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若者の政治的無力感を払拭するために

―高校現場における政治/哲学教育の可能性―

渡部純(福島県立高校教諭)

 2015年6月の公職選挙法改正により18歳選挙権が制度化されて以来、にわかに高校生の政治教育がメディアで取り上げられるようになってきた。折しも、「SEALDs」のような若者の政治行動が耳目を集めたことも重なり、そこには、これまで政治的に無関心とされてきた若者の意識を変えるチャンスとの期待が生まれている。

 こうした社会潮流の中、様々なメディアを通して、模擬投票や模擬請願のような先端的な主権者教育の実践を目にする機会も増えた。そこには積極的に調べ活動に励んだり、意欲的に討論したりする高校生たちの姿があり、ますます若者の政治意識に希望が持てる光景が描き出されている。

 もちろん、公立高校の公民科教員である私自身も、こうした潮流に期待を抱く一人である。しかし、その期待と同時に、その光景と私が日ごろ授業で教える高校生たちの姿とのあいだにあるズレに、違和感を覚える自分もいる。

政治に対する高校生像 報道と乖離する現実

 実は私自身、12年度から福島県選挙管理委員会との共催で、大学生が演じる架空の県知事選挙と、実際の福島県知事選挙にあわせた模擬投票の授業実践に取り組んできた。当時、メディアから注目され、多くの取材を受けたものである。そして、その取材の過程で気づかされたのは、メディア側によってあらかじめ用意された「意欲的に政治に向き合う高校生」というイメージで、当日限りの投票風景や生徒の声を切り取る恣意性である。
日々の授業で、生徒に政治への興味をもたせることに腐心する私からすれば、それはごく一部の現象に過ぎない。むしろ、多くの生徒たちは政治の複雑さに興味をもてないのが現実である。

 メディア側からすれば、そんな言い古された現実は、もはや取り上げるに足らないのかもしれない。けれど、その現実を不問にしたところでイメージ化される「政治に主体的な若者」像は、ますます政治に対する白けたムードを広げかねないのではないか。問題は、これまで政治的無関心だとされた若者たちの根底に何があるのかを分析し、そこに結びつく政治のありようを問い直すことだろう。

 くり返すが、私自身が教える生徒たちの中からも、しばしば政治に関心をもてないという声が上がるのが実情である。しかし、その一人ひとりの声をつぶさに聴きとってみると、必ずしも彼・彼女らがはじめから政治に関心がないわけではない様子もうかがえる。
すると、必要なことは、これまで高校生の中に胚胎(はいたい)する政治への関心を押しつぶしてきたものは何か、彼・彼女らにとって関わり合える「政治」とは何かを明らかにすることである。以下では、私自身が高校現場で考えてきたことをもとに、その課題について述べてみたい。

社会への過剰適応と思考停止に導く諦念

 ところで、私は現職に就いてから15年間、学力的には中間層から底辺層にある高校現場での勤務をいくつか経験してきた。心や家庭環境に深刻なトラブルを抱える生徒が少なくない学校に勤務したこともある。その点で言えば、いわゆるトップ層にない高校生たちにとって「政治」はどのような意味をもつのか、という課題を常に意識させられてきた。そして、その課題に直面させられるのは、常に授業の中で垣間見せる生徒たちの反応によってであった。

 たとえば、「政治・経済」や「現代社会」の授業で貧困問題と人権を扱う際に、「ワーキングプア」に関する資料を用いると、そこでは「自分の家庭と重なり身につまされた」との感想をもつ生徒がいる一方、「あらためて学校の成績を上げて、何が何でも正社員に就かなければならないと思った」や、「こうならないためにはどうすればいいのか?」といった焦りを示す生徒もいる。

