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エド・マーローが遺した

テレビジャーナリズムと権力の攻防

綿井健陽 映像ジャーナリスト、映画監督

 いま放送メディアで報道番組に携わる人たちにとって、映画「グッドナイト&グッドラック」(監督:ジョージ・クルーニー/2005年公開)のような状況が、目の前に現れているのかもしれない。

 1950年代の米国で吹き荒れた反共産主義運動。それを扇動したマッカーシー上院議員に対して、マスコミは自分たちが標的とされることを恐れた。

 しかし、当時CBSの人気番組「シー・イット・ナウ」で立ち向かったニュースキャスターのエドワード・R・マーローは、政府の圧力や罠、そして会社からの孤立とも闘った。

 後に「放送ジャーナリズムの父」「放送の良心」と称される彼は、マッカーシーを取り上げる放送をするかどうかを巡って躊躇するスタッフに向かって、こう語ったという。

 「われわれの仕事は放送したものによって評価される。しかし、放送しなかったものによっても評価されるのだ」

 同映画中のシーン。番組スタッフが集まった部屋で、「君たちの中で共産党と関わりのある者はいるか?」と尋ねるプロデューサーに対して、「別れた女房が共産党の大会に出てた」と打ち明けた一人は、世間から追及されることを恐れて、取材チームから降りることを申し出た。

 そして、エド・マーローはつぶやく。

 「この部屋すら恐怖に支配されている」

 現在の日本の放送メディアは、反共産主義運動ではなく、以下のような批判や声に囲まれる中、放送局の建物の部屋で、静かにたんたんとやり過ごすのだろうか。

「放送法を守れ」
「公平・中立に放送しろ」
「偏向報道をやめろ」

 元共同通信編集主幹の原寿雄は、1987年に出版した著書『新聞記者の処世術』の中で、「ジャーナリズムは、権力と民衆の挟み撃ちにあっている」と指摘したが、30年後のいまの放送メディアの状況を予言しているかのようだ。

 高市早苗総務相による「電波停止」発言に代表されるような、政府や自民党からの圧力と、それを背後から支える〝世論〟の声の両方が、ジリジリと放送現場を追い込んでいっている。

 さらに、世論の方は二つあって、政府・自民党を支持する層だけではなく、その逆の側からも、福島原発事故や安保法制報道などを巡って、「伝えるべきことを伝えていない」と、メディアへの不信感が募ってきている現状もある。

 政府・与党と、「市民・視聴者」の間の挟み撃ちのなかで、この4月から、特に夜のニュース・報道番組の体制が大きく変わろうとしている。

気にくわないとの理由で番組を執拗に攻撃

 私自身は放送局や番組制作プロダクションに所属している人間ではないが、民放ニュース番組やNHKのドキュメンタリー番組などを通じて、様々な映像リポート・報告に90年代後半から携わってきた。テレビというメディアは、最も面白く、最も緊張感や充実感もあり、かつ様々な制約の下で影響力を発揮するメディアであったと思う。

 放送の内側からも外側からも、良い反響も悪い反応も、何かと「ゴチャゴチャ」言われ続けてきたテレビジャーナリズムは、これからどんな方向に進んでいくのだろうか。放送メディアに時に携わる者として、一方でテレビが何を伝えるか常に注目している一視聴者としても、過去最高レベルで憂慮している。

 昨年12月、砂川浩慶(立教大学准教授)と坂本衛(ジャーナリスト)とともに、外国特派員協会で記者会見を開き、「『放送法の誤った解釈を正し、言論・表現の自由を守る』ことを呼びかけるアピール」を公表した。それ以前にも何度か同じような会見に参加したことはあるが、これは政府に向かってのアピールなのか、放送局への呼びかけなのか、あるいは市民に向かって訴えているのか、その照準がわからなくなる。

 当時会見で日本語・英語通訳を務める方に、私は控室で相談した。

 「『忖度』『空気を読む』って、英語でどう訳すのですか?」

 辞書的には、忖度=guess、surmise、conjectureといった単語が当てられているが、それでニュアンスが外国人に伝わるのかどうか、よくわからない。「空気を読む」も同じである。

 大きな権力や組織の支配から「圧力」や「弾圧」を受けて、強制的に黙り込まされるのではなく、自らの回避心や「事無かれ」反応から黙り込んでいくことこそ、メディアにとって最も危険な兆候だと思う。それは必ず周囲に連鎖し、習慣化・無自覚化し、そして「触れる」ことさえしなくなる。政治権力からすれば、これほど簡単な「報道規制」「言論統制」はない。

 外国特派員協会での会見に先立って、テレビの特にニュース番組に携わる記者・ディレクター・デスク・プロデューサーらに会って、話を聞いて回った。「放送法」を巡っての法律的見解や専門家の意見はメディアで多数出ているが、実際の放送現場では、いま何が伝えられて、何が伝えられないのか?

