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テレビメディアの平成とは

フジテレビの栄光と衰退

吉野嘉高 筑紫女学園大学教授

丹下健三氏が設計し、総工費約1350億円をかけてお台場に建設されたフジテレビ新社屋
 平成時代は、フジテレビが絶好調の頃に始まり、絶不調の時に終わろうとしている。

 平成元年(1989年)は、ビートたけし、タモリ、明石家さんまなどのタレントがフジテレビのバラエティー番組で活躍し日本中を笑いの渦に巻き込んでいた頃である。視聴率三冠王(全日、ゴールデンタイム、プライムタイム全部門で年間平均視聴率1位)を連取し、フジテレビといえば、テレビの代名詞で、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。

 ところが2017年4~9月期決算でキー局の中で唯一営業赤字に転落した。視聴率回復の兆しは見えず、今年3月、看板番組の「とんねるずのみなさんのおかげでした」や「めちゃ×2イケてるッ!」なども終了し、番組制作の戦略を根本的に転換する岐路に立たされている。

 平成時代を駆け抜けたフジテレビの波乱の歴史は、テレビというメディアの社会的位置づけの変化も示唆している。

 本稿では、フジテレビ黄金時代の組織の在り方、番組内容、視聴者との関係性などが、現在までにどう変わったのかを炙り出しながら、その転落の要因を探るとともに、新たに登場したインターネットテレビとの共通点や相違点についても論考してみたい。

 その延長線上にはテレビの未来がおぼろげながら浮かび上がってくるはずである。

「大部屋」からヒット次々

 フジテレビが大きく躍進するきっかけとなったのは「80年改革」と呼ばれる社内改革である。これは組織の「統合」を狙ったもので、それまで3つに分かれていたプロダクションを本社に再吸収し、本社「制作局」とした。これにより晴れて本社社員となった外部スタッフの仕事へのモチベーションは向上し、自由闊達な社内の雰囲気が醸成された。

 個性派の社員が揃っていた。上司と大喧嘩したり、ロケ地に長期間取材に行ったきりなしのつぶてになったりと、組織人としては規格外の番組スタッフも多かったが、番組制作ではその奇才ぶりを発揮し高評価を得ていた。

 東京・河田町にあった旧社屋3階の「大部屋」はこうした型破りな番組スタッフを包み込む寛容さと、ものづくりに注ぐアグレッシブなエネルギーの発生源となっていた。「大部屋」があるフロアには編成、制作、報道、スポーツ、営業などテレビ局の中核となる部署が集まり、組織の壁を超えて気軽に行き来することができた。柔軟なコミュニケーションの回路が開かれて、〝エネルギー循環システム〟として機能していたのだ。

 ワイドショーのディレクターをしていた私の大部屋時代の思い出は、いつも「動画」のように再生される。周りが活気に満ちて動いていることに刺激されて、自然にフットワークが軽くなっていた。そこで働く者は皆、テレビ新時代の立役者としてのプライドを共有することで、仲間意識を強めていた。一体感を誇る〝フジテレビムラ〟の誕生である。

 やがて番組が次々とヒットし始める。「楽しくなければテレビじゃない」のキャッチフレーズのもと、まずは「オレたちひょうきん族」「笑っていいとも!」などのバラエティー番組がブレイクし、ライブ感溢れる新しいお笑いのスタイルが確立された。

 時代感覚に優れたビートたけし、タモリ、明石家さんまなどが活躍したこれらの番組では、トークの大まかな設定だけでアドリブを多用し、彼らの優れた嗅覚で「本音」や「リアル」を探り当て笑いに転化していた。

 また80年代後半から90年代前半にかけては「君の瞳をタイホする!」「抱きしめたい!」などのトレンディードラマが若い女性の心をとらえて高視聴率をマークし、お家芸のバラエティーに加えて「ドラマのフジテレビ」を世に知らしめることになった。

 番組改革は報道・情報番組などにも波及し、視聴率は全体的に向上した。そして1982年から12年間、視聴率三冠王を取り続け、業界ナンバーワンの地位を確立したのだ。

 1997年、本社のお台場への移転で転機が訪れる。メタリックな輝きを放つ新社屋は、「月9」(放送枠月曜21時から21時54分)のトレンディードラマを放送する都会的なテレビ局のイメージにふさわしい佇まいであった。

お台場移転で変わる社員

 この年、フジテレビは東証一部に株式上場し、パブリックカンパニーとして生まれ変わった。

 また、CSデジタル放送「JスカイB」に資本参入するなど、多元化するメディアビジネスに対応するために、編成を含んだ戦略部門を担うメディア事業本部と制作部門のソフト制作本部に分ける機構改革が実施された。「80年改革」の「統合」とは逆方向の「分化」を戦略としたのだ。

 大部屋を中心とする旧社屋を「動画の世界」だとすると新社屋は「静止画の世界」だった。新社屋は「オフィスタワー」と「メディアタワー」の2つの建物に分かれて、編成と制作は違うフロアに配置された。エネルギーは循環せず、各セクションに閉じ込められた印象である。旧社屋ではあたりまえだった「ざわめき」が消えていった。

