メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

天皇退位問題、想定外の報道、宮内庁の胎動……

有識者会議座長代理が体験した7カ月の真相

御厨貴 東京大学名誉教授

安倍首相に最終報告を手渡した有識者会議の最終会合=2017年4月21日、首相官邸安倍首相に最終報告を手渡した有識者会議の最終会合=2017年4月21日、首相官邸
 天皇陛下の退位のあり方を考える「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」は4月21日、今上天皇に限って退位を可能にする特例法の整備を求める最終報告をまとめ、安倍晋三首相に手渡した。座長の今井敬・経団連名誉会長を補佐する座長代理の務めをなんとか果たせて、肩の荷を下ろした思いだ。

 振り返れば、昨年7月13日にNHKが陛下の「退位の意向」をスクープして以来、憲法や皇室典範が想定していなかった天皇の「譲位」を認めるか否か、認めるとすればどういう形が望ましいか、世論を巻き込んだ論争が続いた。政府が9月に立ち上げた有識者会議のメンバーに選ばれた私にとっても、この国のことや天皇のことを、あらためて深く考えた濃密な「時間」であった。

 有識者会議に加わって刺激的だったのは、天皇の退位という、この国にここ200年間なかった一大事において、政府はどのようにコトを進めるか、立法府がどう絡むのか、メディアはどんな役割を果たすのかを、プレーヤー兼観察者として生々しく見られたことだった。それは政治史を専門とする研究者として、たまらない経験であった。

 天皇退位についての私見は様々なメディアで折に触れて語ってきた。メディア誌である「Journalism」では、メディアとの関係を軸に、政府の情報管理やそれへの私なりの抵抗、有識者会議の内実などに関し、見聞きしたことを中心に書き記しておきたい。

「特例法で」とコメント 官邸から「召集」される

 NHKのスクープが夜7時のニュースで流れたとき、私は都内のレストランで知人と食事中だった。携帯電話がしきりに鳴るので出てみると知り合いの新聞記者。天皇が退位の意向だという。その後、朝日新聞記者から緊急インタビューの依頼があり、翌日、取材を受けた。

 私が言ったのは、「陛下のお気持ちとお言葉を素直に受けとめて、必要な手続きを粛々と進めるべき」「社会が高齢化に対応しようとしているとき、国民とともに歩む天皇にも引退や隠居を認めるか議論することは大切なこと」「有識者会議のような場が必要になるでしょう」などで、そのまま翌日の朝日新聞に掲載された(2016年7月15日朝刊)。

 ここでは「特例法」と明言はしていないが、念頭にあったのは、陛下の年齢を考えると緊急避難的な対応しかないということだった。そこで、8月8日の陛下のビデオメッセージの直後に日経新聞に出したコメントでは、「陛下はご高齢だ。時間のかかる方法を避け、特例法で対応する必要があるだろう」と踏み込んだ(8月10日朝刊)。

 8月下旬、首相官邸の杉田和博・内閣官房副長官から留守宅に連絡があった。折り返し電話をすると、「至急、会いたい」とのこと。2日後、都内のレストランで会うと、単刀直入、退位問題のための有識者会議をつくると言う。人数は絞る、専門家からはヒアリングをするなどとひとしきり説明し、やおら「最初にあなたを口説きにきた」。理由を尋ねると、「7月から各紙に載った言論を見ると、『特例法』を主張するあなたは姿勢がブレていない。(意図は)分かるだろう。やってほしい」と言う。

 他のメンバーについて聞くと、「全部で5人。これから選ぶ」。ただ、座長に関しては「財界人にする。陛下が83歳だから、より年配にしないと示しがつかない」と言った。すでに86歳(当時)の今井さんに決めていたのだろう。陛下にモノを言えるのは年上という発想がおもしろかった。

 お引き受けしますと答えると、「しばらくは内密に」。そのうちに「座長代理をお願いするかもしれない」との〝内示〟も受け、いよいよ覚悟を決めた。杉田さんからは折に触れて、状況を聞いたが、途中でメンバーが6人に。自薦組が出たらしい。

NHKのスクープでメンバーの名前を知る

 有識者会議開催が発表された9月23日の前日、官邸から山崎重孝・内閣総務官と平川薫・内閣審議官の二人が東大先端科学技術研究センターにある私の研究室を訪れ、正式に依頼があった。その後、会議の進め方などの説明を受けたが、特に念押しされたのはメディア対応だった。

 「明日10時半に官房長官の記者会見があるが、その前に取材があったら『一切知らない』と言ってください。中身が事前に漏れ、記者があててきたら、『ノーコメント』と言ってください。記者会見の後は『会見の通りです』と言ってください。詳細については、『全部、官邸に聞いてくれ』と言ってください」

 と、やたらに細かい。政府の審議会や懇談会の委員を何度かやったが、これほどの念押しは初めてだ。「ノーコメント」が新鮮だった。「これは聞いているけど、今は言えないという意味。記者はニヤリとするはずです」

 説明後、「プレス注意」というタイトルがついたメディア関係の書類以外はすべて回収。この時点でも座長の今井さん以外のメンバーを知らされておらず、情報統制の強さを痛感した。

