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米国政治に革新もたらした人民党

トランプはどうか? 注目のとき

宇野重規 東京大学社会科学研究所教授

 現代世界を読み解くキーワードは、「ポスト・トゥルース」と「ポピュリズム」である。確かにそうかもしれない。とはいえ、この二つの言葉を口にするだけで、世界について何かを言った気になるのは、どこか違うのではないか。

世界を読む「キーワード」 はたしてそうなのか?

 いまや、何が客観的事実(真実)であるかは、さほど重要でない。そう見える、あるいはそう感じられるだけで十分なのである。肝心なのは、人々の理性よりは感情に訴えかけることであって、グローバリズムによって痛めつけられた人々の怒りや鬱屈に火をつけ、そのような感情をぶつける対象を適当にフレームアップすればいい―。「ポスト・トゥルース」時代の政治手法はこんな具合であると、しばしば解説される。

 このような時代に、理性的に人々の利害を丁寧に調整し、組織を構築し、政策パッケージを打ち出しても仕方がない。そもそも、政党をはじめとする既成の政治システムに対する信頼は低下するばかりである。だとすれば、そのような面倒臭い仕組みを迂回して、直接国民に訴えかけるべきではないか。むしろ、従来、政治に関わっている「プロ」たちを悪あしざまに批判したほうが、人々の共感と喝采を得られる。「ポピュリズム」が流は行やる背景には、そうした思考があるのだろう。

 だが、ちょっと待ってほしい。私たちが「ポスト・トゥルース」「ポピュリズム」と言うとき、どこかに客観的な事実があり、正しい民主政治があると、さしたる根拠もないのに想定してはいないだろうか。ツイッターでいい加減な情報を垂れ流すトランプ大統領と違い、マスメディアは公正・中立な報道をしている。悪質で扇動的なポピュリスト指導者さえいなくなれば、ノーマルな政治の仕組みが戻ってくる。そんな想定が、無意識のうちに前提とされていないだろうか。

 政治とは本来、「プロ」が行うべきものであり、無責任な素人がそれを攪乱(かくらん)することはやめてほしい。さらに問題なのは、理性的な判断をできずに感情に押し流され、不正確な情報に惑わされる一部の有権者だ。「ポスト・トゥルース」と「ポピュリズム」という問題設定をするときに、そんな考え方がいつの間にか入り込んできているとすれば、考え直したほうがいいのではないか。

 およそ客観的な事実とは何なのか。人々の怒りや鬱屈を回避した「プロ」の政治など、そもそも可能なのか。問題の射程をそこまで広げない限り、「ポスト・トゥルース」と「ポピュリズム」をめぐる議論はかみ合わず、はてしなく空転してしまう。

 では、どうすれば空転しないですむのか。困難な課題ではあるが、あえて考えてみたい。

オバマ、トランプ両氏の政界の新人という共通点

 この問題を考える上で、糸口となる本がある。IT技術に通じたコンサルタントである池田純一の『〈ポスト・トゥルース〉アメリカの誕生』(青土社)である。

 今回のアメリカ大統領選では、ヒラリー・クリントンの私的メール使用問題にはじまり、トランプ陣営のツイッターを用いた選挙戦略、フェイクニュース、はてはロシアによるハッキングなど、ネットに関する話題に事欠かなかった。しかしながら池田は、このような表層面だけでなく、より根底的なレベルで政治というゲームのルールが「書き換えられた(ハッキングされた)」のではないか、と問いかける。

 興味深いのは、池田がトランプを必ずしもオバマの否定者ではない、としている点である。なるほど、政策的に見れば、オバマケアの撤廃を目指すなど、トランプはオバマのレガシー(遺産)を否定しようとしているように見える。リベラルで多文化主義的なオバマと、白人至上主義的で孤立主義を志向するトランプとでは、政策的な方向性がまったく正反対であると言うこともできるだろう。にもかかわらず、池田はむしろ二人の間の共通性に着目するのである。

