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多数決選挙は人々の意思反映が苦手

「行きたくなる」制度への報道が必要

坂井豊貴 慶應義塾大学経済学部教授

 今夏は参院選があり、その後は国民投票を要する憲法改正が議論になるという。秋にはアメリカ大統領選が行われる。いずれも有権者による多数決の選挙が最終的な結果を確定させる。そこでこの機会にあらためて、多数決の選挙というものを、丁寧に考えてみたい。

棄権から考える

 一票には変える力がある、選挙に行かないことには始まらない、若者の低投票率が問題だ。こうした呼びかけや指摘はよくなされる。わたしもそのように思わなくもない。しかしそのうえで、皆で選挙に行こうといくらキャンペーンを張っても、とくに投票率は上がらないような気がする。

 わたし自身は選挙のたび律儀に投票所に足を運んでいる。それが市民的義務のような気がするし、選挙権は先人たちが血を流して勝ち取った貴重なものと思う。そんなふうに考えて、やむなく投票所に行く。

 だが本当は、よく晴れた日曜日にそのようなことはしたくないのだ。端的にいって面倒くさい。そんなことより、おうちでゴロゴロしたり、部屋の片づけをしたり、どこかにお出かけしたい。どうせ自分の一票が結果を左右する可能性はほとんどゼロなのだ。選挙に行かない理由はいくらでも見つけられる。

 だから皆で選挙に行こうというより、皆で選挙に行くのをやめようとキャンペーンしてみたらどうだろう。案外そのほうが民主主義にとってよかったりしないか。投票率がひとケタの選挙で勝利した政治家は、有権者の信を得たとはいえないだろう。選挙という意思表示ルートの威信はひどく下がる。反動として、デモや言論といった選挙以外の意思表示ルートの威信が上がる、かもしれない。

 このようにいうと、馬鹿なことをいうな、そんなキャンペーンは選挙に必ず行く組織票の力を強めるだけだ、とお叱りを受けるかもしれない。ごもっともである。だが、棄権しないことは、棄権することと、どこが違っており、またどこが同じなのだろうか。

白票の強制

 「白票」というものがある。何も書かれない白紙のまま投票箱に入れられた投票用紙のことだ。支持できる候補者なしという意思表示をしたい人が、白票を投ずることが多い。しかし白票は選挙結果には影響を与えられない。この点は棄権と同じである。

 では白票ではない投票用紙には、多くのことが書かれているのだろうか。実はそうでもない。

 多数決の選挙では、有権者は、投票用紙に1人の名前しか記入できない。いわば候補のなかで「1位」とする者のみを記入できる。別の言い方をすると、「2位以下」は一切記入できない。そこは白票と同じだ。すなわち多数決は、有権者に、2位以下を全て白票とすることを強要している。

 しかし人の心のなかにある「1位」だけが意思というわけではない。たとえば「公明党の支持者だが、最近は自民党がいやになってきて、共産党への好感のほうが高まってきた人」を考えてみよう。その人はもともと「1位は公明党、2位は自民党、3位は共産党」の順序で好んでいたが、それが変化して、「1位は公明党、2位は共産党、3位は自民党」の順序になった。

 では多数決の選挙で、投票用紙にその変化が取り込まれるかというと、そうはならない。投票用紙に「1位」だけしか書けないからだ。

 「選挙で民意を問う」といった言葉はよく耳にする。しかし口をガムテープで塞がれた人に何を問うても、答えは返ってこないだろう。多数決は完全には口を塞がず「1位」については答えさせてくれるが、それは人の意思のごく一部にすぎない。

票の割れ

 投票用紙に1人の名前しか書けないというのは、ときに結果をひどく奇妙に歪ゆがませる。

 2000年のアメリカ大統領選挙を例にあげてみよう。このとき民主党はゴア、共和党はブッシュが指名候補で、事前の世論調査ではゴアが有利であった。しかしそこに「第三の候補」として弁護士の社会活動家ネーダーが参戦。ネーダーは勝つ見込みのない泡沫候補だが、ゴアの票をわずかだが絶妙に食い、それがゴアの致命傷となった。勝利をつかんだのはブッシュだ。しかしゴア対ブッシュの一騎打ちの多数決なら、ゴアのほうが多くの票を獲得していたはずなのだ。

 多数決へ一番よくなされる批判は、少数派も大事にせよ、である。しかし多数決が多数派を大事にするとは限らない。かといってそれは少数派を大事にするわけでもない。多数決はよく使われており、また一番多くの票を集めた選択肢が勝つというのは単純明快に見えるが、その実質はなかなか怪奇である。