 放送局の社員が、放送に関わることを公の場で自由に発言する「社内的言論の自由」はなかなかない。番組制作の現状の「話しにくいこと」を、自分自身も直面しているような気持ちで聞いた。

 ある民放報道番組制作に携わるディレクターは、毎回の放送終了後から1時間以上、視聴者からの多数の抗議電話対応に追われるのだという。それは抗議電話というよりも、説教電話に近い。

 「クレーム対応でよく聞くキーワードとしては、『偏った報道。放送法に違反している』『反日的な報道はいい加減やめろ』『国益を損なっている』ですね。1回の電話が10分で終わったら良い方で、長い時は30分ぐらい同じ事を繰り返してくる」

 その番組では、「18歳選挙権」をテーマにした特集で、「T-ns SOWL」という反安保法制の高校生グループを取材し放送したところ、「なぜ賛成しているグループを取材しないのか」という抗議が来たという。

 「圧倒的な力を持つ国家権力とのパワーバランスを考えても、報道機関がどちらに目を向けるべきかは、おのずと決まってくるんですが……。『国益のために放送はしていません』と言い返しますが、こういう身も蓋もない批判は正直疲れます」と嘆く。

 事実関係の間違いに対する抗議や指摘よりも、扱う対象や伝え方が気にくわないという理由で執拗に攻撃してくるのが、いまどきの抗議の特徴だ。安倍政権に対して批判的なメディアはいま、政治家からの圧力の前に、こうした「視聴者・市民」を名乗る人たちからの攻撃に日々さらされている。

無難にコメント 当たり障りのない言葉

 2年前の2014年衆院選挙、自民党は在京テレビ局の自民党担当記者を個別に呼んで、ある文書を渡した。タイトルは「選挙時期における報道の公平中立ならびに公正の確保についてのお願い」。出演者の発言回数・時間や選定、街角インタビューや資料映像で、一方的な意見に偏る、あるいは特定の政治的立場が強調されることのないようにと、その文書上の言葉でいくと「特段のご配慮を」要請するものだった。

 当時この文面を読んだ、ある民間放送局の政治部長(当時)によると、「これまでとは異なる稚拙さ、あからさまさ、異常さを感じた」という。「昔は圧力のかけ方が巧妙だった。証拠が残らないような形で、陰で言ってきた。ところがいまは、直接記者を呼び出して文書を渡す。彼らはこんな方法でも大丈夫だと思っているのだろう」

 こうした「配慮」や「要請」に対して、実際の選挙報道でも如実に変化が現れた。水島宏明(法政大学教授)の調査では、当時の情報番組での選挙の扱いが極端に減り、街頭インタビューも大幅に減っている。

 民放の情報番組に当時所属していたディレクターは、「その前の選挙(12年)の時と違って、選挙に関する企画を出しても提案が通らなくなった」という。提案が通らない「理由」が提示されない、ということも特徴的だ。

 NHKのある報道番組ディレクターは、「昨年『SEALDs』の活動やメンバーを追う企画は何度も番組で提案されたが、一度も認められなかった。ところが、安保法案成立後になると急にOKとなった。これが不可解なんです」という。

 安保法制や憲法改正に反対する学生団体「SEALDs」の活動は民放番組では何度も取り上げられたが、NHK番組では安保法案審議中は皆無だった。

 別のNHKディレクターは、こうも指摘する。

 「これから政治に関するニュースは、いつも選挙期間中のような報道になるよ。映像もインタビューも字幕テロップも、妙なバランスと配慮ばかり。どこを見て番組をつくっているんだか」

 「ニュースを伝えた後のキャスターのコメントが微妙に変わってくるだろうね。特に政府や与党の言い分に対しての反論や、『しかしながら……』とは言いづらくなる。頭のどこかにいつも『公平・中立』の言葉が浮かんでくるようになるのでは。その一方で、芸能・スポーツ・季節の話題は、逆にコメントも饒舌になるかもしれない。それらは公平も中立も関係ないし、たいした抗議も来ないから」

 無難なコメント、当たり障りのない言葉、どこからも批判が来ないような締めくくり……。「微妙なテーマ」、特に政治に関わる話題で、政府・与党から抗議が来るような内容を自ら「避ける」習性が、「とりあえずバランスを」という感覚が、知らず知らずに身についてくるとしたら……それは、決して「彼ら」だけのことではなく、実際には「私」も含めて、心の中に芽生える自主規制や萎縮の「最終完成形」のような恐ろしさを感じる。

 細川護熙元首相は、04年3月26日放送のテレビ朝日系列「ニュースステーション」(Nステ)最終回で、「どこにも当たり障りのない、無害なニュース番組は存在感、存在価値がないと思う。少しあちこちから突っ込まれるぐらいの方がいいんじゃないですか」と語った。

介入に屈してきた歴史もある日本のテレビ

 久米宏キャスターの発言や伝え方を巡って、報道番組「ニュースステーション(Nステ)」が放送された18年間に様々な「騒動」が起きた。

 89年7月、都内の料亭での会合で、梶山静六(通産相=当時)がNステのスポンサーだったトヨタ自動車の社長に対して、「あんたは久米の親戚か」と非難、 ・・・続きを読む
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筆者

綿井健陽(映像ジャーナリスト、映画監督)

綿井健陽(映像ジャーナリスト、映画監督)(わたい・たけはる) 映像ジャーナリスト、映画監督

1971年大阪府生まれ。98年からフリージャーナリスト集団「アジアプレス・インターナショナル」に参加。イラク戦争の報道活動で2003年度「ボーン・上田記念国際記者賞」特別賞などを受賞。ドキュメンタリー映画『Little Birds イラク 戦火の家族たち』(05年)、『イラク チグリスに浮かぶ平和』(14年)を公開・上映中。新刊に共著『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか―取材現場からの自己検証』(集英社新書)など。