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世界都市の多様で豊かな機能を放棄するな:都条例改正に反対する一都民から

赤木智弘(フリーライター)

 2010年を通して議論を呼び、3月の継続審議、6月の否決を経て、12月に可決成立した都条例改正案(12月28日に施行規則が公開)。2011年7月までに施行される。「非実在青少年」問題と呼ばれ賛否両論が渦巻いた都条例の何が問題で、今後、私たちの生きる東京や日本に、どのような影響をもたらすのか。フリーライターの赤木智弘さんが論じる。

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 ■赤木智弘(あかぎ・ともひろ) フリーライター。1975年8月生まれ。栃木県出身。数々のアルバイト勤務を経て、「論座」2007年1月号で「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」を発表し、反響を呼んだ。非正規労働者や就職氷河期世代の実体験にもとづく社会への提言を続けている。著書に『若者を見殺しにする国――私を戦争に向かわせるものは何か』『「当たり前」をひっぱたく 過ちを見過ごさないために』がある。

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 12月15日、「東京都青少年の健全な育成に関する条例の改正案」が可決された。

 3月に提出された条例案こそ、関係者や世論、民主党などの反対でなんとか継続審議に持ち込むことができた。しかし、今回はその時に話題となった「非実在青少年」などという文言は消えたものの、マンガ作品における表現への萎縮効果という、実質的な問題はなんら解決されないまま、可決に至ってしまった。

◇慎重さに欠けた「専門部会」の議論◇

 マスメディアは、「アニメやマンガの児童ポルノ(!?)を規制する条例」などとしているところは論外としても、多くは都側の「わいせつなコミックを別の棚に移すだけ」という言い分を垂れ流すだけに留まり、現状すでに成年コミックが店頭でゾーニングされているといった基本的なことは、ほとんど報道されていない。

 改正後はこぞって「慎重な運用が必要である」などとメディアや識者が口にしていたが、そもそもこの条例改正へ向けた過程自体に、慎重さがまったく欠けていた。

 青少年健全育成条例改正の叩き台として設置したはずの青少年問題を論じる専門部会(2009年1月30日)の議事録では、表現規制に反対した人たちに対して、

「一番強く反対とかメールを送ってきたり、脅迫状とかということをやった人たちは漫画家集団なんです。特に児童ポルノをかいている人たち。この人たちはいわば狂信的なグループではありますよね」(第28期東京都青少年問題協議会 第1回専門部会 前田雅英 p.33http://www.seisyounen-chian.metro.tokyo.jp/seisyounen/pdf/09_singi/28b1giji.pdf

 と、反対意見を「脅迫」呼ばわりし、マンガ家の人たちを貶めている。

 また、「児童ポルノ(実在児童が撮影された児童ポルノと、非実在児童が描かれたマンガの区別が付けられていないことに注意)の愛好者の人たち」に対して、09年7月9日には、

「障害という見方、認知障害を起こしている人たちという見方を主流化する必要があるのではないか」(同協議会 第8回専門部会 大葉ナナコ p.29http://www.seisyounen-chian.metro.tokyo.jp/seisyounen/pdf/09_singi/28b8giji.pdf

 などと、露骨な差別や蔑視が平然と行われていた。また、性的表現がある図書を子どもが読むことが本当に有害であるか否かといった、データや根拠の必要性については一顧だにされておらず、とにかく「実際に影響された犯罪があった」との一点張りである。何かに影響されて犯罪が発生したら、その発生元を規制しなければならないとすれば、この世のありとあらゆるものが、すべて排除される可能性がある。

 そのような一方的な議論の場で産み出された答申素案ができると、都はパブリックコメントを募集した。

 2週間という短い募集期間にも関わらず、都の内外から1600通弱のパブリックコメントが寄せられ、2010年1月14日には答申が公表された(同協議会答申について|東京都http://www.metro.tokyo.jp/INET/KONDAN/2010/01/40k1e100.htm)。

 しかし、9割がた反対意見であったと見られるパブリックコメントは、結局、条例改正の流れに何の影響も与えなかったのみならず、開示されたパブリックコメントの多くには、べったり黒塗りがされていた。ジャーナリストの昼間たかしによれば、個人情報のみならず、議事録に掲載されている委員の発言と、それに対する批判までもが、黒塗りされていたという(5月6日、昼間たかし「審議会パブコメ・絶賛賛成は1%?と5月決戦の行方」livedoor Blog(ブログ)http://www.mangaronsoh.com/archives/2642543.html)。

