にアップした。「行ってみようかな」という人たちがぽつぽつ集まり、ある金曜日、僕たちは官邸前に向かった。
そこで僕は生まれて初めて、人の「力」を感じた。怒り、主張、切実な思い……。この国の主権者は自分たちだという意思は、今まで目にした何よりも力強く僕の目に映った。
しかし同時に、掲げられたプラカードのデザインや色使い、集まった人が発するコールはどこか前時代的で、僕たちの目にクールには映らなかった。
これじゃ若者は来ない。従来のプラカードやビラでは、現代の若者の心は動かない。だいたい、自分たちが行きたいと思えないデモに、友だちは絶対来てくれない。脱原発デモを見て僕らが学んだのは、それだった。
僕らはデモをカッコよく見せる方法の研究に勤(いそ)しんだ。同世代の共感を誘い、参加してもらうには、ビラではなくオシャレなフライヤーだろう。グッとくる音楽も必要だし、クールな動画もほしい。なにより言葉。若者の心をつかむにはどんな文句がいいか。「よりキャッチーに、よりカッコよく」を常に意識した。
僕たちのデモの特徴のひとつである「ラップ調のコール」は、そうした模索の末に生まれた。「自分たちの好きな音楽に揺れながらプロテストできたら、カッコいいし楽しいだろう」という発想からだ。真面目な抗議行動に「楽しい」という感情を持ち込むのはどうかという指摘もあるかもしれない。ただ、人間はつらいことにはなかなか足が向かないものだ。若者に政治参加を促すのなら、重苦しく抗議をするよりも、明るくポジティブにクールな主張をしたほうがいいに決まっている。
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