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[1]原発やめろ!!!!!デモ――松本哉と山下陽光(上)

二木信 音楽ライター

  アメリカの『TIME』誌は2011年の「Person of the Year(今年の人)」に特定の個人ではなく「The Protester(抗議者)」を選出した。チュニジアやエジプトを始めとする中東で民主化革命が起こり、ニューヨークでは格差是正を求めるデモや占拠行動(「OCCUPY WALL STREET」)が行われ、そして日本では反/脱原発運動が全国的な拡がりを見せた2011年は、たしかにある面において「プロテスター」が世界を動かしていた1年だったといえるだろう。

 この連載は、2011年の主に東京の反/脱原発運動に関わる人たちに取材し、彼らの素顔を伝えたいという動機から始まっている。彼らはどんな人間で、3月11日以降、何を感じ、何を考え、どのように行動したのか。そして、どんな気持ちで反/脱原発運動に参加したのか。そのような素朴な興味・関心から始まっている。有名・無名、世代、性別、国籍、思想・信条を問わず、さまざまな人たちに話を訊いている。

 「原発やめろデモ」を呼びかけた「素人の乱」のメンバー、ツイッターの呼びかけから始まった脱原発デモの主催者、脱原発をキュートなデザインとアートワークで伝えるアーティスト集団のメンバー、思想家、被災地支援を行うグループ、反原発のサウンド・デモに出演したミュージシャン、区議会議員、311以降の日本の反原発運動のドキュメンタリーを制作したドイツの映像作家、自然エネルギーを推進する環境エネルギー研究所(ISEP)のスタッフといった人たち。

 筆者自身、4月以降、素人の乱が呼びかけた「原発やめろデモ」を中心に、反/脱原発運動に積極的に関わってきた。ただし、この連載では、反原発/脱原発の主張を声高に叫びたいわけではない。

 この連載で筆者が最も伝えたいことは、運動に関わる人びとの生の声であり、彼らの振る舞いであり、生き方そのものである。なぜなら、彼らの多くが、私たちと同じようにこの国で暮らす市井の人々であり、そのような人々が立ち上がっているということこそ、この運動の根本的なあり方を示す特徴のひとつだと思うからだ。

 連載第1回目に登場してもらうのは、素人の乱の中心人物の松本哉(37歳)と山下陽光(34歳)である。「原発やめろデモ」を呼びかけた素人の乱は、東京・高円寺の商店街を中心に、リサイクルショップ、古着屋、飲み屋、イベントスペースなどを運営する緩やかなコミュニティだ。

渋谷のデモ=2011年5月7日、撮影=小原泰広

 311以降、国内でいちばん最初に最も多くの参加者を集めた反原発デモは、4月10日に高円寺で行われた素人の乱の呼びかけによる「原発やめろデモ」だった。その日のデモには1万5000人の人々が集まり、鬱屈したエネルギーが爆発した様子はさながらカーニバルのようだった。

 続いて、2回目のデモは、5月7日に渋谷で行われ、1万5000人を集めた。「脱原発100万人アクション」の全国同時行動の一環として行われた3回目、6月11日の新宿のデモには7000人が集まり、さらにデモのあとには新宿駅東口のアルタ前広場で街宣行動が行われ、アルタ前広場を2万人の群集が埋め尽くす様子はTBS系の報道番組で生放送され、話題を呼んだ。8月6日の東電前・銀座のデモの参加者は8000人、そして、いまのところ、素人の乱の呼びかけとして最後に行われた9月11日、新宿でのデモには1万人が集まっている(デモ参加人数はすべて主催者発表による)。

 戦後の日本の歴史を紐解いてみても、労働組合や政治団体の組織動員もなく、連続してこれだけの数の多様な人々が、デモに参加するというのは前代未聞の出来事だろう。

 いち早く反原発デモを呼びかけたリサイクルショップ・素人の乱5号店店主の松本哉に、地震直後の高円寺の町の様子から訊いてみた。松本は、昨日のことを話すように、勢いよく当時のことを語り始めた。

