2012年07月24日
しかし、そうした作業を続ける上で「できること」と「できないこと」、「すべきこと」と「すべきでないこと」の線引きをしておく必要もあるはずだ。
○少年事件を巡る報道の困難
報道状況をストレートに議論する論考は多く書かれるだろうから、ここでは少し迂回した書き方をしてみる。この事件を知って筆者が思い出していたのは、意外に思われるかもしれないが、沢木耕太郎の『血の味』という作品であった。父親を殺害する少年を描いた同作は、ノンフィクションの名手が「フィクション」という表現形式を選んだことで大いに話題となった。
沢木はなぜその選択をしたのか。同作上梓後に彼はインタビューにこう答えている。「ノンフィクションにおいては、素材となる事実を恣意的に改変することは許されませんよね。それを自分に許してしまった瞬間、ノンフィクションはノンフィクションであることをやめることになります。つまりノンフィクションはそれを構成する『部分』について著者は手を加えることができないということなんです」(『波』2000年11月号)。
たとえば『テロルの決算』は膨大な取材と資料引証によって描き上げられた、まさに事実のみで組み立てられた作品だった。だが同作はそれゆえにひとつの限界を抱え込んだ。浅沼稲次郎・社会党委員長を刺殺した17歳の少年の「内面」を描く時、沢木は取り調べ調書を引用している。『テロルの決算』の本文は沢木一流の端正な文体で終始しているのだが、調書からの引用部分だけが破綻を来す。それは当然で、引用の部分に関してもノンフィクションである以上、沢木自身が脚色を加えることは禁じられる。結果としてその文章は、留置中の少年の言語表現能力、その調書をまとめた警察官の表現能力の制限に縛られる。
筆者は、こうして『テロルの決算』で調書の引用をした経験が、後の沢木に『血の味』をフィクションで書かせたのではないかと推測する。少年犯罪をノンフィクションで書くことは困難だ。よく指摘されるようにまずは少年法の壁に阻まれる。少年自身の証言が得られた場合であってもその言葉は拙いし、媒介者によって紋切り型に変形されていることも多い。そうした限界が立ちはだかっている以上、犯罪に至る少年の内面にはノンフィクションの手法では届かない。そこでフィクションの手法を試してみたいと沢木は考えたのではなかったか。
○安易に少年の世界を「物語」にしない
こうしたかたちで沢木を想起したのは、大津の事件に関してこのままでその全貌が果たして明らかになるのか、疑問に感じたからだ。「大人」たちの世界、たとえば教育関係者や保護者たちの動向について報道は取材や調査のメスを入れて明らかにしてゆくべきだろう。しかし、その一方で、いじめを巡る暴力が「少年」たちの世界でいかにあったか。それについて安易に分かったように過信する危険を自覚すべきではないか。
事実部分での改変が許されないノンフィクションでは、一方で「その部分を用いてひとつの作品を生み出そうとするとき、それを完全に支配することが許されます。どの部分を用いてどのように全体化するかは著者の自由に委ねられているんです」(同前)と沢木は述べている。
大津の事件でも、子供たちの世界であったらしいいじめの凄惨な内容が気になるからか、大人たちの対応のまずさに憤慨したためか、犠牲者の同級生たちへの取材も続いている。しかし、
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