 「お台場移転を境に社員の気質が変わった」。私が話を聞いた社員たちは口々にそう指摘する。フジテレビは当時、多メディア時代を意識して、番組放送だけでなく、DVDやグッズの販売、ドラマの映画化など、ワンソース・マルチユースにより利益率を上げることを狙っていた。モデルケースは映画が大ヒットした「踊る大捜査線」である。新たな番組制作の評価基準は、旧社屋時代の「いかに面白い番組を作るか」から、いかに面白い番組を作って「利益を上げるか」に少しずつ変わってきた。「放送外収入」という言葉が様々な会議で連呼されるようになると、「規格外の現場人間」より、金勘定もできてコンプライアンスにも配慮できる「きっちりとした組織人」こそが、テレビ新時代にふさわしい社員像としてとらえられるようになった。社員たちの多くは、「物分かりのいい大人」へと変わっていった。

 権威の象徴のような新社屋〝フジテレビ城〟で生活するうちに、慢心や驕りも生じてきた。新社屋に移転した1997年、フジテレビは日本テレビに年間視聴率では負けていたが、現場で働く社員は、比較的鷹揚に構えていた。

 理由のひとつは、日テレでは徹底的にこだわる視聴率を、フジテレビでは、複数ある基準のひとつとして位置付けていたこともあるだろう。当時、村上光一社長はこう話している。「フジテレビは番組、映画、イベントなどソフト全般の総合力で断然強いと思っている。視聴率で見てもそうかといわれるわけだが、正直いうと、世帯視聴率はあくまで一つの基準価値[ママ]にすぎなくなっているのではないか」(「GALAC」2003年3月号)。

「テレビの王者」としての隙

 当時〝月9〟ドラマが高視聴率で話題を呼んでいたし、「好きなテレビ局」ランキングでも1位(「NHK放送文化研究所」ステーション・イメージ調査2000年)、さらに日テレが1994~2003年、年間平均視聴率で勝っている間も、フジテレビの方が売上高では上回っていた。

 このため、視聴率で負けてもテレビの王者「フジテレビ」という記号は、全くダメージを受けず社内の関係者の脳裏に焼き付いていたのだ。ここに、隙があった。やがてその記号がひとり歩きを始めるようになる。

 東日本大震災が発生した2011年頃からフジテレビと視聴者の間に溝が生じ始める。この年、6年間続いていた視聴率三冠王をフジテレビは取り逃し、その後、低迷は深刻化する。

 「ウチが一番」という自負で気が緩んだのか、震災関連の報道番組で首相官邸からの中継の最中、「ふざけんなよっ。また原発のなんだろ、どうせ」「あー、笑えてきた」という男女の会話が紛れ込んで放送された。不謹慎なやりとりはインターネットで炎上し、フジテレビ報道への信頼性を損ねることになった。

 「好きなテレビ局」NO.1のイメージも崩れ始めた。この年の夏、若者を中心とした約3500人が、「フジテレビは〝韓流びいき〟」として「韓流ゴリ押しやめろ」などのプラカードを掲げて本社前をデモ行進した。

 フジテレビに韓国を賛美するようなイデオロギーはない。「韓流」は放送権が比較的安い割に、一定の視聴率が期待されることが放送する主な理由だ。他局も韓流コンテンツは放送しているのに、フジテレビだけが悪目立ちしていて反感を買ったことになる。

 ネット上のバッシングも激しくなった。例えば、「2009年の『世界フィギュアスケート選手権』でキム・ヨナが優勝した時にあった国旗掲揚と国歌斉唱が、2010年3月に浅田真央が優勝した際にはカットされた」「2011年7月、なでしこジャパンが女子W杯で優勝したのに表彰式をカットした」などと非難された。

 このようなネット炎上に参加するのは、当初は一部の人だったはずだが、次第に幅広い視聴者にフジテレビに対する違和感が広がった。視聴率も次第に低下傾向になっていった。

「らしさ」の呪縛

 震災発生の翌2012年、フジテレビでは敢えて、80年代のキャッチコピー「楽しくなければテレビじゃない」の精神に立ち戻ることを確認した。その象徴となるのは90年代にヒットした「料理の鉄人」のリバイバル「アイアンシェフ」だったが、視聴率低迷のため半年足らずで打ち切られた。スタジオセットに莫大な費用をかけたと聞いたが、まるでバブル時代のようで違和感があった。

 ここが分岐点だったのではないか。

 未曽有の災害をきっかけに、より家族や地域の絆について考えさせられた人も多かったし、原発事故は収束せず通奏低音のように社会不安が続き、世間は浮ついた雰囲気ではない。社外にある社会の現実は変わりつつあった。

 ところが、〝フジテレビ城〟の中で働く人たちは、震災後もアップデートされていないフジテレビのイメージを通して、社会と向き合おうとしていた。シリアスな世相の中、「チャラい」とも言われるフジテレビの番組の見られ方も変わったはずだが、フジテレビには自分たち自身が「楽しくなければテレビじゃない」とでも言いたげな番組も散見された。私も「なんでいつまでも同じノリなんだろう?」と違和感を覚えることが時々あった。番組サイドは、それが「フジテレビらしさ」の表れで、暗い話も多いからこそ世間は「楽しいフジテレビ」を求めていると思っていたのかもしれない。しかし、そのような番組のテイストに対するいら立ちや不快感が、うっすらと広く視聴者に共有されフジテレビへの反感につながったのではないかと私は推察している。

 ネットバッシングを世間からの警告ととらえ、現実を丁寧に観察しながら「なぜフジテレビは叩かれるのか?」という疑問を掘り下げて原因を分析し、その結果を全社的に共有して、番組内容を修正することができていれば、その後の展開は違ったのではないか。

 この点、日本テレビは、

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