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被災地で問うこの国は変わったのか

ゆがみは露わだが、変化の兆しも

坪井ゆづる 朝日新聞仙台総局長・東北復興取材センター長

 

写真1 着々と築かれていく巨大防潮堤=宮城県亘理町写真1 着々と築かれていく巨大防潮堤=宮城県亘理町
 津波の被災地を歩くたびに気づく。新しい家が建ち、店が開き、笑顔も戻ってきた。復興はカタチになりつつある。だが「これで大丈夫だ」とは、とても思えない。過疎でしぼんでいく「まちづくり」の現場は、「地方消滅」と「地方創生」の最前線だ。その現実を書くことが、「この国は変わったのか」という問いかけへの答えになる。

 被災地のほとんどで、人が減り、産業が衰退していく。公共事業への依存体質から抜け切れない。典型的な過疎地で、日本の地方が抱える問題の総合展示場のようだ。

 おそらく全国で20年か30年後に迫られたであろう選択を、津波や原発爆発で一気に突きつけられた。そこに街を再生することは、この国の未来への処方箋になるはずだ。だから「創造的復興」や「新しい東北」などと唱えられてきた。

 私たちも先進的な事例を積極的に報じてきた。高齢者を地域で見守る「地域包括ケア」(注1)、特産品のブランド化(注2)、乗用車の地域での共同利用(注3)、電力を自給するエコタウン(注4)、緑の防潮堤づくり(注5)、被災地も企業も利益を上げるビジネス(注6)、女性の手仕事の商品化(注7)、IT技術と職人技が生んだ高級イチゴ(注8)、JR駅前への街の集約(注9)、漁業特区による法人化(注10)……。

 どの現場も熱気がいっぱいだ。この国の底力を見る思いがする。だが、まだ「変革の芽」といったところではないか。うねりになって、社会を動かしているとは言いがたい。まもなく5年を迎える被災地での、それが私の実感だ。

未曽有の巨大広域複合災害

写真2 2015年3月に再開したJR女川駅。駅前での催しで集客をめざすが、列車は1時間に1本程度=宮城県女川町写真2 2015年3月に再開したJR女川駅。駅前での催しで集客をめざすが、列車は1時間に1本程度=宮城県女川町

 復興の現場を詳述する前に、まず震災の被害の大きさを確認する。

 犠牲者は2万人を超えた(注11)。関連死は3400人を数え、いまも増え続けている。なおも約18万人が避難生活を強いられ、うち6万2千人余はプレハブ仮設住宅にいる(注12)。

 津波は青森から千葉までの560平方キロ、山手線の内側の約9倍の面積を襲った。それに原発の爆発だ。復興事業は過去の災害とは桁違いになっている。

 たとえば、山林を切り開いた高台や盛り土した造成地へ行く「防災集団移転」は333地区。中越地震(2004年)の3カ所の比ではない。浜辺の集落を移す「漁業集落かさ上げ」は36地区。これも北海道南西沖地震(1993年)では1カ所あっただけだ。

 街を造り直す土地区画整理事業は50地区。岩手県陸前高田市の約300haだけで、阪神大震災全体の20地区ぶんを上回る。

 現地で再建した阪神大震災と条件が違うのだから、お金もかかる。前半5年の集中復興期間で26兆円余、後半5年の復興・創生期間を含めると32兆円が費やされる。これとは別に除染にも税負担が生じかねない。そうなれば、約16兆円が投じられた阪神の2倍を超える。

「災後」と言われて

写真3 解体が始まったベルトコンベヤー。1年半で、約504万立方メートルの土砂を運んだ。10トントラックなら9年かかるといわれた=岩手県陸前高田市写真3 解体が始まったベルトコンベヤー。1年半で、約504万立方メートルの土砂を運んだ。10トントラックなら9年かかるといわれた=岩手県陸前高田市

 発生した11年、経済成長や人口増といった戦後日本の歩みは、すでに壁にぶち当たっていた。政治も経済も迷走し、自信を失っていた国だった。

 東京大学名誉教授の御厨貴さんが「災後」という言葉を使って、「天災でも人災でもある『3・11』のあとは、日本人の基本的なものの考え方や行動様式を、長期的には大きく変える契機とならざるを得ない」(注13)と唱えたように、社会の変化を多くの人々が予期した。私もそう思った。

 政府の復興構想会議の委員を務めた御厨さんたちが、震災3カ月後に打ち出した提言(注14)には次のような記述がある。

 「実はどの切り口をとって見ても、被災地への具体的処方箋の背景には、日本が『戦後』ずっと未解決のまま抱え込んできた問題が透けて見える」

 未解決な問題には、東京で使う電力を遠く福島から送るエネルギー供給体制に象徴される「東京一極集中」の政治や経済のあり方、補助金行政が映し出す国と地方の主従関係などが含まれるだろう。

