メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

誰かの味方になってるつもりの君へ

澁谷知美

澁谷知美 東京経済大准教授(社会学)

 今回のお題は、「震災で日本の空気は変わったか」。その問いには、変わっちゃいねぇ!と不機嫌に答えたい。自分が無能でないことを証明したい欲望と一体化した「人の役に立ちたい」願望とか、自分は他者を庇護できる強者だという幻想を維持するために行われる「○○を守れ」宣言などが以前に増して跋扈し、放射性物質よりも先にこっちにヤられてしまいそうである(「自分も支援される身になるかもしれないし」的に、どうしてフラットな関係で考えられないんだろう?)。

 そんな中、本当に気持ち悪くて仕方なかったのが、「福島の人に謝れ」、「何不自由なく電気を使えていたのは、福島県のみなさんがあってこそ」という言葉である。それぞれ、原発に疑義を呈する者、東電を批判する者に向けられた反駁だ。どこが気持ち悪いのか、検証してみよう。

 「福島の人に謝れ」というコメントは、中学生アイドル藤波心さんが原発に疑義を呈したブログ記事に寄せられた。孫正義や高橋源一郎らがツイッターで絶賛したので知っている人も多いだろう。藤波さんは「最近は、原発の危険性を言う人は、危険をあおっていると、世の中は叩く傾向にあるようで、これは何かおかしい流れだと思うのは私だけでしょうか」と原発批判自粛ムードを鋭く突き、電力が不足したらどうなるんだという疑問には、「今の原子力に頼らない電力の生活に社会全体のシステムを変えればいいのです」と建設的な解を示している(藤波心ブログ、2011年3月23日記事)。この記事にたいして、4月7日現在で賛否両論合わせて13,243件ものコメントが寄せられた。「福島の人に謝れ」は、そのうちの一つである。

 ただの一言も福島県民批判をしていない藤波さんへの言葉として無意味であるばかりでなく、福島県民の味方になっているつもりの所がたいへん気持ち悪い。

 原発周辺住民がされてきたのは、国と電力会社に札束で顔をひっぱたかれ、原発という名の麻薬で自立する力を奪われることである。原発をかかえる福島県双葉町の財政は、一時はよかったものの、現在では全国の市町村のワースト6にランクされている。一度、発電所や関連企業の固定資産税・法人税、国からの電源交付金に頼った財政体質になったが最後、他の産業が育たなくなってしまうのだ。それで、新たに財源を得ようと、双葉町みずから新しい原子炉の建設を国におねだりをすることになるのだが、その建設は延期を重ね、今も着工の目途は立っていない(葉上太郎「原発頼みは一炊の夢か」『世界』2011年1月号)。「福島の人に謝れ」には、こうした原発周辺住民の困窮への反省がいっさい見られない。なのに味方気取りなのが、なんとも絶望的である。

 もう一つの、「何不自由なく電気を使えていたのは、福島県のみなさんがあってこそ」は、東電の運動部に所属している社員と見られる人物が書いたブログ記事のもの。原子力の必要性を力説した上で、計画停電を強いられている東電管内の市民に向けて、「不自由だとか自分たちが被害者だといった考えはやめてください」との説教をし、ブログは炎上、現在は閉鎖されている(J-CASTニュース、3月28日)。

 この言葉も、福島県民の犠牲についてノー反省である。そればかりか、原子力の必要性の主張とセットで語られている所に、原子力は必要なのだから、これからも原発周辺住民は犠牲になってほしい/なるべきとの願望が透けて見える点で、きわめて偽善的である。

 つまり、

・・・ログインして読む
(残り:約683文字/本文:約2107文字)