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私が東京電力を辞めて伝えたかったこと

吉川彰浩 一般社団法人AFW運営、元東電社員

 私たちは日々、垂れ流される情報の確度や信頼性を、それを発信した者が何者かによって予測し、耳を傾けるに値するかどうか頭の中で整理し、受け取る心構えをしている。

 そのならいで言えば、ここで私が書く文章は読むに値するか、正当性はあるか、その整理をつけてもらうためには、私がいったい何者なのかを示さないといけないのであろう。

 そもそも、私はどんな立場にある人間か。どういう経験を経てそうなったのか。まずは生い立ちから筆を起こしたい。

 一般社団法人AFW(Appreciate FUKUSHIMA Workers)を運営する私、吉川彰浩は1980年、茨城県常総市で生まれ、中学生までを茨城県で過ごした。当時は「就職氷河期」という言葉を中学生でも知っているぐらい、バブル後の不景気が深刻だった。母子家庭で育った自分にとって、それは進路を考えるうえで重要な情報だった。

希望して福島第一原発に すっかり双葉町の一員に

 そこで私が選んだのは東電学園高等部だった。現在は廃校になっている同学園は東京都日野市にあり、東京電力の社員を育成する学校であった。理由はしごく単純だった。良い会社、安定した会社である東京電力に必ず入れるからである。学費の免除も魅力的だった。

 高校ではひたすら電気に関わる勉強をした。ふつうの高校生が大学進学か就職かで悩む3年生のときには、東京電力入社後の配属先を見据え、専門特化型クラスで原子力と火力の両方を学んでいた。

 進路(配属先)を決めるための職場見学で、福島第一原子力発電所を訪れたことが人生を決めた。「CO2を出さない原子力は環境にやさしい電源です」というテレビCMが日々、流れる時代。誰しもが社会人になる前に抱く、「何か大きなことをやってみたい」という客気にかられ、配属を希望。福島第一原発で東京電力社員としての一歩を踏み出した。

 原発で働く技術系社員はみな、3交代で原子炉を運転する操作員と呼ばれる専門職の見習いからスタートする。そこで発電所の設備について1年間、みっちり学ぶのである。実務をするにもこの1年間の研修が「基礎中の基礎」となる。

 1号機や2号機を運転する先輩たちに囲まれ、必死に専門知識を身につけた。どこにどんな設備があるか。配管はどうなっているか。いまも当時のプラントの状況を鮮明に思い出すことができる。

 入社してしばらく、いわゆる研修生時代から10年間生活したのは、現在は全域が避難区域になっている双葉町だった。地域で最大の雇用先である原発で、東京電力の社員として働く私たちに、地域はとても温かった。

 6畳一間の独身寮での新生活は不安だらけだった。ホームシックにもなった。支えてくれたのは双葉町の人たちだった。田舎では、顔も名前もすぐに知れる。お店で声をかけられ、お祭りに呼ばれ、いつしか私は町の人間の一人になっていた。

 いま思えば、この小さな田舎町は巨大な原発、そして大企業・東京電力と、ごく自然に共存していた。町の人の多くは第一原発の下請けで働いており、友人、知人、親戚をたどれば、原発に繋がらないという人はいないと言っても過言でない状況だった。「原発ジプシー」などと言われるおどろおどろしい職場環境は、私が第一原発で働き始めた1999年には、なかったとはっきり言える。

原子炉が冷却できず不眠不休で危機脱す

 多くの先輩と同様、私もこの地で結婚し、東京電力社員として福島で暮らしていくことをつゆも疑わない、そんな生活が続いていた2011年3月11日、すべてを変える大地震が東北を襲った。

 私は約10年間つとめた福島第一原発から、南に約12キロ先にある福島第二原発に異動になっていた。放射性廃棄物と呼ばれる、主に液体を処理する設備の保守監理をするグループの一員として現場を支え、新入社員の教育も任せてもらえる中堅の立場だった。

 津波に襲われた直後、破壊された第二原発の敷地内の光景は、目の前にあるのにそれを受け止められない、嘘のような状態になっていた。津波で運ばれた土砂が堆積し、あたりは田んぼのよう。停めてあった車は押し流されて転がり、テロ対策用の防護フェンスはぐちゃぐちゃに壊れている。高台にある発電所から見下ろすと、あるはずの町がなかった。家族は大丈夫か。足が震え、動悸が早くなる。死を連想させる風景が広がっていた。

 原子力発電所は一般の設備に比べてはるかに耐震性は高い。しかしこの分だと、原子炉建屋内、タービン建屋内の地下は水没しているはずだ。原子炉の安定冷却に必要な電源設備も……。最悪の事態が脳裏をよぎった。

 建屋に走った。ドアをこじ開けて状況を確認する。設備を動かす電源が水没。原子炉の冷却が続けられない状態だ。このままだと、どんな事態が生じるか、分かりすぎるぐらいに分かっていた。

 深夜にかけて状況把握を進めた。余震が収まらない暗闇で、津波がまた来たらという不安の中で調査した結果、原子炉冷却に必要な設備が壊滅的なダメージを負っていることが分かった。復旧できるかどうかは、賭けに近かった。

 復旧に必要なモーター、電力ケーブル、電源車、変圧器を緊急に調達する必要がある。物流は途絶えていた。自衛隊の協力などをあおぎ、新潟県の柏崎刈羽原子力発電所から空輸やトラック搬送をしてもらった。運転操作員は限られた条件下で、必死に冷却に取り組んだ。

 津波で失われた電源を確保するため、被災を免れた廃棄物処理建屋の電源設備から9キロ、人力でケーブルをひいた。通常なら1カ月かかる作業だが、約200人の社員・協力企業が不眠不休で3日で繋いだ。

