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代表性と専門性の150年

政治主導下における協働の危機

清水唯一朗 慶應義塾大学総合政策学部教授

 政治家と官僚の関係は一体どうなるのか。日本政治の基盤をなしてきた政官関係が、急速に綻(ほころ)びをみせている。もっともその要因は政治主導、官邸主導のありように起因するのだから政官関係とは分けて考えるべきという議論もある。しかし、事態は想像を超えて大きく混乱をもたらし、政官関係も見直しを迫られている。

 問題は代表性と専門性という二つの正統性をどう捉えるべきかという点に帰着する。国民から選ばれた政治家の持つ代表性と、高度な教育を受け豊富な情報をもとに磨き上げられてきた官僚の専門性が、それぞれあるべき姿で存在しているかどうか、そしてどのような関係の上に統治構造を形成しているのかが焦点となる。

 奇(く)しくも今年は明治維新150年にあたる。近代日本のあゆみは、そのまま、行政国家としての日本のあゆみに重なる。この節目の年に、政治家の代表性と官僚の専門性の歴史的展開を捉えなおし、政官関係のこれまでとこれからを論じてみたい。

先行した官、後発であった政

1921年、訪欧から帰国した皇太子(東宮時代の昭和天皇)を出迎える原敬内閣の閣僚。左から加藤友三郎海相、内田康哉外相、一人おいて東郷平八郎元帥、原敬首相、高橋是清蔵相ら1921年、訪欧から帰国した皇太子(東宮時代の昭和天皇)を出迎える原敬内閣の閣僚。左から加藤友三郎海相、内田康哉外相、一人おいて東郷平八郎元帥、原敬首相、高橋是清蔵相ら
 以前、アメリカで開かれた学会で日本の官僚制について報告した時、興味深そうに聞いていた聴衆の顔が突然曇ったことがあった。私が「エクセレント・ビューロクラッツ(優秀な官僚たち)」と言ったとたん、彼らの頭の上に無数のクエスチョン・マークが浮かびあがったのだ。官僚はルーティンをこなすしか能がなく、変化を拒む無能者の代名詞であると彼らは言う。ある研究者からは、「エクセレントとビューロクラッツは形容矛盾だ」とさえ言われた。

 日本ではどうだろう。優秀な学生ほど官僚を目指してきた。何やら悪だくみをしていそうな印象もあるが、少なくとも自分より勉強ができるという見方は一般的だろう。スクール・ヒエラルキーの上位者を集める官僚は、決して好きではないが優秀であることは認めざるを得ない存在として捉えられているように思われる。

 そうであるなら、今から150年前、明治維新の元勲たちによる制度設計は見事なものであったのだろう。260年にわたる平和をもたらした徳川政権を倒してその後を継ぐためには、魅力的な国家像を打ち出す必要があった。そこで彼らは、身分の壁を打ち破って自らの夢を実現できる社会を目指すと宣言した(五カ条の誓文、第三項)。努力をすれば、自らの境遇を変えることができる。ひとびとが自らの夢に向かって努力を続ければ国家も繁栄するという世界像である。立身出世主義の登場である(竹内洋『日本のメリトクラシー』)。

 立身出世を遂げるためには、学ぶことが必要であった。福沢諭吉は、学んだ者が自らを変えることができると学問の必要を説いた。政府は学校制度を全国に整備し、優秀な学生は東京の大学に進学させた。そして、立身出世の物語の頂点に官僚を位置づけ(大日本帝国憲法第19条)、最も優秀な人材を政府に集めた。

 対して、政治家は後発となった。士族の反乱は西南戦争を最後に途絶え、彼らは自由民権運動による、政治参加に転じた。運動は政治社会の変動により社会的紐帯(ちゅうたい)の不安定に直面した人々を糾合する「袋」としての役割を果たす(松沢裕作『自由民権運動』)。しかし、実際に代議士となったのは、士族に加えて地主をはじめとする地方名望家たちであった。制限選挙のなか、彼らが有権者であったのだから、代表も彼らから出るのは当然の帰結だった。