◇仮想の表現に現実の刑法を当てはめるいびつさ◇

 こうして2010年3月には「非実在青少年」という言葉が有名になった「東京都青少年の健全な育成に関する条例の改正案」が提出されるが、議論の不足を理由に採択されず、冒頭に述べたように継続審議となった。

 東京都は「誤解」を解こうとして「質問回答集」を出すものの、いくら今の担当者が「見た目が18歳未満に見えるキャラクターというだけでは規制しませんよ」などと口にしたところで、条例の条文そのものに明示されていない限り、拡大解釈や裁量の余地を残してしまうので、意味がないなどと指摘された。また、こうした回答集での線引きが必要になること自体、条例改正案が十分に練られておらず、恣意的な規制が行える証拠であるとして、批判が強まった。

 そうした結果、6月には改定案が提出されたものの、民主党などの反対多数で否決された。

東京都青少年健全育成条例改正案に反対を表明する(右から)漫画家の秋本治氏、ちばてつや氏、漫画原作者のやまさき十三氏ら=11月29日、東京都新宿区、金子淳撮影。

 しかしほっとしたのもつかの間、11月の中旬に新たな動きがあった。11月30日から始まる第4回都議会で、条例改正案の再提出があるとマスメディアで報じられたのだ。実際の改正案が提示されたのは11月の下旬で、「非実在青少年」などの文言は無くなったものの、刑罰法規に触れる性交や近親相姦などを規制するとして、仮想であるはずのマンガに対して、現実の刑法を当てはめる、極めていびつな改正案が示された。

 そうした杜撰な改正に反対しようにも、パブリックコメントの募集なども無く、公的な批判の機会は失われた。そして、6月には反対した民主党都議たちが今回は賛成に回る形で、12月15日に改正案が可決された。

◇石原都知事に「慎重な運用」は可能か◇

 このように「東京都青少年の健全な育成に関する条例の改正案」は、オタクなどへの差別と蔑視が横行した専門部会から産まれ、パブリックコメントの無視と黒塗りによって肯定され、都民に信を問わない「電撃作戦」によって可決した。

 慎重な議論を行う機会をことごとく奪われた末に産まれたこの条例に対して、「慎重な運用が必要である」などというコメントがされても、寒々しいとしか言いようがない。メディアや識者たちも、もう少しこれまでの経緯をふまえてコメントし、報じて欲しいと思う。

 実際、都知事である石原慎太郎は、条例が可決されたことに対して、当日の会見で

「当たり前だ、当たり前、日本人の良識だよ。てめえらが自分の子どもにあんなもの見せられるのかね。大人が考えりゃ、大人の責任だ。当たり前だ」

 と述べている。

 「当たり前」ということは、もはや議論の必要性すらないということなのだろう。自分たちの感覚こそ絶対であり「それに文句をいうのは、当たり前の感覚を持っていない異常な人間だ。だから考慮に値しない」という宣言である。こうした傍若無人な相手が主導する会議で、慎重な議論が行われると少しでも期待を持つ方がどうかしている。

◇表現の萎縮効果を低く見積もる猪瀬副知事◇

 こうして、他者を見下すことに終始した石原慎太郎に比べれば、副知事の猪瀬直樹はまだ、規制反対派と対話をしていたと言える。自ら条例改正の問題点を探る番組に出演したり、Twitter上で考え方をツイートし、時には批判に答えていた。

 だが、猪瀬の主張は、条例改正による表現への萎縮効果を、極めて小さく見積もっている。

 猪瀬や都は「規制はあくまでも流通規制であって、表現規制ではない」「本屋の棚を移すだけだ」としている。しかしそれは、屋上から他人を突き落としたことに対して「私がやったことは、あくまでも屋上の床の無い部分に押し出しただけだ。落ちたのは重力の問題で、別の話だ」と強弁しているに等しい。

 確かに、文言だけで言えば、改正内容は流通規制に過ぎない。しかし、都が本を有害指定すれば、取次の扱いは悪くなり、書店は本をカウンターの裏に下げてしまう。ネット書店などでも十分な年齢確認には手間がかかるので、出荷を嫌がるケースが出てくるだろう。こうして多くのお店で扱われなくなるのであれば、そもそも出版社はリスクを避け、本の出版をためらう。また、出版社の意向を気にするマンガ家は、条例に引っかかるかもしれないような、きわどい表現を避けるようになる。