 「あの地震の直後は、右往左往してる人が街にいっぱいいたから、店の前に街頭テレビを出したんだよ。そうしたら近所の人が集まってきて、みな食い入るように見ていた。“家で見りゃいいじゃねーか”とも思うんだけど(笑)、ああいうときって人は集まりたい心境になるんだろうね。人は人を求めるものなんだなと思った。若い人も年寄りも男の人も女の人も、みんな同じなんだもん」

松本哉=東京・高円寺で、写真=朝日新聞社

 松本は3月14日に福島第一原子力発電所の3号機が水素爆発して建屋が吹き飛んだ直後、西日本にいちど避難しているが、数日して東京に舞い戻ってくる。そして、間髪を入れずに、反原発デモをやることを決める。彼が東京に戻ってきたいちばんの理由は、地元の仲間や商店街が心配だったからだという。

 「商店街を使って被災地支援もできるだろうし、そういうことをやっていかなきゃと思った。“助け合い”が基本だからね。地震で人もいっぱい死んでるし、自分が避難するより先にもっとやることがあるだろうと思って」

 イデオロギーというより、地域共同体ならではの“助け合い”の精神が支柱にあるという素人の乱の特性がデモの根幹には大きく関わっている。高円寺のある杉並区と福島県の南相馬市は災害時相互援助協定を結んでいて、「原発やめろデモ」のカンパの一部は杉並区を通じて、南相馬市にも送金されている。おそらく第1回目のデモが素人の乱の地元・高円寺ではなく、渋谷や新宿で行われていたら、それはまた違った展開になっただろう。4月10日のデモの前に松本は、高円寺の商店会長のところに挨拶にも行っている。

 原発事故当時、「素人の乱シランプリ」という古着屋を経営していた山下陽光も事故後、広島や地元の長崎に避難し、10日ほど滞在している。山下は現代美術家や作家としての顔を持ち、現在は「途中でやめる」という洋服をリメイクするブランドで精力的に活動している。そして、素人の乱の反原発デモの最も重要なアイディアマンのひとりでもある。しかし当初は、デモにまったく乗り気ではなかったという。

 「5月ぐらいまでは、オレはデモにぜんぜん乗り気じゃなかったよ。とにかく放射能の影響が恐ろしかったね。4月の段階では怖くてしょうがなかったけど、周りのみんながデモのモードだったから、スタッフの腕章を作ったり、集会の司会をやったり、やれることはやったけど、本心では早く逃げたかった」

 そんな山下は、5月31日に「原発怖いぞコノヤロー交流会」と称した飲み会を企画、新宿の居酒屋「さくら水産」で開催されたその集会には、200人以上の人々が集まった。作家の雨宮処凛や歴史社会学者の小熊英二、インディペンデント・ウェブ・ジャーナルの設立者でジャーナリストの岩上安身や女優の松田美由紀らも駆けつけた。

 そこではじめて出会った人たちが、座敷のテーブルを囲み、原発の問題について、熱く、そして楽しそうに(!)語り合っている光景は壮観だった。その飲み会をきっかけに「原発やめろデモ」のスタッフになった人も何人かいる。山下が書いた告知文の一部を引用しよう。

 「ここで、放射能恐ろしいとか、デモのことなどいろんな交流をしましょう! デモ興味あるけど、行くの怖いと思ってる方、俺は毎回デモに行ってますが、たぶん行くの怖いと思ってる方よりも俺の方が、デモ怖いと思ってます。

 なんだかよくわかりませんが、デモだとあまり話も出来ないし、1人で考えこむよりも、不安をみんなで話して共有して、何かしらの解決策を考えて乾杯しましょう!」

 山下のこの酔狂なノリに象徴される「原発やめろデモ」の雰囲気が、多くの参加者を集めたひとつの要因に違いない。実際、デモ参加者の少なくない人が口を揃えて言うには、普段のデモでは顔を見かけないような遊び仲間がこの間の「原発やめろデモ」に多数参加していたという。

 「“おまえが来たの!?”っていうようなヤツがいっぱいいた。普段はライヴハウスで会うようなヤツとか舞踏をやってるヤツとか。そういう別の現場で会うヤツらがデモに来たのは、超うれしかったね」(敬称略)

二木信