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「日常」と「政治」の空隙を埋める

そこに本当の革新性がある

大澤茉実 立命館大学政策科学部3年生

安全保障関連法案に抗議し、国会前の車道を埋め尽くす人たち=2015年9月14日安全保障関連法案に抗議し、国会前の車道を埋め尽くす人たち=2015年9月14日
 予備校の授業開始は午前9時だが、自習室は8時から開いている。7時50分には正面扉のシャッターが開くから、それに合わせて7時半の満員電車に身体を押し込む必要があった。

 「隣に座る奴より1秒でも長く勉強した者が勝つ」

 入学説明会での人気講師の言葉が頭から離れない。他の誰よりも早く自習室の予約カードを手にする行為が、私の精神安定剤になっていた。

 2013年。18歳の春、音楽大学の受験に失敗した。恐れていた「人生の終わり」はやってこなかったが、人生のレールを敷き直す突貫工事が始まった。

 三宮駅で降りると、予備校までは徒歩3分ほどの道程。駅を出てすぐ左手に、高校1年の冬に東日本大震災への支援募金集めをした広場がある。流される家々と煙のあがる原子力発電所を見ながら芽生えた、自分も明日には死ぬかもしれないという強迫観念は、人生をかけた受験を前に都合よく封印されていた。

 広場を横目にガード下を歩く。湿ったコンクリートの道に、立ち食いうどん屋の出汁の匂いが充満している。不快な匂いだった。シャッターの下りた店の前には、いつものホームレス。寒くて寝ていられないのか、段ボールの上に正座してどこか遠くを眺めている。その姿を、通勤に急ぐ人混みごと振り切るように、手作りの単語カードに目を落としてさらに足を速めた。予備校まであと一息のところで、宗教の冊子を配るおばさんに捕まって、いつものタイミングで信号を渡ることができず苛立った。私はこれ以上、この競争に出遅れるわけにいかないのだ。

受験勝者も貧困家庭も将来の夢描けない生活

 人生で2度目の受験失敗のあと、私はそれまで以上に世の中のすべてをシャットアウトしようとした。しかし、情報化した社会は私に残酷だった。スマートフォンを少しスクロールするだけで次々に溢れだす戦争、料理、自己啓発、アイドル、差別発言、ファッション、第三世界。そこではモノや時間だけでなく、安全や安心、誰かの愛にまで値札がついている。さあ「本物」を見極めてみろと、毎秒ごとに判断を迫られているかのような息苦しさがあった。

 選んでは裏切られることのくり返しは、先の見えないチェックリストに順番にバツ印をつけていくかのようだった。ひとつバツをつけるたびに幻のマルに近づいた錯覚にも陥るから、やめられない。私はそんな現実から逃げるように、アイドルやアニメの世界に没頭するようになった。決まり事がくり返される異次元の世界では、誰も私を裏切らない。嘘で塗り固められた世界にしか信頼できるものはないように思えた。布団にいる時間がどんどん長くなっていく。その頃の私は、未来の話ができなかった。

 どん底にいた私を引っ張りあげたのは、人との関わりだった。今思うと、それは本当に久しぶりの「人付き合い」だった。週に2度のアルバイトで、おそらく学校ならスクールカーストに隔てられて関わり合うことのなかったであろう女の子たちと出会った。

 家に食材も調理器具もない父子家庭の18歳、援助交際に依存する女子高生、離婚で精神を病んだ母親と暮らす女の子。社会階層や家庭環境などさまざまな違いがあるにもかかわらず、なぜか波長があった彼女たちと私は長い時間を共に過ごすようになっていた。

 長女として生まれたその子は、大学に行かせてもらえなかった。恥ずかしそうに招き入れてくれた部屋は4人姉妹に与えられたもので、二段ベッドを二つ並べると、人ひとり歩くスペースがかろうじて残るほどの狭さだった。「貧乏でごめんな」と彼女がはにかむのを見て、私はその団地に入る際に、集合ポスト横のむき出しの壁にスプレーで描かれた下卑た落書きを怖がったことを後悔した。

 二段ベッドの上で彼女の夢を聞いた。水色の布団にプリントされたディズニーのキャラクターが色褪せている。彼女は、もう一度ホテルで働きたい、と言った。以前ホテルでバイトした際に、英語がままならないことを同僚の大学生に辱められた。今のバイトで稼いだお金で本当は英語を習うつもりだったが、まだ妹の学費の支払いで精いっぱいだという。そこからは2人で、そのホテルに来たおかしな客の話で盛り上がった。

 予備校時代の友達から久しぶりの連絡があったのは、ちょうどその夜だった。入りたかった有名大学に入ったはずなのに、夢が見つからない。先輩が就職に失敗して不安、という相談だった。努力して努力してここまできたのに、と話す彼女は、いつも予備校のクラスで一番の成績だった。私は「大丈夫、大丈夫」と無責任にくり返して、飲みに行く約束をして電話を切った。競争のなかで培われた高度な知性と過度なコミュニケーション能力は、私たちに夢も仕事も与えはしないのだ。

 そして2014年の冬、いちばん仲の良かった女の子が妊娠した。2人で必死に母子家庭への支援制度をパソコンで調べ、焦燥と落胆のなかに泣いた。莫大な額の奨学金というローンを背負った彼女に、この国はシングルマザーとして生きることを許さなかった。どこまでも自分たちが無力に思えた。

 このとき私は「政治」に出会ったのかもしれない。「政治」は確実に小さな命の生死を握っていた。そして、今にも消え入りそうな命を思いながら、私もまた明日には死ぬかもしれないというあの感覚を反芻していた。

政治家の演説聞くよりまず私たちが声出そう

 2015年の憲法記念日に、特定秘密保護法に対する首相官邸前での抗議活動を通じて出会った学生ら約10人とSEALDs KANSAIを立ち上げて以来、今日まで関西を舞台とする大きな投票は3回行われた。15年5月の大阪都構想をめぐる住民投票、11月の大阪府知事・市長のダブル選挙、そして16年4月の衆院京都3区補選である。なかでも印象に残るのは、安保法が成立した後に行われた大阪ダブル選だった。

 昨年の夏のあいだ、私は「16年夏の参院選で……」と何度も口にした。ただ、口にこそ出さないものの、私は選挙に対してどこか冷めた気持ちを抱えていた。「私」という一人称単数で安全保障問題や戦争に対する思いを語ることと、選挙が有する集合的性格がどうしても結びつかなかった。むしろ、選挙という大文字の政治への虚しさから個人として話すことを選択していた。

 国会が安保法を成立させたことが、ますます私にとっての選挙を得体のしれない怪物めいたものにしていた。他でもない私自身に、「私」と「選挙」の途方もない懸隔(けんかく)を埋める必要があった。

 私は橋下政治のあらゆるデータを、腰を据えて徹底的に眺める作業から始めた。橋下徹氏が大阪府知事・大阪市長だった8年間で、大阪維新の会がどこから金を吸いとり、どこに回していたのかを調べた。彼らの言う「改革」がどのような影響を大阪に与えてきたのかが、数字の向こうに透けて見えてきた。中小企業が、福祉の現場が、喘いでいた。商店街が廃れ、大企業だけが潤っていた。

 同時に、自分自身の選挙に対する「虚しさ」への答えを求めて、

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