 典型的なネーダー支持者を考えてみよう。彼はネーダー、ゴア、ブッシュの順に支持している。もし最善のネーダーが立候補しないなら、次善のゴアに投票する。しかしネーダーが立候補するなら、ネーダーに投票する。

 ではそうした投票行動で結果はどう変わるか。ネーダーが立候補しないなら、次善のゴアが勝つことになる。だが最善であるネーダーが立候補すると、最悪のブッシュが勝ってしまう。

 彼にとって最善の選択肢ネーダーが現れることで、結果が、次善から最悪に変わってしまうのだ。選択肢が豊かになることで、多数決の結果が逆転してしまう。

 ネーダーの参戦は、その後の世界情勢に少なからぬ影響を与えた。ブッシュが大統領となった2001年に、アメリカは同時多発テロの攻撃を受ける。その後の2003年に、ブッシュは、テロへの戦いの一環として、イラク侵攻を開始する。そしてフセイン政権を倒し、イラクを「民主化」するものの、統治は安定しない。結局、フセインの残党がイラクの一部を奪回し、イスラム過激派組織を結成、いまのISの母体となった。イラク侵攻はブッシュ大統領が主導したもので、ゴアが大統領なら起こらなかったと考えられている。

 ネーダーもイラク侵攻にはきわめて否定的だ。しかしそのような彼の立候補が、イラク侵攻の一因となるのが、多数決の奇妙な点なのだ。

代替案ボルダルール

 多数決は有権者に「1位」しか聞かないから、票の割れが起こる。そこで代替案として有力なのがボルダルールだ。これは「1位に3点、2位に2点、3位に1点」のように配点する方式で、有権者は投票用紙にどの候補が何位か記入することになる。2位や3位へも意思表示ができるから、票の割れが起こらない。なお、ボルダとは18世紀後半に活躍したフランス海軍の科学者で、最初にこの方式を数理分析した人だ。

 ボルダルールは、一見すると多数決と大きく異なるが、実は分類上はスコアリングルールという同種に属している。スコアリングルールとは、何位に何点と、順位に配点して得点の総和で勝者を決める方式のことだ。多数決は「1位に1点、2位以下は0点」とする極端な傾斜配点のスコアリングルールである。

 国政選挙レベルでのボルダルールの実用例には、中欧スロヴェニアでの、少数民族代表選挙がある。またボルダルールと似たものとして、太平洋の島国ナウルでは「1位に1点、2位に1/2点、3位に1/3点」のように配点するダウダールルールという方式で国会議員を選んでいる。なお、ダウダールとは1960年代にナウルが独立を回復したときの法務大臣の名前で、この方式の考案者である。

 日本の選挙でスコアリングルールは用いられていないが、書籍の受賞選考ではよく使われている。三つ例をあげておこう。

● 本屋大賞の二次投票(書店員有志が主催) 1位に3点、2位に2点、3位に1・5点。

● マンガ大賞の二次選考(書店員有志が主催) 1位に3点、2位に2点、3位に1点。これは3位までを順序付けるボルダルール。

● 新書大賞の選考(中央公論新社が主催) 1位に10点、2位に7点、3位に5点、4位に4点、5位に3点。

 これらの方式のみならず、あらゆる決め方は「計算箱」である。インプットを入れたらアウトプットが出る。投票用紙をインプットしたら、選挙結果がアウトプットされる。そして多数決のもとでは、有権者は「1位」だけしかインプットできない。

決選投票を付けてみる

 たんなる1回だけの多数決ではなく、2回多数決をやってみたらどうだろう。インプットの機会を2回に増やすのだ。

 初回の多数決での上位2人に対して、決選投票の多数決をする。有名な活用例には、フランス大統領選がある。日本でも政党の党首選では決選投票が用いられることがある。2例あげよう。

● 2012年9月、民主党政権下で野党となっていた自民党の総裁選へは5人の候補が乱立した。初回の多数決では1位が石破茂、2位が安倍晋三、3位以下がそれに続いた。誰も過半数の票を獲得しておらず、石破と安倍への決選投票が行われ、安倍が勝利した。

● 2015年1月に行われた民主党の代表選では、初回の投票では1位が細野豪志、2位が岡田克也、3位が長妻昭であった。誰も過半数の票を獲得しておらず、細野と岡田への決選投票が行われ、岡田が勝利した。

 決選投票を付けるのは、票の割れの影響を下げるための、一つの工夫ではある。だが、

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