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[11]反原発デモが生み出したもの

二木信 音楽ライター

 現在、脱原発群像ドキュメンタリー映画『沈黙しない春』(監督・杉岡太樹)が公開されている。映画は浜岡原発の停止を求めて2011年3月27日に名古屋の栄で行われた「ストップHAMAOKAぱれーど」のシーンから始まり、浜岡原発停止までの44日間を追っている。筆者が知る限り、311以後もっとも早い時期に行われた反原発デモを主催したのは関口詩織(19歳)という女性だった。

 地震と原発事故の直接的な被害を免れたとはいえ、震災後の混乱した状況下で、関口はたった1週間でデモを準備し、実現させた。それが高校を卒業したばかりの女性だったということに、筆者は希望を感じた。未曾有の事態に多くの人々が右往左往している時期に、関口をこうした行動に駆り立てたものはなんだったのだろう。

 関口は高校在学中、坂本龍一と、ヴィジュアル系バンド・LUNA SEAのギタリスト、SUGIZOの共著「ロッカショ――2万4000年後の地球へのメッセージ」(STOP ROKKASHOプロジェクト著、講談社)を読んだことで原発の問題に関心を持ったそうだ。それをきっかけに原発について調べ始め、授業の自由研究としてそれをまとめたものを発表したり、高校3年の夏休みには写真展を開いたという。

 卒業後、ICU(国際基督教大学)への入学が決まっていた関口は、地震の翌12日に地元の名古屋から上京するものの、原発事故の報せを聞いて、すぐさま名古屋に戻った。関口は当時の心境を次のように語る。

 「名古屋へ戻った時に『もう東京の大学で勉強することは出来ないのかな』と思い、改めて大学に行く意味を考えさせられました。やっぱり自分も安定した生活を望んでいるんだな、とも。なにより、事故の前までは原発に無関心な人をちょっと責める気持ちがありましたが、結局、自分も何も行動してこなかった、他人事だと思っていたことに気づきました。そういう無関心の連鎖が原発事故の根っこにあるんだなとすごく反省して、とにかく今、なにかしなきゃという思いから動き始めました」

 そして関口は中部電力に浜岡原発の運転停止を求める要望書を提出するというアクションを立ち上げる。3月19日に名古屋の栄の路上で申し入れ書の賛同署名を433人分集め、インターネット上で募った署名と合わせた約700人の署名とともに、翌20日、中部電力に要望書を提出する。署名活動は、高校在学中に写真展を企画した友人たちを中心に準備をしたが、署名のために立ち上げたブログを通じて、彼女自身も把握し切れないほど多くの人々が行動に参加してきた。岐阜から子供を連れて手伝いに来ていた家族もいたという。

 「あれだけの大事故が起きたのだから、多くの方が浜岡原発停止を要請する署名活動を始めているものだと思っていました。でも、私と同世代の人たちがやっているような運動はなかった。だから、自分でやるしかないと思いました。署名を中部電力に提出した帰りに、せっかく集まったのにこれで終わるのはもったいないから、デモかパレードをやろうという話が持ち上がったんです。デモは、それまで参加したこともなかったですが、自分の思いや意見を主張したい人が町を歩くものというイメージでした。それなら楽しい方がいい、そう考えて、当日は拡声器から音楽を流しながら、デモ参加者から集めたメッセージを読み上げました。何かやろうとする良いエネルギーがあれば、そこに自ずと人が集まるんだと実感しました」

名古屋・栄で行われたストップHAMAOKAパレード=2011年3月27日、写真提供・関口詩織

 そう語る関口の溌剌とした話しぶりには、たしかに人を惹きつける魅力がある。デモには450人(主催者発表)が集まったそうだ。だが一方で『沈黙しない春』を観ると、彼女は様々な場面で戸惑いの表情を浮かべてもいる。まだ若い関口に対して、周囲の大人が過度の期待をかけているようにも見えた。署名活動やデモで感じた違和感を、関口はこう語る。

 「デモをやってから『君は活動家だね』という目で見られることが多くなったんです。私にとって反原発運動は、自分がやりたいことのための前提という位置づけなので、自分を活動家だとは思っていません。署名運動やデモをやる中で、反原発運動を長年やってきた方々とも会いましたが、私はそういった昔ながらのものとはちょっと違うスタイルでやりたいと思いました。どちらが良い悪いというのではなく、服や音楽の趣味が違うのと同じような感じです」

 彼女は独自の反原発運動を模索し始め、友人とICUで鎌仲ひとみ監督の映画の上映会を催し、原発の問題にまつわる読書会や勉強会なども開く。だが、大半の同世代や身近な友人・知人との温度差は激しく、なかなか理解や共感を得られなかったそうだ。それが原因で大学に行くことが辛くなり、今は休学している。

 そんな孤軍奮闘中の関口は、上関原発建設計画に反対して山口県庁前でハンガーストライキを行った青年との出会いをきっかけに新たな運動を立ち上げる。「若者会議」という集まりがそれだ。

 「同世代とですらすれ違いがありましたから、まずお互いが本音で話せる『場』が必要だと思ったんです。原発のことでも他のことでも何でもいい、まず相手の話を真正面から聞いて、自分のことも聞いてもらう。お互いが困っていること、悩んでいることを打ち明けられる場所。そういう対話の場がなかったことも、社会が原発問題をこれまで放置してきたこととつながっているんじゃないかと思いました」

 「若者会議」には学生を中心に、様々な若者が参加している。ツイッターで原発やメディアの問題に大胆に切り込んでいたNHKのアナウンサー・堀潤も何度か参加したという。また「若者会議」の中からは、2011年9月11日から経産省前で行った10日間に及ぶハンストも生まれた。「将来を想うハンガーストライキ」というそのアクションは「コブシを使わず、拡声器を使わず、ただ食べずに想いを発信する」というサブタイトルが付いている。今、関口はオルタナティヴな活動の場を作り出しつつあるのだろう。

 「命を守るために原発に反対しているのに、その命を粗末にすることでもあるハンストという手段に対して迷いもありました。それにハンストというとストイックなイメージがありますよね。でも私たちがやったハンストは、経産省前にパラソルを立てて、海の家のように和やかな雰囲気でした。『若者会議』もそうですけれど、対話の場を作りたかったんです」

 2007年から反原発運動を展開してきたNO NUKES MORE HEARTSの主宰者、Misao Redwolf(年齢非公表)も関口たちが行った「ストップHAMAOKAぱれーど」に参加した一人だ。地震を受け名古屋に避難していた彼女は、関口たちとは別に、やはり名古屋市に、中部電力への浜岡原発停止を申し入れるよう要望書の提出を行いながら、着々と次のアクションの準備にかかっている。Misaoはその間の動きをどう捉えているのだろう。

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