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日ロの相互不信は前向きな一歩

トランプ政権成立後の世界とロシア

小泉悠 未来工学研究所研究員

 トランプ政権が成立すれば冷え込んでいた米ロ関係が大きく改善するのではないか、という見方は選挙戦の最中から繰り返し指摘されていたが、そこで焦点とされていたのはシリア情勢やウクライナ情勢、そして米国の内政への干渉であった。一方、トランプ政権の成立がアジア太平洋地域におけるロシアの戦略にどのような影響があるか、という観点からはほとんど議論がなされてこなかったように思われる。

 そこで本稿ではまず、現在の世界におけるロシアの立ち位置や考え方を概観した後、これに照らしてアジア太平洋地域がロシアにとってどのような意義を持つのか、トランプ政権の成立がどのようなインパクトを持ちうるのかについて考察する。その上で、北方領土問題を軸とする日米中ロの関係性を取り上げ、ロシアがどのような戦略を展開しようとしているのかについて述べてみたい。

一極支配とNATO拡大 冷戦後の秩序に不満

 本論に入る前に、現在の世界をロシアがどのように見ているのかについて述べておく必要があろう。

 2014年のウクライナ危機以降、軍事力を背景としたロシアによる現状変更的振る舞いが注目を集めるようになったが、その背景にあるのは、冷戦後の秩序そのものに対する不満であると考えられる。

 たとえば2000年代までのロシアは冷戦後の国際秩序を「一極支配」と表現することが多かった。これは唯一の超大国となった米国と、その同盟国(西側)があらゆる秩序を一方的に決定してしまうという状態を示す。ことにロシアが不満を覚えていたのは、冷戦後もNATO(北大西洋条約機構)が解体されないばかりか、ソ連の同盟国であった東欧諸国やソ連構成国であったバルト三国にまで拡大していったことであった。また、民主化革命を経たウクライナやジョージア(グルジア)も2000年代以降には公然とNATO加盟を掲げるようになった。

 こうした現象は、東欧・旧ソ連諸国がそれだけロシアによる再支配を恐れていたことを示すものと言えよう。また、米国の保守派などからすれば、ソ連を中心とする旧東側の「誤った」政治・経済体制が敗れ、より「正しい」西側のそれへと回収されていくことは当然とみなされた。

 だが、ロシアの目にはそのようには映らなかった。ロシア帝国やソ連から受け継がれた「歴史的空間」である東欧・旧ソ連の勢力圏がNATOの拡大によって侵され、ロシアの安全保障が脅かされているという認識を強く持ったのである。

 1999年のユーゴスラビア空爆に代表されるように、米国や欧州諸国が国連決議に基づかずに武力行使を行うようになったこともロシアにとっては不満であった。国連安全保障理事会はロシアが影響力を発揮しうる数少ない場であり、これをバイパスして軍事力を行使されれば、ロシアには米国の行動に歯止めをかける手立てがほとんどなくなってしまうことを意味していた。

 しかも西側の軍事力行使の対象とされた権威主義的体制の多くはロシアの友好政権であった。また、軍事力行使までは至らずとも、欧州最後の独裁国と呼ばれるベラルーシから極東の北朝鮮に至るまで、ロシアの友好国には権威主義的体制が多く、ロシア自身もしばしば政治体制のあり方について西側から非難を受けてきた(プーチン大統領はこれを「お説教」と呼んだことがある)。この意味では、民主化にせよ軍事介入にせよ、西側による「自由と民主主義の拡大」はロシアの勢力圏を喪失ないし不安定化させるものとロシア側からは理解された。

 このような被害者意識を持つロシアにしてみれば、2014年のウクライナへの軍事介入は侵略ではなく、自国の勢力圏を守る防衛的行動であるということに(主観的には)なる。この軍事介入ではロシアが民兵や特殊部隊を組み合わせた「ハイブリッド戦争」を展開したことが注目されたが、こうした手法自体は戦史上さして珍しいものではなく、ソ連/ロシア自身もそのような軍事力行使を過去幾度となく実施してきた。むしろ注目されるのは、冷戦後のNATO拡大(ロシアから見れば勢力圏の喪失)を実力で阻止する能力を備えたことであろう。

