2012年04月11日
58秒91と58秒90。
わずか0秒01の違いだが、もし記録に色がついていたとしたら、まったく違った色に見えるはずだ。たとえるなら「情熱の赤」と「冷静の青」。4年の歳月を隔てて生まれた二つの自己ベストは、それだけ違うアプローチから生まれた記録だった。
2008年北京五輪100メートル平泳ぎの優勝タイム・58秒91は、1996年の中学2年から東京スイミングセンターで指導を受けてきた平井伯昌コーチとともに、12年かけてたどりついた一つの頂点だった。
4月3日に出した58秒90は、北京五輪後に平井コーチから独立して米国に渡り、自分の考えでコーチを選び、体を作り、泳ぎを改良して、実現した日本新記録だった。
北京五輪後、しばらくプールから離れた後、「もう一度、日の丸をつけて泳ぎたい」と、2009年6月に渡米して、ロサンゼルスにある南カリフォルニア大学の社会人チームで練習を続けてきた。米国で多くの五輪選手を育てた実績のあるデーブ・サロコーチが指導にあたり、北京五輪女子200メートル平泳ぎの金メダリスト、レベッカ・ソニら世界の一線級も所属する有名クラブだ。
しかし、初めからここに所属するつもりで渡米したわけではなかった。いくつかのクラブを実際に見て回って、コーチとも話をして自分に合いそうな練習場所を選んだ。
サロコーチの練習は、日本のように事前にメニューを選手に示すことはない。次々に口頭で練習内容を伝えて、選手はそれを聞いて、狙いを理解しながら泳いでいく。北島に対して手取り足取りの細かい指導はない。泳ぎの技術もレースのビデオを見るなどして、主に自分の感覚を頼りに改善している。
2010年4月の日本選手権で100メートル2位、200メートル4位に敗れたとき、水泳関係者の間では「北島は日本に帰って練習した方がいいのではないか」という声が出ていた。
しかし、同年8月に米国で開かれたパンパシフィック選手権で2種目に優勝して、そんな周囲の心配を吹き飛ばした。100メートル予選でいきなり自己の日本記録に0秒13と迫る59秒04の好タイムを出し、200メートルは2分8秒36と高速水着以外の条件で大会新の記録をマークしていた。
パンパシフィック選手権に先立つ6月、モナコ、バルセロナ、カネ(フランス)を転戦するヨーロッパグランプリに出場して、試合での泳ぎを磨いていった。バルセロナ大会を終えた後、北島はこんな話をした。
「水泳が今、楽しい。練習の仕方もぜんぜん違うし、新鮮な気持ちで取り組めています。米国では五輪のメダリストたちが一時休んだり、小さな大会に出たりしながら、自分のペースで競技を続けている。僕も米国にいたら、北京五輪後にあんなに長く水から離れなくても、よかったかもしれないですね」
平井コーチと厳しい練習をこなしながら、アテネ、北京と五輪2大会連続で二冠の偉業を成し遂げた。「あれだけの練習をしてきたから今がある」と日本での日々を肯定的にとらえながら、海外で新しい水泳の世界を楽しんでいる姿が、なんとも頼もしかった。
2011年は2月の短水路日本選手権に来日して、存在感を示した。50、100、200メートルで短水路(25メートルプール)の日本記録を連発した。抵抗の少ない泳ぎに力強さが加わって、私は「北島は新たなステージに入った」と受け止めていた。
ところが、好事魔多し。
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