 私は炉心冷却に必要な水の確保に奔走していた。備蓄してある水では足りない。川からの取水は不能。数十年使っていない井戸も使ったが、まったく足らない。遠く離れたダムの水を社員がタンクローリー数台で運ぶことになった。地震で被害を受けた山道を10時間かけて走りきり、無事に水が届いたときは、言い表せない安堵があった。最悪の事態は逃れた。

第一原発から運ばれた体中汚染された人たち

 古巣の福島第一原発で1号機が爆発したのは12日の午後だった。第二原発でも危機的な状況は続いていたが、第一原発の状況は第二原発よりさらに厳しく、14日には3号機が、15日には4号機が爆発。第二原発の敷地にも放射性物質が降り注いだ。

 第一原発からけが人や、体中が汚染された人たちが運ばれてきた。彼らは逃げてきたのではない、構内に滞在する場所がないがゆえの一時待避だ。だが、第二原発にも十分な施設はない。粉雪が舞うなか、ガラスの割れた体育館があてがわれた。食料を持っていこうとしても、汚染が拡大するからと許可されなかった。第一原発で働くのは第一原発の人間。第二原発は第二原発の人間―。非情な線引きは、情で動くと復旧が妨げられるので、仕方がない処置ではある。とはいえ、個人的には耐えきれない思いが残った。

 福島第一原発は、自衛隊や消防隊の協力も得て、必死の冷却作業が進められ、事故収束にもあたれないという事態は防ぐことができた。

 振り返れば、あのとき福島原発の現場にいた者たちは、極限的な状況のもと、命を投げ出してもかまわないと覚悟を決めた。日本を救うといった大それたことではない。ただただ家族や自分が暮らしてきた町を守りたい、守るのは自分たちしかいないという思いからだった。

 発電所の中だけではない。暮らしが失われようとしたとき、自らはどうなってもいいと動いた人たちが、被災した地域に無数にいたのである。

被害者であり加害者 3・11で変わった属性

 幸い、世界の終わりにはならなかった。しかし、私にとっての世界は3・11前とは決定的に違ってしまった。なにより私自身が変わったのである。

 東京電力の社員として、福島原発で働いてきた私は、被災者であると同時に加害企業の人間になった。どうあがこうと、それが私の属性なのだ。そしてそれこそが、私が東京電力を辞め、現在の活動をはじめた理由なのである。

 12年6月、長年勤めた東京電力を退職した。新しい道を行くためだった。事故のあと、原発で起きていたある事象を看過できなかったからだ。それは、現場力の低下によるトラブルの頻発であった。

 現場力が低下した原因は、思いがあり、技術もある作業員・社員が、社会の追及や批判から家族を守るために会社から離れたうえ、危険な場所での作業ゆえに新たな人も集まらず、事故現場を支える「人材」が減ってしまったことにあった。

 思い返せば、毎週のように泣きながら現場を離れていく人たちがいた。東京電力の社員だけではない。一緒に事故と格闘してきた協力企業の人たちもであった。社会のバッシングは強まる一方。加害側であり、かつ被災者でもある「二重苦」のなか、社会に居場所がない。自分への矢は受け止めなければならないが、その矢が子どもや家族に向けられるとき感じた、自分の存在が家族を苦しめているという思いが、彼らをさらに苦しめた。

 極限の状況下、命がけで作業した仲間を残して離れる悔しさ、悲しさは、こらえきれぬ涙に現れていた。見ていた私にとっても、気が狂いそうな毎日だった。

 しかしそうした現場の実態を、社会に伝える術はなかった。福島第一原発の内情に精通した専門家はテレビにも新聞にもネットにもいなかった。原発に知悉(ちしつ)した人が、現場の声を拾い上げつつ、起きていることを報道するべきなのに、そんな報道はほとんどなかった。

 事故から1年が過ぎたころ、私の中で会社にいることへの疑問が日ましに強くなった。このまま会社に通い続けて、現状を変えられるのか、と。

 「想定外の大津波で事故が起きたのではない。大津波の可能性を知らず、対策を打たず、事故を防げなかった自分が、事故を招いた」という自責が私を突き動かした。原子力の安全を社会から託されているという責任感をもって働く自分が、過去にいたのかという罪の意識である。

 起きたことは戻らない、そして福島原発の事故は謝ってすむ領域を遥かに超えていた。事故の収束を一日でも早く進めなくてはいけない。現場力の低下を食い止めなくてはいけない、なにより私を育ててくれた被災した人たちの日常を、一日でも早く取り戻さなくてはいけない。そのために必要なことは何か? 現場で起きていること、ほんとうの声を社会に届け、不信や誤解、いがみ合いから生じる負の連鎖を止めることではないか。

 その役割を担おうと思った。東京電力にいては、耳を傾けてもらえない。辞めるしかない。そう心を決めた。

廃炉情報発信するため一般社団法人AFW設立

 とはいえ、現実は厳しかった。真実は必ず届き、事態の改善に繋がる、と信じて活動をはじめたものの、高卒の一社員でしかない自分は、あまりに無力であった。元東京電力社員という肩書も邪魔をした。社会は告発を求めていた。マスメディアであれ、個人であれ、東京電力がいかに悪であるかということを引き出したい人たちばかりが集まってきた。私から聞いた情報を、彼らは自らの思想を正当化する材料として使った。

 個人の発信だけでは限界があると痛感した。現状を変えるには、より強い発信力をもたないといけない。自分自身が社会を変える何らかの活動をしなければならないと感じた。

 高校時代からの友人たちの力を借り、仲間を集めた。原発事故の処理は、反原発であろうとなかろうと、思想に関係なく必要なことだ。まずはそこを知ってもらう。活動の目的をそこに定め、任意団体AFWを立ち上げた。

 手がけたのは、

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