 やがてそうした考え方は内面化されて、「きわどい表現を描きたいのに描けない」という意識ではなく、最初からそのような表現のマンガを描くという考え方や動機、可能性自体が失われていく。

◇「名作」というジャンルはない◇

 猪瀬は「名作を描けばいい」などとTwitterでつぶやいていたが、そのマンガ作品が「名作」と呼ばれるのは、出版されて、多くの人に受け入れられた結果でしかない。「名作だ」「駄作だ」といった価値判断は受け手によって千差万別であるはずだが、あたかもジャンルの一部のように「名作」という言葉を使われても、困ってしまう。

 仮に「名作」というジャンルがあったとしよう。どういう作品が名作と呼ばれるかといえば、王道はやはり「マンガ表現を用いて、人間の隘路を描き出す作品群」ということになりそうだ。しかし、人間や社会の隘路を描くためには、それ相応の舞台装置を用意する必要がある。

 物語の主人公は、例えば突然犯罪に巻き込まれて逃げるハメになったり、ふとしたキッカケで他者におさえきれない殺意を感じたり、妻が浮気をしていることが明らかになったり、援助交際で中学生の女の子とセックスをしてしまったりといった描写によって、初めて人間や社会を説得力をもって描くことができるようになる。

 しかし、そうした数ある表現可能性のうち、きわどい表現をマンガで描こうとする考え方そのものが失われていけば、さまざまな表現が多くの漫画家たちの考えから滑落してしまう。しかも厄介なことに、表現が奪われていることに、世間はもちろん、そのマンガ家自身にすら、決して気づけないのである。

◇海外の児童ポルノ規制と日本のマンガ表現◇

 実際、海外では作品を描く場合、大半の人はマンガ表現を選択しない。

 なぜなら、外国にはマンガ表現で人間の隘路を描くような文化が成熟しておらず、そもそもマンガでそうした表現ができる可能性自体が見えていないからである。

 一方、日本では手塚治虫や、石ノ森章太郎を始めとした多くのマンガ家たちが、マンガ表現を用いて、人間を描き続けてきた。今年に連続テレビドラマ化された「ゲゲゲの女房」で話題になった水木しげるだって、妖怪マンガを描きながら、そこに描き出されたストーリーは、人間社会のドロドロとした部分を探り当てていたのである。

 そうした潤沢なマンガ表現が培われてきた日本において、海外の児童ポルノ規制や、子どもの権利の文脈を安易に受け入れ「だから日本も早急に「アニメやマンガの児童ポルノ(!?)」を規制しなければならない。規制しなければ世界の恥だ」という主張がされているのを見聞きすると、文化に対する理解のなさを実感し、寂しく思う。

 そうして何でも外国に合わせるのではなく、日本こそが率先して、文学や映画、音楽などと並び、人間社会や世界を描き、子どもはもちろん大人の観賞にも堪えうるマンガ表現の奥深さを訴えて行くべきなのである。

 そうして独自の文化を世界に波及させていくような、独自性の積み重ねこそが、日本が世界から一目置かれる国になるための一里塚なのであり、安易に世界の論理に合わせて、日本独自の文化を画一化させるべきではない。

◇マイノリティ批判にもとづく「一元化」◇

 12月に発売された『思想地図β Vol.1』に掲載されている猪瀬直樹、村上隆、東浩紀の座談会の中で、猪瀬は「(小学生が性表現のあるマンガなどを)自覚的に読みたかったら、背伸びをしたり、イスの上にのって手を伸ばして取ったものをレジに持って行って、大人の店員に止められる挫折を味わうような性質のものだと。僕らだって子ども心にレジをなんとか突破できないか、と思案したものです。それが通過儀礼のプロセスとして必要だと思います」と論じている。

 一見、子どもが性表現に触れることに理解のある発言ののように思えるが、猪瀬は恐らく、彼の個人的体験に依拠したイメージのみを「正しい通過儀礼」であると思い込んでいて、その他の「まったくそうした表現に触れない経験」や、逆に「そうした表現に囲まれて過ごした経験」を否定してしまっている。

 猪瀬を始めとする都側の言動を考え合わせながら、この条例そのものを見直してみると、この「青少年健全育成」という概念が目指しているのは、決して単なる規制の強化ではなく、大きな目的として「子どもに対する教育を一元化すること」であることに気づかされる。