 彼らは議席を名誉職として捉えていた。1期でも議員を務めれば勲位がもらえる。彼らは互いに助け合って選挙に臨み、1期を終えると仲間に議席を譲り渡した。これは「名誉の配分」と言われる(季武嘉也「戦前期の総選挙と地域社会」)。その結果、初期議会では連続当選する議員がほとんどいなかった。尾崎行雄や犬養毅がよく知られているのは、彼らが稀有(けう)な連続当選議員であるからだ。もっとも、彼らでさえ、支持者である地主の意向を背景に、政策論争ではなく、減税闘争に時間を費やさなければならなかった。日本政治はそのスタートから行政が優位であり、立法は低調という構造を持っていたことがわかるだろう。

 全国から優秀な人材を集めた政府は、さらに試験制度を充実させ、法学を中心とした専門知識を持つ官僚層を構築していった。明治の国家建設期にあって、彼らの才能はいかんなく発揮されていく。

政党内閣樹立を支えた「協働」

 ここで奇妙な現象が起こる。大学で専門教育を受けた学士官僚たちが、藩閥出身の高級官僚たちと鋭く対立を始めたのだ。この時期、大学進学率は実に0.2%に過ぎない。大学生の多くは地方名望家の子弟であるか、才能を認められて名望家から学資の援助を受けた青年たちであった。いずれも地方の政治を身近で見てきた者たちである。そうした彼らが、大学でイギリス流の議院内閣制を理想的な政治制度として学んだ(拙著『近代日本の官僚』)。

 卒業して入省してみると、彼らの理想とはかけ離れた藩閥専制の行政があり、そこには専門性に乏しい先輩官僚たちが地縁血縁だけで鎮座していた。学士官僚たちには専門知識を学び、試験を通過して採用された自負がある。両者の対立は必然であり、それは藩閥排撃、政党政治の樹立へと学士官僚たちを向かわせた。

 転機となったのは代替わりである。1912年、明治天皇が没し、大正天皇が即位した。政界では陸軍が二個師団増設を要求して政党を背景とする第2次西園寺内閣を倒閣したことを機に反藩閥を掲げた憲政擁護運動が起こった(小林道彦『大正政変』)。いよいよ政党内閣の時代が訪れる。折しも次官級のほとんどが藩閥官僚から学士官僚に入れ替わっており、彼らは政党に参加、協力して政党内閣の確立に突き進んでいった。

 そして今からちょうど100年前、1918年に「初の本格的政党内閣」と称される原敬・立憲政友会内閣が誕生する。それまでも政党内閣はあったが、いずれも閣僚の多くを他の勢力から押し込まれるなど、自律性が乏しかった。これに対して原内閣は軍部大臣を除く全閣僚を自ら選定するなど、高い自律性を持つ政権であった。

 もっとも、それにはカラクリがあった。原内閣の閣僚の経歴を確認してみると、原首相(元外務、農商務官僚)をはじめ、そのほとんどが官僚出身の政党政治家である。純粋な叩(たた)き上げの政党政治家は1人しかおらず、彼も政務のほとんどを有力な次官に委ねていた。「初の本格的政党内閣」は、政党の持つ代表性の基盤のうえに、官僚出身者の持つ専門性を重ねた、行政・立法横断型の政権であった(拙著『政党と官僚の近代』)。

 こののち、昭和戦前の政党内閣期においてもこの手法は継承された。加藤高明(外務)、若槻礼次郎(大蔵)、田中義一(陸軍)、浜口雄幸(大蔵)と官僚出身者が続く。その最後を担い、青年将校の銃弾に斃(たお)れた犬養毅がほぼ純然たる政党政治家であったことはなんとも皮肉である。

戦争と政党人事の記憶

 政権が変われば政務に携わっていた官僚の身分はそのままではいられない。明治前期においては、大臣と次官がセットで異動することがしばしばあった。政治家としての維新の元勲やそれに連なる人々にとって、人事は属人的なものであった。

 明治憲法とともに官僚制度が整備されてからは、政治任用の範囲をめぐる攻防が政府と政党のあいだで繰り広げられた。早くは明治14年の政変の際に、大隈重信が局長以上は政務に携わるポストであり、政権と命運を共にする必要があると説き、事務官との線引きを主張した。実際、大隈は1898年に初の政党内閣を誕生させると、次官、局長を政党人に入れ替える大更迭を行い、自らの構想を実現した。

