「象徴天皇」宣言の含蓄を読み解く
2016年11月11日
今年の8月8日、「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(タイトルは宮内庁ウェブサイトによる)がヴィデオメッセージの形で公表された。そこで暗に示された天皇陛下の退位のご意向については、メディア各社の世論調査で見るかぎり、すでに国民の多くの支持を得ているようである。そのお言葉をうけて内閣が設置した「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」も9月23日にメンバーが決まり、発足をみた。
今後、退位をめぐる制度がどうなるかは、さしあたり有識者会議での自由な議論に委ねられることになる。本稿の執筆の時点ではその方向がまだ明らかになってはいないが、何らかの制度改正が提言され、退位を認める結論となる可能性が高いだろう。明治時代の旧皇室典範(1889年)以来続いていた、天皇がみずからの意志で退位することを禁じた制度は、大きく変わることになる。
現行の日本国憲法第2条には、「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」とある。憲法の条文が、別の法律を具体的に指定して、条文の運用にはその法の規定に従うべきだと明示した、数少ない事例である。また、皇室典範を改正すれば退位を可能にすることができ、それは現行憲法の趣旨に背かないと考えるのが、現在に至るまで政府が維持している見解である(1971年3月10日、衆議院内閣委員会における高辻正巳内閣法制局長官の答弁など)。
こうした事情からすれば、退位を可能にするには、皇室典範を改正するのがまっとうな回路ということになるだろう。世論調査の結果をみても、今上陛下一代限りではなく、退位が可能な制度に恒久的に改めるべきだとする声が、多くの支持を集めている。
しかし奇妙なことに、有識者会議が発足する前から「政府関係者」の声として漏れ聞こえてくるのは、皇室典範を改めるのではなく、一代限りの特別立法によって、今上陛下に関してのみ退位を可能にしようという方針なのである(たとえば毎日新聞9月14日朝刊)。皇室典範そのものの改正となると時間がかかってよくない。それが理由づけのようであるが、退位に関係する条文に限定した追加・修正なら、それほど日数がかからないのではないか。皇室典範をめぐる諸問題については、すでに2000年代から政府内で検討が繰り返されているから、知見や参考資料の蓄積もあるだろう。
もちろん、そこには法律の改正に伴う手続きの煩瑣さを実体験として知っている担当者ゆえの判断もあるのかもしれない。しかしそれよりも感じられるのは、1947(昭和22)年に公布・施行された現行皇室典範には手をつけたくないという姿勢である。そもそも国会制定法として誕生した、この新たな皇室典範の草案作成のさいに、一代限りの立法措置によって退位を可能にすればよいという構想もまた、意識されていた。
昭和の皇室典範は、内閣のもとにある臨時法制調査会が草案を審議し、そこで議定した法案を国会審議にかけるという手続きで制定されている。臨時法制調査会での審議のたたき台となった草案、「皇室典範要綱」の作成の中心を担ったのは、当時の宮内大臣官房文書課長、高尾亮一である。のちに高尾は、62(昭和37)年に内閣の憲法調査会に対して「皇室典範の制定経過」という文書を提出し、「要綱」の作成の趣旨について語っている(『國學院大學日本文化研究所紀要』第73輯、94年3月に翻刻)。
それによると、「要綱」それ自体は、のちに結果としてできあがる現行典範と同じく、天皇の退位を認めないものであった。しかし高尾の補足説明によれば「もし予測すべからざる事由によつて、退位が必要とされる事態を生じたならば、むしろ個々の場合に応ずる単行特別法を制定して、これに対処すればよい」。典範に退位の規定を追加しなかったのは、退位規定の「天皇の自由意思を無視した濫用」を防ぎたいという意図に基づいていた―。
摂政・関白などの有力な貴族が宮中に影響を及ぼしていた時代はともかく、この現代に天皇が無理やり退位させられるという事態は考えがたい。だが同じような理由づけは、このたびの退位問題に関する報道においても、政府関係者のコメントに散見された。明治の皇室典範と、それを継承した現行典範の支配力が強いというより、自分の任期中は大きな制度改正を避けたいという、官僚の事なかれ主義の表れではないか。
かつて天皇への忠誠を中軸とする「日本精神」の体認と実践に努めた歴史学者、平泉澄は「承詔必謹」を説いた。天皇の御心について云々するのは臣民のとるべき態度ではない。そのお言葉に忠実に従うべきである。そうした信念から平泉は45年、大東亜戦争の終戦にあたっても、連合国に対する降伏の方針に反対して蹶起(けっき)しようとする軍人たちを制止し、昭和天皇の意志に従うよう諭したのであった。
ところがこのたびの天皇陛下の「お言葉」に対して、伝統尊重の立場の論者がしばしば示すのは、現行皇室典範を護持して、退位ではなく摂政を置くことで解決せよという主張であった。退位を禁ずる「皇室伝統」の「人為的変更」はいけない。そういった論拠である(たとえば7月16日のWEB版産経新聞ニュースに載った小堀桂一郎の談話)。
もちろん、さまざまな報道でも言及されているとおり、初めて退位(正史に多く見られる表現では「譲位」)を行った皇極天皇から、徳川時代末期の光格天皇までの85人の天皇に関してみれば、その7割近くが退位して後継者に位を譲っている。それを不可能にしたのは、明治の皇室典範を制定したさいの、総理大臣伊藤博文の意見である。
1887(明治20)年3月20日の会議で、譲位の規定を入れようとした原案に対し、伊藤はこう語って否定した。天皇が「一タヒ践祚シ玉ヒタル以上ハ随意ニ其位ヲ遜(のが)レ玉フノ理ナシ」。また、過去の譲位の例は「浮屠氏ノ流弊ヨリ来由スルモノナリ」(小林宏ほか編著『日本立法資料全集16 明治皇室典範[明治22年]上』信山社、1996年、453頁)。
譲位は天皇が仏教の影響を受けたからだとする説明は、譲位の慣例は仏教流入の前には見られなかったという程度の主張だろう。伊藤にとって重要なのは前段の理由、すなわち天皇がみずからの自由意思に基づいてその地位を去ることがあってはならないという方針である。坂本一登『伊藤博文と明治国家形成』(講談社学術文庫)が指摘するように、宮中と政府とを切り離し、おたがいの間に影響力が及ばないようにすることに、この措置の主眼があった。
徳川末期に孝明天皇が攘夷の実行を江戸の公儀に迫り、政治を混乱させた記憶は、当時まだ生々しかっただろう。天皇がみずから退位をちらつかせることで、政治に介入してくる。そんな事態を伊藤は恐れたのだと思われる。その結果できあがったのが、
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