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そろそろ、大相撲を見たいか否かの議論を

倉沢鉄也

倉沢鉄也 日鉄総研研究主幹

大相撲八百長発覚で本場所を1場所中止した上で行った独自調査の結果として、日本相撲協会から協会員(親方、力士)への大量処分が下った。

 筆者はすでにこの件に至る大相撲の捉え方について、「好角家」に近い立ち位置からのものの見方について繰り返し述べてきた(拙稿2010年6月25日「大相撲は日本の映し鏡。清濁の正確な理解を」、2011年2月11日「今後八百長とどうつきあうかが問題の本質」ほか)。大相撲とは、国民の声を含む「時の権力」へ過剰順応する伝統をもった集団であり、八百長もまた地位の保身のための不正行為というよりは、江戸時代のお抱え大名(スポンサー)にはじまる「時の権力」への期待に応えることで積み重ねられてきた。日本相撲協会は長年、過去に八百長はないと公式声明している(つまり今回が史上初の八百長だということ)が、今回の処分対象者の画期的な発明でないことは明らかで、絶対に証拠を残さないという知恵の下に八百長は行われてきたと考えるのが常識的な判断であろう。

 「相撲は真剣勝負のスポーツだから八百長は絶対に許せない」という考え方についても、上記拙稿で記しており、ここでは論じない。大相撲に証拠なき八百長は今後もあるだろう。それ以外の残りほとんどを占めている、厳しい修行と過剰な肉体鍛錬と、興行(取組には当然八百長が含まれる)と真剣勝負の混在について、メディアコンテンツとして切り取られた一側面を、見たいだけ人が見ればよい。

 むしろ重要な課題は、公益法人の資格とNHKでの生中継を失う前提での、運営形態の模索である。平たく言えば、力士・親方という職業がリッチなビジネスではなくなっていく前提でどう取り組んでいくかであるが、この点は前向きにさまざまな議論が可能であり、実は一部これまで取り組まれてもきている。今でもなお大相撲を見たいという人たちに対するビジネスの仕方は、また別の機会(公益法人認可の可否の際)にも論じることとしておく。

 本題に戻る。これらの観点から今回の命題「大量処分は妥当か」を捉えると、「大量処分は、協会にとって、時の権力への順応策となったか、その結果、大相撲がイベント・メディアコンテンツとして再開できそうか」と読み替えるのが妥当であろう。「調査が足りない」「膿を出し切ったら」という議論をする人のほとんどは、調査対象も「膿」の中味も論じていない。おそらくいくら調査しても、

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