 とはいえ、メディアもさるもの、23日朝のニュースでNHKが有識者メンバーをスクープ。「ふ~ん、こんな人が入るのか」と眺めていると電話が堰を切ったように鳴り出した。「政府方針と同じ特例法論者だから選ばれたのですか」と聞かれるが、まあまあとはぐらかす。

 それにしても驚いたのは記事の大きさである。各紙1面で大きく扱う。例えば朝日新聞は夕刊1面に顔写真入りで、「今井・御厨氏ら6人起用」との大見出し。閣僚人事かい、とおかしかった。

門の脇にはポリス小屋 裏庭に監視カメラまで

 この日を境に変化したことのひとつに自宅の環境がある。警視庁から「警備対象」に指定されたのである。妻は嫌がり、私も気が進まなかったが、所轄の玉川署の署員が「杉田副長官の命令ですから」とテキパキと進め、我が家の門の脇にあっという間に臨時の「ポリス小屋」が建った。さらに表だけでは足りないと、裏庭に監視カメラまで付けられた。以来、私は庭に出なくなった。

 小屋には警察官が四六時中詰めていて、出かけるときは、どこに行って何時ごろ帰るかを告げなくてはいけない。また、電車にはなるだけ乗らないでほしい、できればタクシーを使ってくださいと言われ、「足代」が跳ね上がった。

 何をおそれているのか、警察官に聞いたことがある。「右ですか」と尋ねると、「いまは右とか左ではありません。イデオロギーではなく劇場型犯罪を心配しています」。情報が漏れて有識者会議メンバーの自宅が分かると、行ってやろう、モノを投げてやろう、といった輩がでかねない。だから常駐するのだという。

 幸い我が家までやってくるような〝物好き〟はいなかったが、代わりに警察官に誰何(すいか)されたのはメディアの記者たちだった。いわゆる「夜討ち朝駆け」に来るたびに警察官に声をかけられるのだが、しれっと無視する記者もいれば、ご丁寧に名刺交換をする記者もいる。記者の個性やら会社の社風やらが垣間見えて興味深かった。

すべて設計する官邸にメディアへの対応で対抗

 10月17日、会議がスタート。その前日に平川審議官が部下を連れて研究室に。会議の前日の「ご説明」が定例化する。

 会議の段取りなど様々なペーパーで説明するが、その中に「座長代理ブリーフメモ」なるものがあった。会議後に座長代理の私が記者会見する際の文案である。有識者のメンバーはもとより、ヒアリングする専門家の人選、会合の議題までこと細かく設計した首相官邸だったが、ブリーフメモにはビックリ。「私は首振り人形なのか」と滑稽な感じがした。

 思えば、官邸の関心はいかに事前に内容を漏らさないか、メディアに手の内を知らさないか、だった。だからか、書類の説明も極めて早口。こちらが理解しようとしまいと、ドンドン進んでいく。ペーパーはほとんど回収された。

 だが、そこまでされると、有識者会議とは何なのかという本質論を考えざるを得ない。すべて官邸のお仕着せで、秘密主義を徹底され、何も発信できなければ、鼎(かなえ)の軽重を問われかねない。

 果たして、どう対応すべきか。幸いメディア対応を含めて座長代理を任されたので、その立場をフルに活用することにした。記者会見と、その後の記者との付き合いをかなり幅広く私の中で取り扱った。通り一遍のものにしない工夫を施したのだ。

 では、具体的にどうしたのか。座長代理ブリーフメモは「原稿」を読んでいると分かるように、あえて朗々と読み上げた。そのうえで、後に続く質疑応答は勝手放題、自由に答えた。一定のノリは守ったが、ギリギリまで話したつもりだ。

 重視したのは、官邸の目が届かないところでの記者との付き合いだ。取材に来た記者とは研究室で1時間じっくり話した。天皇や宮内庁について理解を深めてもらったほうがいいからだ。天皇・皇室と政治について研究してきたことをベースに、私見も交えて当該論点について丁寧に説明した。

 どの記者と会ったか、官邸には連絡していない。官邸は我々に情報を流さない。だから、こちらから流すこともない。

メディアを巻き込んだ下河辺氏の手法に学ぶ

 記者の中にはこうした私のやり方を鋭く察知した人もいた。某社の解説委員は私の最初の記者会見に出た後、次のようなメールを送ってきた。

 「私は御厨さんが東日本大震災の復興構想会議の議長代理を務めた時にも、記者会見に出ていた者です。御厨さんは5年前と同じ役割を果たされるのですね」

 ああ、そうか。私の記憶の中に、5年前の「有識者会議」の有り様がはっきりと蘇った。確かにあの折も、五百旗頭真議長のもと、私は好き勝手にメディアを引き回した。しかし今回は、こちらが引きずり回すのではダメなのだ。メディアをできる限り味方につける。批判の矢を浴びる際も、筆先を少しは柔らかくさせなくてはいけない。

 かつて私が同時進行形でオーラル・ヒストリーを進めた「阪神・淡路大震災復興委員会」の下河辺淳委員長は、常に新聞の見出しを気にかけていた。そして、

・・・ログインして読む
(残り:約7324文字/本文:約11391文字)