 この意味では、シリアへの軍事介入もある程度同列に捉えられる。ロシアの介入目的はもちろんアサド政権の保護であったが、より広く見れば、欧米から「権威主義的」と見なされた国家が次々と転覆させられていくという流れ(ロシアが「一極支配」と呼ぶもの)を押しとどめる契機であったとも見ることができる。こうしたなかでロシアが軍事力を行使し、アサド政権を守り抜いたことは、冷戦後の流れに関してひとつの転換点になったと言えよう。

米外交は現実路線 期待はずれたロシア

 では、トランプ政権の成立はこうした状況にどのようなインパクトをもたらすのだろうか。

 米大統領選の期間中から実際にトランプ政権が成立してからしばらくの間、ロシア側はトランプ政権に対して強い期待をかけていた。それは、しばしば「孤立主義」的と評されるトランプ氏の言動が、ロシアの勢力圏や権威主義的諸国への不干渉を示唆するものであったことによる部分が大きいだろう。特にトランプ政権がウクライナ問題への関与を手控えるならば、2014年以降に導入された対ロ経済制裁が解除ないし緩和される見込みも出てくる。また、トランプ政権内にはマティス国防長官をはじめとしてイスラム過激派対策に熱心な安保専門家が多いことから、米国がアサド政権打倒を諦めてロシアと一緒に過激派組織「イスラム国」(IS)の掃討に傾斜するだろう、という期待もロシア側にはあった。

 しかし、実際にトランプ政権が動き出してみると、このような期待は裏切られた。

 第一に、トランプ氏個人は孤立主義的な考え方を持っているとしても、実際の政策運営に関わる閣僚や官僚機構の行動はより現実的であった。マティス国防長官やティラーソン国務長官をはじめとするトランプ政権の主要閣僚は、ウクライナ問題でもシリア問題でもロシアが期待したような宥和(ゆうわ)的姿勢を示してはおらず、おそらく今後ともトランプ政権の姿勢が大きく変化することはないだろう。

 第二に、欧州における対ロ警戒感は、もはやウクライナ情勢からは切り離されて一人歩きを始めた感がある。ロシアがウクライナで見せた介入手法は、ロシアに対して警戒的な北欧、東欧、バルト諸国の危機感を一気に高めており、リトアニアやスウェーデンでは徴兵制の復活にまで至っている。加えて、ロシアは欧州正面における通常戦力の強化を進めているほか、INF(中距離核戦力)全廃条約に違反して地上発射巡航ミサイルの配備を開始するなど、全スペクトラムにわたる軍事的緊張が欧州において高まっている。欧州諸国内に一度生まれた対ロ警戒感は、仮にウクライナ問題が沈静化しても容易に消えることはないだろう。

 第三に、米ロ関係そのものの不安定性についても指摘しておきたい。振り返ってみれば、これまでも米ロ関係は急激な好転と悪化とを繰り返してきた。ソ連崩壊後、ロシアは西側の政治・経済・安全保障体制への統合を目指したが、それが容易でないことが分かると「ユーラシア国家」としての独自路線を主張するようになり、前述したユーゴスラビア空爆で米ロ関係は最悪の状況に陥った。2000年に成立したプーチン政権は米国同時多発テロを契機として対米協力路線を打ち出したものの、イラク戦争や米国の東欧へのミサイル防衛システム配備問題などをめぐって再び関係は悪化し、2008年のグルジア紛争後には再び米ロ関係は緊張状態へと落ち込んでしまう。メドベージェフ政権とオバマ政権の成立は、こうした流れを「リセット」する契機と見られたが、最終的にはウクライナ危機によってこれまで述べたような緊張状態の再来となった。

 こうした変転は、米ロ間の社会的・経済的関係の薄さによるものが大きい。緊密な関係を有する欧ロ関係に対し、こうした関係性の乏しい米ロ関係では安全保障問題が大きな比重を占めざるを得ず(これまで述べた米ロ関係の好転/悪化のきっかけはいずれも安全保障問題である)、したがって政治的な決断いかんで急転しやすいというメカニズムをそこに見いだすことができよう。

アジア太平洋への進出 「てこ」欠くロシア

 ところが、アジア太平洋地域においては事情がまったく異なる。ソ連崩壊後も極東部の国境はほとんど変化することなくロシアへと受け継がれたうえ、北朝鮮、中国、ベトナムといった友好国でも権威主義的体制の転換は発生しなかった。ユーゴスラビア空爆やイラク戦争のような、西側による一方的軍事力行使も極東では行われていない。したがって、冷戦後のロシアがアジア太平洋地域において抱いた不満の程度は、欧州や中東におけるそれと比べてはるかに低かったと考えられる(注1)。

