メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

トランプ氏のポスト・トゥルース政治

「正しく怖がる」ためにすべきことは

渡部恒雄 笹川平和財団特任研究員

 事実の裏付けのない発言を連発し、主流メディアを敵に回しながらも、米大統領選挙に勝利したドナルド・トランプ政権の誕生は、世界に「ポスト・トゥルース」(脱真実)時代の到来を実感させ、不安を与えている。しかもトランプ政権は、CNNやニューヨーク・タイムズなどの主流派メディアへの批判と攻撃を強め、選挙対策最高責任者から大統領上級顧問兼首席戦略官として影響力を振るうスティーブ・バノン氏が運営してきた「ブライトバート・ニュース」のような反主流で保守的なウェブメディアを、ホワイトハウスの記者会見で優遇している。

 これらの一連の動きは、扇動政治家による大衆操作の可能性も予感させ、不安を増幅させている。アドルフ・ヒトラーの『わが闘争』の中の一節、「宣伝の技術はまさしく、それが大衆の感情的観念界をつかんで、心理的に正しい形式で大衆の注意をひき、さらにその心の中にはいり込むことにある」という前例は、人々の記憶にまだ残っているからだ。

 ただしトランプ政権の誕生は様々な現象が重なって起こったものであり、それぞれの要素を冷静に理解して対処すべきものだ。いたずらに不安をあおるだけでは、それこそが自ら大衆操作の「罠(わな)」に落ちることになる。そもそもリベラルな主流メディアからの牽制(けんせい)により、政府の暴走を防ぐというような古典的な理念型が今の米国社会で機能するのかどうかも疑う必要がある。なぜなら、トランプ氏への支持の中には、ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストなどのリベラルメディアが積極的に展開した反トランプ・キャンペーンに対する不信感や反発という要素が、重要な役割を演じていると思われるからだ。

 2016年の大統領選挙予備選の最中の4月25日に、筆者はウェブジャーナル「フォーサイト」(新潮社)に「日本は『トランプ大統領』を『正しく怖がれ』」という寄稿をして、選挙戦でのトランプ発言をそのまま額面通りに受け取って、極端なシナリオを想定して心配をあおりすぎるのはあまり賢いとはいえないと指摘した。福島原発事故の直後、日本社会の中で放射線の人体への影響について、極端な悲観論と楽観論が入り乱れたことがあったが、その時期に、冷静に理解することで「正しく怖がれ」というメッセージが専門家から発せられた。ポスト・トゥルース政治の現象についても正しく理解し、正しく怖がる必要があるだろう。

 この論考の発表の後、大統領選挙は、筆者の想定をはるかに超える形で展開し、その時点での見通しが大きくはずれた部分も、妥当だった部分もある。本稿では、トランプ政権が始動した今、選挙戦の展開を振り返りながら、なぜトランプ氏が大統領選に勝利したのかを考え、今のポスト・トゥルース政治を「正しく怖がる」方法を考えてみたい。

有権者の多くが望んだのは「合理性」ではなかった

 筆者が予備選段階で、トランプ氏を怖がりすぎるべきではないと指摘した根拠の第一は、トランプ対クリントンの対決になった場合、トランプ氏がこれまでの共和党予備選で圧倒してきた政治経験も浅くアピール力も弱い候補たちとは違い、政策経験が豊かで、政治の修羅場も何度もくぐり抜けているクリントン候補と直接対決をすることになり、それまでのように話をはぐらかして笑いをとるだけでは勝ち残れないという点だった。しかも、トランプ氏が共和党の大統領候補になった場合、政策チームを立ち上げて政策を準備しなくては、政策通のクリントン候補を論破できないため、その過程で政策は現実的なものになり、生き残った「トランプ大統領」は懸念すべき人物ではなくなっているだろう、というものだった。

 この想定は大きく外れた。クリントン候補は3回のテレビ討論において、すべてトランプ候補に勝利したというのが、一般のメディア、世論調査、および筆者の見方だった。第1回のディベート直後のCNNの世論調査で、クリントン優位と考えた人が62%、トランプ優位と考えた人が27%だった。第3回の同じ調査でも、クリントン優位が52%、トランプ優位が39%で、一貫してクリントン優位は変わらなかった。