 4カ月後、大隈内閣が瓦解(がかい)すると、官僚の庇護(ひご)者であった山県有朋が首班となり、ほとんどの官僚は大学卒業の試験合格者のみとする資格任用制を導入した。これによって官界は政党の影響力から守られるとみられた。現在でも、多くのテキストはそのように書いている。

 しかし実際には、資格任用制度のもとで大規模な更迭が繰り返された。それは日露戦争を乗り切った桂園時代のことである。この時代は、藩閥政府の後継者と目された桂太郎と立憲政友会を伊藤博文から引き継いだ西園寺公望が互いに助け合いながら交互に政権を担当した安定期として知られるが、官界にとっては激動期であった。

 政権が安定しているがゆえに、好むと好まざるとに関わらず、高級官僚と政権の距離は接近する。当然、次期政権はその官僚を「前政権系」として忌避する。その結果、政権交代のたびに大臣のみならず次官までが一斉に更迭される状況が現出した。学士官僚たちが政党政治に協力していったのは、こうしたなかで自分たちの政治生命を守り抜く方法という側面もあったのである。彼らは党務よりも政務において、主に政務調査会で活躍し、政党の政策立案能力の向上に貢献した。

 同様の問題は、昭和戦前の政党内閣期にも現れた。今度は政党間の政権交代であり、政権間の差は明確である。実際には2年弱のサイクルで政権が交代したことから、次官たちは更迭を経て復活することさえあった。その結果、官界はそれぞれの政党に色分けされていく。「官僚の系列化」「官僚の政党化」という事態が生じた。

 この状況に、官界のみならず各方面から問題視する声が上がった。官僚はその高い専門性によって必要な政策を提案するものであり、政党政治家とは緊張関係にある必要がある。その人事が政党内閣の思いのままになってしまっては、官僚は専門性に基づいた政策提案ではなく、政党の顔色を窺(うかが)いながらその好みに合う政策を提案するようになる。それは政党政治家の持つ代表性の濫用(らんよう)であり、官僚の持つ専門性を毀損(きそん)するものであるという批判である。

 この結果、5・15事件で犬養内閣が倒れると、そのあとを継いだ斎藤実内閣は政権が恣意(しい)的に官僚人事に手を入れることがないように諸制度の立案を急いだ。1932年に文官分限令が改正され、官僚は意に反して左遷や休職、免職を受けないよう身分保障が行われる。政権争奪に明け暮れた政党が没落するなか、官僚はその影響力を高め、時に軍部と協力して戦時体制を構築していった。

 他方、官僚の持つ専門性に対しては、大正期以来、しばしば疑義が示されていた。大学の学部で法学を学ぶことが果たして「専門性」につながるのか。とりわけ、第1次世界大戦ののちに国際秩序が変化し、社会構造が変動するなかで、法学エリートを優遇する官界の構造が疑問視された。

 それは高等教育の問題でもある。建設期を過ぎた日本では、法学の講義は解釈論に偏重し、活気のないものとなった。用意されたノートを読み上げ、それを必死に書き取る学生たちの学びはどうみても生産的ではなかった。まして大学の周りでは先輩たちが取った講義ノートが公然と販売されていた。

 こうした状況に対し、1899年、新設された京都帝国大学法科大学は異を唱えた。演習への参加を必修にし、卒業論文の執筆を卒業要件にしたのである。能動的で自発的な学びが必要とする彼らの主張は現在でも広く受け入れられるところだろう。

 しかし、その試みはわずか8年で幕を閉じた。資格試験の邪魔になると見た学生たちが、同大学への進学を避けたためであった。官界への門戸が硬直化した試験であるうちは、学生の側が変わるはずもなかった。戦前における大きな制度的限界がここにあった。日本の官僚が最も「ビューロクラティック(官僚主義的)」であったのはこの時期かもしれない。

「官高政低」の時代

 敗戦の後、戦争の責任を取らされたのは官僚ではなく政治家であった。石橋湛山のようなリベラリストや鳩山一郎のような翼賛体制批判者をも含め、ほとんどの政党政治家が公職追放の処分を受けた。一方で官僚は、警察行政や地方行政を司(つかさど)った「省庁のなかの省庁」たる内務省を別にすれば、多くがその地位を保った。GHQによる統治のため、彼らの実務能力が必要だったからとされる(増田弘『政治家追放』)。

 そして戦前の政党政治家が退場した間隙(かんげき)をついて、

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