 しかも、ロシアにとってのアジア太平洋地域は、発展への契機という、よりポジティブな側面を有していた。ロシア政府は2009年の「国家安全保障戦略」において、ロシアのGDPを世界トップ5入りさせるという目標を掲げたが、実際には原油価格の下落や経済制裁によってロシア経済は伸び悩んでおり、現在の順位は世界第13位ほどに過ぎない(2016年、世界銀行調べ)。したがって、ロシア政府が自国にふさわしいと考える経済力を獲得するためにはさらなる経済成長を必要とするわけだが、最大の貿易相手である欧州はすでに安定成長期に入っており、ロシア経済の高度成長を促すエンジンとしては期待し難い。これに対して年平均5%台の経済成長を続けるアジア太平洋地域は、ロシアにさらなる高度成長の契機をもたらしうる。

 また、ロシア極東の振興という観点からも、アジア太平洋地域に対するロシアの期待は大きい。極東連邦管区は全ロシアの約36%(約617万平方キロメートル)という広大な面積を占めながら、そこで暮らす人口は全人口のわずか4・2%(618万人)に過ぎない。平均所得、失業率といった多くの社会経済的指標で見ても、極東は欧州部ロシアに大きく後れを取っている。こうした深刻な状況が長期にわたって続けば極東の荒廃は避けられないばかりか、中国の「人口圧力」によって経済的に支配されてしまうのではないかという懸念が1990年代から根強く囁かれてきた。したがって、ロシアの全体的発展だけでなく、極東の振興という観点からもアジア太平洋地域の有する発展ポテンシャルはロシアにとって大いに魅力的なものであるといえよう。

 しかし、ロシアのアジア太平洋地域への参入にはジレンマが存在する。参入していこうにも、ロシアにはそのためのレバレッジ(てこ)が極めて乏しいことである。アジア太平洋地域はロシアの政治・経済的中心から遠く、エネルギー資源をロシアに依存しているわけでもない。

 また、この地域にはすでに日本、中国、韓国、台湾といった有力な先進工業国が存在しており、国際競争力に劣るロシアの工業製品がシェアを獲得できる余地も乏しい。安全保障面で言えば北東アジアでは米国を中心とするハブ・アンド・スポーク型の同盟体制と中国の影響力が大きく、東南アジアでも米国の影響力が圧倒的に大きい。

日本は経済パートナー ロシアの姿勢は変わらず

日ロ首脳会談に続いて行われた「日露ビジネス対話」。集合写真におさまるプーチン大統領(中央左)と安倍晋三首相(中央右)=2016年12月16日、東京都千代田区、杉本康弘撮影拡大日ロ首脳会談に続いて行われた「日露ビジネス対話」。集合写真におさまるプーチン大統領(中央左)と安倍晋三首相(中央右)=2016年12月16日、東京都千代田区、杉本康弘撮影
 この意味では、ロシアにとっての日本はアジア太平洋への窓と位置づけられる。北方領土問題という政治・安全保障問題を一種の人質(より穏当な表現でいえばレバレッジ)として、経済協力を引き出すことが可能であるためだ。これについては米国のトランプ政権成立によって米ロ関係の改善にめどがつき、対日協力のインセンティブが低下するのではないかという見方もある。特に2016年12月のプーチン大統領訪日の際、領土問題に関して大きな進展がなかったことをこのような観点から説明する向きも存在したが、筆者は次の二つの理由からこのような見方には与(くみ)しない。

 第一に、 ・・・続きを読む
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筆者

小泉悠(未来工学研究所研究員)

小泉悠(未来工学研究所研究員)(こいずみ・ゆう) 未来工学研究所研究員

1982年千葉県生まれ。早稲田大学大学院修了後、民間企業勤務を経て外務省国際情報統括官組織で専門分析員、ロシア科学アカデミー世界経済国際関係研究所客員研究員などを歴任。ロシアの軍事・安全保障政策が専門。主著に『プーチンの国家戦略』(東京堂出版)、『軍事大国ロシア』(作品社)がある。