 若年層の貧困化や雇用の二極化が進む昨今、高校生たちがこうした強迫観念に駆られるのはわからないではない。

 むしろ気になるのは、そこから「ワーキングプア」のような存在を生み出す社会構造のあり方を考えさせると、ほとんど条件反射的に口をつく「自己責任だから仕方がない」という反応の仕方である。その理屈が、結果的に自分の首を絞めることになるとしたらどうなのか。だが、そう問い返してみても、たいていその答えは「仕方がない」とくり返すか、さもなければ押し黙るだけである。

 自分たちはその社会構造の中で、ギリギリ救われる境界線上にいると認識しているからなのか。とりわけ中間層にある高校生たちほど、その社会に疑問をもつどころか、そこから振り落とされたくないと考える傾向がある。逆に、その矛盾を考えてしまえば、そこで生きる自分自身が崩壊しかねないと直感しているのかもしれない。だからこそ、「自己責任」という常套句でもって思考を停止させながら、過剰なまでに現状に適応しようとするのだとも言える。

 というのも、生徒曰(いわ)く「どうせ社会は変わらないから」だ。

 底辺層にある高校生たちの反応は、それ以上に深刻である。「あれは将来の自分の姿かもしれない」とばかりに、ただただ押し黙るその顔は、社会にしがみつこうとする反応ですらない、諦めの表情だった。

 彼・彼女らに思うところがないわけではない。ただ、その思いを言い表すだけの言葉をもたないのである。中には、小学生レベルの読み書き計算はおろか、自宅の住所を書くことすらおぼつかない生徒が混在する現場だった。正直なところ、この生徒たちが政治を学ぶことに意味はあるのか、彼・彼女らが市民になるとはどういうことなのか、と自問せずにはいられない日々だった。

 そして、この問いに対して、当時の同僚から言われた次の一言は、今でも躓つまずきの石となっている。

 「世の中には言われたことをこなすだけで精いっぱいの子たちもいる。そんな子たちに、自分で考えて判断させようとするのは、実は彼らを不幸にするだけじゃないか」

 高校社会科の教員が集う研究会でも、「生徒に基礎知識が身についていなければ、いくら思考や判断力を問う授業を行っても無駄である」という自嘲を耳にしたこともある。だが、仮にこれが正しければ、低辺層にある生徒たちにとっては、自分で考えることは無意味であるどころか、そもそも不可能だということになりかねない。そして、これをつきつめれば、世の中は社会のあり方を決定できる人間と、それにつき従う人間に分かれていて、後者は、ただひたすら社会に適応することでしか幸福を得られないということになる。

 おそらく、上述の生徒たちはそのことを直感的に理解している。だが、それは必ずしも彼・彼女らが政治に関心がないということを意味しない。彼・彼女らにしても、自分たちに関係があればこそ、現状に適応しようとしたり諦めたりするわけだからだ。ただ、自分たちは、能力的に社会を変えたりつくったりできる立場にないと思うがゆえに、政治に関心を向け続けられないのである。

政治的無力感の根底に社会参画ためらう意識

 この問題の深刻さについて考え込まされたのは、「倫理」の授業においてソクラテスとプラトンの思想を扱った際のことである。

 「倫理」においてソクラテスは、市民一人ひとりが真理に目を向けて考え始めることで、自(おの)ずと善い国家になると信じ、市民を相手に哲学的対話を実践した哲学者とされる。
しかし、市民に自分で考えることを促そうとした彼は、若者に混乱をもたらしたとして、当の市民たちによって死刑に処されてしまう。これを衆愚政治が招いた結果と捉えた弟子のプラトンは、そこから、ただ一人真理をつかむ哲学者が政治を行い、それ以外の者は各々の身の丈に合った階級の仕事に従事しながら、その決定に服従すべきだという「哲人政治」の思想を説くことになる。

 自分で考え、判断しながら他者との対話的協働によって社会を形成していくことは、民主主義の基本原理である。これに親和的なのは、プラトンよりもソクラテスであることは言うまでもない。