 少し横道に逸れるが、朝日新聞は震災を機に中堅・若手の論客を集めて「ニッポン前へ委員会」をつくった(注15)。「日本再設計、100年後の未来へ」というスローガンを掲げ、100年後に向けた諸制度の思い切った見直しを議論した。

 具体的には(1)津波被災地の住宅移転を進めるため、自治体による定期借地権を設定しやすくし、土地の公共利用を促す(2)復興という「公共の福祉」を目的とする場合には、所有権を一部制限する可能性もありうる(3)国会議員に科学的な専門知識を助言する国会専属の「科学技術評価機関」を設ける、といった提言を重ねた。私は「前へ委員会」の事務局長を務めたあと、12年6月に被災地に赴任した。

土建国家型の復興が続く

 現場を回ってみて驚いた。目の前に広がるのは、高速道の延伸・拡幅と、威容を現す巨大防潮堤、漁港や農地の復旧工事、更地になった市街地にどんどん盛られる土の塊だ。戦後一貫して続いてきた、典型的な土建国家型の復興だった。学校や地域の医療体制の再生などより、コンクリートに資金がつく仕組みが歴然としていた。

 たとえば、仙台市から青森県八戸市へと続く三陸沿岸道路。約30年前に着工されたが、約4割の150キロは未完成だった。震災で物資輸送の幹線となったことから、すぐに約1兆円をつぎ込んで全線開通を急ぐことが認められた。

 岩手県でも20年前から要望があった道路の建設が始まった。盛岡市と宮古市を結ぶ準高速道に、1760億円の予算がつく。

 30年来の悲願といわれた橋もかかる。宮城県女川町で、人口が100人ほどといわれる出島(いずしま)への約100億円の架橋事業が15年度に認められた。100%国費の復興事業ではなく、町が一部を負担するが、地元は復興への追い風として喜びに包まれた。

 防潮堤は岩手、宮城、福島の3県の太平洋岸に、約1兆円かけて、総延長400キロが築かれる。震災後、千年に一度の津波(L2)が起きたら避難するという「減災」の考え方が定着した。一方で、数十年から百数十年に一度はあり得る規模の津波(L1)は防潮堤で対応する方針が確認され、多くの地域がその最大規模を採用した。このため、震災前より高くて頑強な防潮堤になるのがほとんどだ。自然環境を壊す事例もあるが、復旧工事なので、環境アセスメントは必要ない。

「東北は植民地だったのか」

 復興工事は、すべて各省縦割りですすむ。原資の復興交付金は国土交通、農林水産、厚生労働、文部科学、環境の5省の計40事業のいずれかにしか使えない。多くの首長が、その使い勝手の悪さを訴えた。朝日新聞が載せた発言を並べてみる。

 「使えない財布を持たされている感じ」(岩手・大槌町)

 「復興交付金は5省庁の40事業に当てはまらないと受け取れない。それ以外に『総合枠』を設けるべきだと、ずっと言い続けてきましたが、認められません」(宮城・岩沼市)

 「全部縦割り。だから工事も一斉に始まるので、一つひとつがかえって遅くなる」(宮城・南三陸町)

 国も県も市町村も懸命に仕事をしている。しかし、全体を見渡し、優先順位をつける役割を、だれも担っていない。いや、担えない。それが縦割りの最大の悪弊だ。そして、だれも責任をとれない。

 個々の現場では、財源を握る各省と、交付金が必要な自治体が、金銭の授受をめぐって上下関係にならざるをえない。1990年代から本格化した分権改革で、国と地方は「上下・主従」から「対等・協力」になったと言われたが、被災地では分権に逆行する構図が築かれていった。

 福島県立博物館長の赤坂憲雄・学習院大学教授は「東北はまだ植民地だったのか」と憂えた。そして次のように指摘した。

 「まるで復興に名を借りた政官財の利権あさりのようです。それを被災者も黙って見ている。長らく補助金に頼ってきた地域経済と、住民の精神構造を映しています。自治体も人口が減る予想図を怖くて書けない。だから巨大な防潮堤で街を囲み、できた時から廃虚に向けて転がっていくような公営住宅を建てる」(注16)

 赤坂氏が指摘した「補助金」頼みの地域経済や「住民の精神構造」が、国主導の復興につながったことは否めない。

 実は阪神大震災の直後、兵庫県知事は権限と財源の大胆な移管を求める「阪神・淡路震災復興特別措置法案」づくりに動いた。法制定は政府に一蹴されたが、国に対してモノ申す姿勢は明確だった。こうした発想が岩手、宮城、福島3県の知事には欠けていた。復旧を国に頼って急ぐのは当然だが、復興のまちづくりでも県の存在感は希薄だったと言わざるをえない。

人口の流出が止まらない

 土建国家型の復興が長く続いてきたのは、その手法で産業や暮らしを再興できたからだろう。だが、阪神大震災ですでに疑問符がついていた。東日本大震災では、被災地の人口流出が止まらず、復興の「ゆがみ」があらわになっている。

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