 さらにいえば、その一元化は決して子どもに対する教育に留まらない。

 条例改正の文脈で、石原慎太郎が「子どもだけじゃなくて、テレビなんかにも同性愛者が平気で出るでしょ。日本は野放図になり過ぎている。使命感を持ってやります」(12月3日)や「どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう。マイノリティーで気の毒ですよ」(7日)などと、相変わらずのマイノリティ批判を行ったことは、決して無関係ではない。

◇地方都市や郊外から失われた複雑な豊かさ◇

 このマイノリティ批判に対して、アルファブロガーとして知られる小飼弾は「石原都知事はどこかやっぱり足りない」と批判を加えている。

 小飼は、人口わずか70万人程度のサンフランシスコが、圧倒的な知名度と、地価の高さを保ち、なぜそこに優秀な人材が集まるかという問いを設定し、その答えとして「ヨソモノ・ワカモノ・バカモノたちを受け入れて来たからだ」との見方を示す。彼は、ゲイパレードがひらかれるようなマイノリティに居場所がある地域だからこそ、若いアーティストや技術者などという「ゲテモノたち」が集い、シリコンバレーのような場所が産まれるのだと言う(12月8日、404 Blog Not Found:石原都知事にどこかやっぱり足りないものhttp://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51558989.html)。

 他に居場所の無いマイノリティたちを受け入れるからこそ、都市には多様な人間が集まり、個性や才能がぶつかり合う中で、新しい才能や文化が発生し、都市ならではの活気が産み出される。それこそが「都市」が「都市」たる所以であり、都市の魅力である。

 そして、現状の石原都政のように、マジョリティによる価値観の一元化を目指すのは、「都市の田舎化」であり、石原慎太郎は東京という「都市」の長として「どこか足りない」。小飼は、そう論じる。

 数年前まで、北関東の地方都市に住んでいた私の実感として、マイノリティの少ない地方都市では、みんなが当たり前のように車を所有しているため、駐車スペースの少ない駅前の繁華街から人の姿が消え、駐車場の広い郊外の大型ショッピングモールに人が集まる。幹線道路沿いには、ファミレスやコンビニ、ファストフード店、新古書店やパチンコ、そして紳士服チェーンなどの大きなチェーン店舗が、どこの市町村にも同じように立ち並ぶ。

 こうした郊外化の影響は、決して車からの風景が、どこの都市でも同じになるというだけではない。

 私たちは常日頃から、自らの周囲にあるお店で物を購入したり遊んだりすることで、日々の欲求を満たしていく。

 しかし、郊外化された都市では、均一的なチェーン店と関わりながら、均一的な品揃えや均一的なサービスの中で、日々積み重ねられるさまざまな経験が、自然と画一化されていく。

 庶民的な商店街や、高級そうなショップ街。寺社が密集していたり、若者の街や老人の街だったり。そうした降りる駅を1つ変えるだけで、それぞれの街に息づく個性が産み出す都市の複雑な豊かさは、郊外の街々からは完全に失われてしまっている。

◇携帯電話のフィルタリングも◇

 そうした複雑な豊かさの一部を敵視する画一化への欲求が、まさに今回の条例改正によく現れている。

 今回の条例改正では、マンガ表現の問題ばかりが注目されがちだが、携帯電話のフィルタリングに対する改正も、画一化への欲求に基づいている。

 今回の改正では、青少年の携帯電話などによるインターネット利用について、保護者によるフィルタリング解除の手続きが厳格化される。

 都側は「フィルタリング対象にならないサイトで、青少年が犯罪に巻き込まれることがある」として、フィルタリングの必要性を強調するが、その一方で、フィルタリング利用の推進は、青少年がインターネットから得られるかもしれないさまざまな経験を、あらかじめ刈り取ってしまうことになる。

 私自身、パソコン通信やインターネットを利用しはじめたのは1994年で、10代の後半には、オフ会などを通して、多くの人と知り合うことができた。

 そうした経験をするのが絶対に正しいなどと主張するつもりはないし、今のインターネットと、かつての牧歌的なコミュニティーを同列に並べるわけにはいかないだろう。それでも、ネット上で人と人が出会うという成長を阻害する可能性の高いフィルタリングを、無意識に利用して当然という規制のありように、私は賛同できない。

 これもまた、ネットを通した経験の画一化を推し進めるための規制と言えよう。

◇世界都市の多様で豊かな機能を放棄するな◇

 マンガを開いて、性描写のシーンを開いてしまったり、ネットを通して悪意を持った人間と出会ってしまうこと。そうした中で子どもたちが不幸を背負ってしまう可能性は確かに侮れない。

 だからと言って、

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