 それを承知の上で授業では、私たちが選ぶべき思想はソクラテスの哲学実践か、それともプラトンの哲人政治かを考えさせることにしている。しかも、不公平の感は否めないが、授業ではプラトンの『国家』に記述される優生思想を資料として読ませることにしている。そこには、劣った者の子どもや障がい児は殺すべしと説かれているわけだから、「この国に生まれたら、私、殺されちゃう!」との発言が出るなど、プラトン思想への反発が生じることはごく当然の反応だった。

 にもかかわらず、毎回、数としてはプラトンの「哲人政治」に賛成する生徒が半数近くを占める。その理由を見てみると、ソクラテス派かプラトン派かを問わず、そのほとんどが「理想はソクラテスだが、現実はプラトンである」と書かれている。ソクラテス流に他者との対話を通じて、自分たちで考えながら形成できる社会を望みつつ、それが理想に過ぎないと諦めるのはなぜか。プラトン的階級社会に反発を覚えつつ、それが現実と受け入れてしまうのはなぜなのか。

 その根底にあるものについて、生徒の回答例をいくつか参照してみよう。
「全員が同じような知を持つことは不可能だし、結局その知の基準も誰かを中心に決めることになります」

 「市民それぞれが自分に合った階級に従事する方がよいと思う。一人ひとりの話を聞いて、本質を見極めるのは無理がある。自分に合ったことをする方が、本人にとってもよいだろうし、社会全体の調和がとれる」

 「ソクラテスのように、多様な意見を問答法によって統一すると、皆ほぼ同じような人格になり、個性を失わせる」

 「これまで日本で生きてきて、自分の意見を出してもトップの人にダメだといわれて拒否されるのがほとんどだったので、ソクラテスのやり方は浸透しない」

 「できる人とできない人が一緒になって同じことをしたら差が生まれるに決まっているのだから、そんな中で安心感なんて持てるのだろうか。高校に比べ、中学は能力の差が大きく、劣等感や不安感があったが、高校だと能力が大体同じような人たちなので、中学と比べてなんとなく安心感があると私は感じる」

 「高校生になってから『平等』という言葉に敏感になった。できる人とできない人に分けること、頭のよい人と悪い人に分けること、本当にこのことについて考えた。しかし、今は仕方ないと思ってしまう自分がいて、もうどうにもならないと思い、考えても無駄だと思うこともある。ソクラテスのような考えを持った人たちの集まった世界を経験したいです!」

 ここに挙げた回答例は、いずれも学力的には中間層にある高校生たちの意見である。ここから確認される生徒たちの認識は、第一に、本質的な「知」を決定するのは中心になる「誰か」であること。第二に、その「知」は万人に共有されうるものではないし、ましてや話し合いをさせれば混乱をきたすこと。第三に、本質的な「知」は、各人の個性や意見の多様性をなきものにすること。そして第四に、「できる人」たちと「できない人」たちは厳然と区別されており、対等に共存するのは困難であること、である。

 この、政治において「できる人」たちに独占された「知」に対し、「できない人」たちの意見や言葉が無力であることに、生徒たちの多くは共感的態度を示す。そして、そうであるがゆえに、政治における「知」の競い合いに巻き込まれて、自分たちの個性や多様性が潰されるくらいならば、政治に関与しないでおこうとの意識を働かせるのである。

 言い換えれば、彼・彼女らの政治的無力感の根底には、「自分たちに社会は変えられない」という諦念にとどまらず、そこに関与すること自体が自分自身を傷つけかねないとの認識がうかがえるのである。だが、逆に言えば、彼・彼女らの政治への関心を回復させる可能性があるとすれば、まさにその部分を問い直すことであろう。

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筆者

渡部純(福島県立高校教諭)

渡部純(福島県立高校教諭)(わたなべ・じゅん) 福島県立高校教諭

1973年、福島県生まれ。98年、千葉大学大学院教育学研究科修士課程修了。2000年から福島県立高校公民科教諭。06年から福島大学非常勤講師。11年からてつがくカフェ@ふくしま世話人。共著に『翼ある言葉―哲学の扉2―』(青木書店)がある。