 トランプ氏は、これらの討論会で体系的に政策を論じなかった。彼は、人工妊娠中絶について反対の意見を明確にしたり、銃規制について憲法修正2条に基づく銃保持を認める立場を明確にし、NRA(全米ライフル協会)の支持を誇りに思うという発言をしたりして、伝統的な共和党の立場を強く打ち出した。これによって、女性への蔑視発言等で、家族の価値観を重視する共和党の宗教保守派からの反発を和らげようとしたが、その結果は悪いものではなかった。トランプ氏はあきらかに政策についての理解不足はあるが、にわか仕込みの政策論をあえて行わずに、平易な言葉で、クリントン氏やオバマ政権を批判することで、自らの支持層、特に大卒未満の労働者層から、心情的な支持をつなぎ留めることに成功した。これはディベートテクニックとしては、上出来といっていいだろう。

 当時、トランプ支持者の米国の現状への不満、特にワシントンに陣取るエスタブリッシュメントや、ニューヨーク・タイムズ、CNNなどの主流派メディアへの地方に住む白人の保守派の労働者層の不満は、かなり大きかった。この層が最終的には、ウィスコンシン、ミシガン、ペンシルベニア、オハイオという接戦州で軒並みトランプ勝利をもたらし、大統領選挙の勝利につながった。

 筆者は、多くの有権者が、合理的で体系的な政策を語れる指導者を望んでいると考えていたが、これは間違いだった。実際のところ、人々は自分の心情を理解してくれていると思う候補に一票を託す。その点で、トランプ陣営は、全体の帰趨(きすう)を決める中西部の労働者クラスの白人層に対して、「あなた方が忘れ去られることはない」というメッセージを送り、その心をつかんだが、クリントン陣営にはそれができなかった。

政治的な分断を生んだウェブメディアの台頭

 以上は、トランプ陣営の成功した選挙戦略のストーリーであり、ポスト・トゥルース現象とは直接関係ないように思われるはずだ。表面的には、クリントン候補側のほうが、トランプ陣営を圧倒する潤沢な選挙資金により、トランプ氏に対する激しいネガティブキャンペーンを繰り返していた。

 しかし選挙1カ月前の10月7日、ウィキリークスが、非合法的にハッキングされたクリントン陣営のポデスタ選対本部長らのメールを相次いで公開するという事態が発生した。2017年1月、米政府のインテリジェンス機関は、ロシア政府がハッキングを行った事実を正式に発表し、その内容をトランプ大統領に報告し、最終的にはトランプ大統領もしぶしぶ認めた。

 さらにトランプ政権に対しては、トランプ氏や政権中枢メンバーと、ロシア政府との間に、政権成立前から何らかのつながりが存在したのではないかという疑惑が持ち上がっている。これにより、国家安全保障担当のフリン大統領補佐官が辞任に追い込まれたが、トランプ氏は逆に、大統領候補当時、オバマ大統領に盗聴されていたとツイッターで発言し、しかもその事実について根拠がないことをFBIが発表するという異常事態になった。トランプ大統領周辺とロシアとの関係については、現在も米国内で疑惑が持たれている。

 本来であれば、これだけの問題が重なり、事実と矛盾する発言を連発してきたトランプ氏が、大統領に選ばれること自体がスキャンダルですらある。しかし実際のところ、ライバルのクリントン候補が、トランプ氏以上にうそをついているというイメージが、主流メディアを通してではなく、一部の保守系のウェブメディアを通じて流されていたことが、トランプ氏勝利の背景にあった。

偽ニュースがきっかけで発砲事件が起きたピザレストラン「コメット・ピンポン」
 保守系のウェブメディアによるポスト・トゥルース現象が表面にでてきたのが、「ピザゲート」事件だ。2016年12月、ワシントンDCにある「コメット・ピンポン」というピザ店に、ライフル銃を持った男が押し入り発砲した。逮捕された男は、クリントン候補が関わる児童への性的虐待や人身売買のネットワークの拠点がこのピザ店だという、ネット上で広がった話を本気にして、子供を救出するために発砲したと警察に語った。これにより、ネット上における「偽ニュース」が、ソーシャルネットワークなどを通じて拡散し、それがクリントン候補のイメージを想像以上に傷つけてきたことが、明らかになった。

 つまり、主流メディアを見ている有権者にとっては、

・・・ログインして読む
(残り:約6255文字/本文:約9734文字)