 「政治家としての実績に欠ける新人が立候補し、善戦し、当選する、という経路だけ見れば、オバマもトランプも実は変わらない。二人がともに武器にしたのは、ソーシャルプラットフォームを梃子にした有権者への『ダイレクト・コミュニケーション力』だった」(332ページ)。

 実際、州知事など豊富な政治経験をもつ人物が目立つ歴代大統領と比べ、オバマにはわずか1期だけの上院議員経験しかない。トランプにいたっては、政治的な公職にはまったく就いていない。二人は「政界」の新人であり、アウトサイダーであった点で共通している。

 ただし、オバマはコミュニティー・オーガナイザー、トランプはディベロッパーというように、都市を舞台として政治と経済に具体的にかかわった経験を有している点に、池田は注目する。二人は都市において泥臭い実務に携わり、人と人、人と具体的な場所を結びつける能力に長けている。

 その意味で、彼らはともに職業的な政治家とは異なるコミュニケーション能力を持ち、新たなメディアを駆使して政界の頂点に一気に達したとも言える。その際、彼らは政治の世界に、これまでとは異なるゲームのルールを持ち込んだのかもしれない。

ソーシャルメディアこそナショナルなメディア

 池田の指摘でもう一つ興味深いのは、オバマとトランプを押し上げた新しいメディアが、いわゆる「ナショナルな」メディアであるという点である。

 よく知られているように、アメリカの新聞は「ニューヨーク・タイムズ」であれ「ワシントン・ポスト」であれ、地域的な限定を持つ「ローカル紙」がほとんどであり、全国紙は例外的である。テレビにしても、3大ネットワークこそあるものの、もともと時差のあるアメリカにおいては、ニュース番組も地域ごとにつくられる。既存のマスメディアはナショナルとは言えないのである。

 これに対し、ソーシャルメディアは全米を一つにまとめるナショナルなメディアである。これによって、州知事などの地域的な基盤を持つ政治家が中心だったこれまでの政治のあり方に変化が見られると、池田は指摘する。

 そう考えると、1980年代のロナルド・レーガン以来、南部出身の大統領が目立つなか、北部出身のオバマとトランプが大統領になった(あるいはむしろ、二人はそもそも地域との結びつきが強くない)のは、偶然ではないのかもしれない。彼ら二人は、最初からソーシャルメディアを通じて、全米というマーケットを対象に知名度を高めてきた政治家なのである。

 池田の見るところ、このような流れの「源」は90年代半ばのビル・クリントンの時代にある。この頃から民主党は、ダイレクトメールやケーブルテレビを使って草の根戦略を展開してきた共和党に対し、新たな広報戦略を模索している。

 具体的に言うと地域やエスニシティーを超えて、一人ひとりの有権者にアプローチする方法を探ったが、そのような「マイクロターゲティング」の要求に応えられたのが、まさにインターネットであった。そして、2000年以降、ウェブを活用した政治動員やファンドレイジング(資金調達)の試みが本格化するのである。

 その意味で、オバマもトランプも、ビル・クリントン以来の流れの中から生まれてきたと言える。トランプにビルの妻であるヒラリー・クリントンが屈したのは、実に皮肉な事態と言わざるをえないが、要するに、ビル・クリントンの流儀をよりよく活用したのは、ヒラリーではなく、トランプだったということであろう。

可視化されない不満をすくい上げたトランプ

 このように考えるならば、トランプ大統領と「ポスト・トゥルース」状況の出現も、単なる(客観的事実と異なる)虚偽や嘘の横行とは違った角度から検討する必要が出てくるだろう。

 トランプが、リベラル派優位のマスメディアを回避してツイッターなどのソーシャルメディアに依存したのも、 ・・・続きを読む
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筆者

宇野重規(東京大学社会科学研究所教授)

宇野重規(東京大学社会科学研究所教授)(うの・しげき) 東京大学社会科学研究所教授

1967年生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。同大学社会科学研究所准教授を経て2011年から現職。専攻は政治思想史、政治学史。著書に『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社選書メチエ)、『〈私〉時代のデモクラシー』(岩波新書)、『保守主義とは何か』(中公新書)など。