メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

29歳、北島康介が進化を続ける秘密とは?

堀井正明

 4月2~8日に東京辰巳国際水泳場で開かれたロンドン五輪代表選考会を兼ねた競泳の日本選手権で、北島康介(日本コカ・コーラ)が日本競泳史上初の4大会連続五輪代表を決めた。大会最激戦区と言われた男子平泳ぎで二冠を達成。100メートルでは4年ぶりに自己ベストを0秒01更新する58秒90の日本新記録を樹立し、200メートルでも高速水着を着用しない条件では自己最速の2分8秒00をマークした。29歳のベテランが進化を続ける秘密を探ってみたい。

 58秒91と58秒90。

 わずか0秒01の違いだが、もし記録に色がついていたとしたら、まったく違った色に見えるはずだ。たとえるなら「情熱の赤」と「冷静の青」。4年の歳月を隔てて生まれた二つの自己ベストは、それだけ違うアプローチから生まれた記録だった。

 2008年北京五輪100メートル平泳ぎの優勝タイム・58秒91は、1996年の中学2年から東京スイミングセンターで指導を受けてきた平井伯昌コーチとともに、12年かけてたどりついた一つの頂点だった。

 4月3日に出した58秒90は、北京五輪後に平井コーチから独立して米国に渡り、自分の考えでコーチを選び、体を作り、泳ぎを改良して、実現した日本新記録だった。

日本選手権男子200メートルでの北島康介

 北京五輪後、しばらくプールから離れた後、「もう一度、日の丸をつけて泳ぎたい」と、2009年6月に渡米して、ロサンゼルスにある南カリフォルニア大学の社会人チームで練習を続けてきた。米国で多くの五輪選手を育てた実績のあるデーブ・サロコーチが指導にあたり、北京五輪女子200メートル平泳ぎの金メダリスト、レベッカ・ソニら世界の一線級も所属する有名クラブだ。

 しかし、初めからここに所属するつもりで渡米したわけではなかった。いくつかのクラブを実際に見て回って、コーチとも話をして自分に合いそうな練習場所を選んだ。

 サロコーチの練習は、日本のように事前にメニューを選手に示すことはない。次々に口頭で練習内容を伝えて、選手はそれを聞いて、狙いを理解しながら泳いでいく。北島に対して手取り足取りの細かい指導はない。泳ぎの技術もレースのビデオを見るなどして、主に自分の感覚を頼りに改善している。

 2010年4月の日本選手権で100メートル2位、200メートル4位に敗れたとき、水泳関係者の間では「北島は日本に帰って練習した方がいいのではないか」という声が出ていた。

 しかし、同年8月に米国で開かれたパンパシフィック選手権で2種目に優勝して、そんな周囲の心配を吹き飛ばした。100メートル予選でいきなり自己の日本記録に0秒13と迫る59秒04の好タイムを出し、200メートルは2分8秒36と高速水着以外の条件で大会新の記録をマークしていた。

 パンパシフィック選手権に先立つ6月、モナコ、バルセロナ、カネ(フランス)を転戦するヨーロッパグランプリに出場して、試合での泳ぎを磨いていった。バルセロナ大会を終えた後、北島はこんな話をした。

 「水泳が今、楽しい。練習の仕方もぜんぜん違うし、新鮮な気持ちで取り組めています。米国では五輪のメダリストたちが一時休んだり、小さな大会に出たりしながら、自分のペースで競技を続けている。僕も米国にいたら、北京五輪後にあんなに長く水から離れなくても、よかったかもしれないですね」

 平井コーチと厳しい練習をこなしながら、アテネ、北京と五輪2大会連続で二冠の偉業を成し遂げた。「あれだけの練習をしてきたから今がある」と日本での日々を肯定的にとらえながら、海外で新しい水泳の世界を楽しんでいる姿が、なんとも頼もしかった。

 2011年は2月の短水路日本選手権に来日して、存在感を示した。50、100、200メートルで短水路(25メートルプール)の日本記録を連発した。抵抗の少ない泳ぎに力強さが加わって、私は「北島は新たなステージに入った」と受け止めていた。

 ところが、好事魔多し。

・・・ログインして読む
(残り:約2735文字/本文:約4363文字)