メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

デモで露見したマスコミの「不都合な真実」

水島宏明 ジャーナリスト、上智大学文学部新聞学科教授

 大手マスコミ企業で働く人の多くは「デモ嫌い」だ。「デモをするような人間」「社会運動する人間」にうさん臭さを感じて嫌悪する。これはテレビ局で働いてきた筆者の実感だ。デモをする人たちは突然明日やるなどと連絡してきて取材しろと要求する。こっちだって取材予定があるのにそんな勝手な人々に振り回されたくない。警官を挑発してわざと小競り合いを起こすような輩もたまにいて虫唾が走る。決められたルールさえ守らない人間が政策についてもの申す資格なんかあるのか。そんなマスコミ人の「感じ方」が、脱原発デモをめぐる当初の報道には見え隠れしていたように思う。

 毎週金曜日に行われる首相官邸前の脱原発デモや集会はどんどん拡大する様相を見せている。国家権力の中枢の前でモノ言う市民が大勢集まったことだけでも大きなニュースになってよいはずだが、当初、テレビや新聞は報道に消極的だった。官邸前デモが始まった6月15日(金)。1万人近く集まったと伝えられているが、ほとんどのテレビ局はその夜のニュースで報じず、新聞も記事にした社は数える程度だった。

 重大な原発事故が起きた国で、止まったままの原発の再稼働をめぐり、首都の政府中枢の建物前で大勢の国民が抗議の声を上げている。冷静に考えれば国際的なニュースのはずだ。ワシントンで、モスクワで、北京でと、もし他の国で同様のことが起きたらと想像したら、即、ニュースとして取材するのが報道人の常識のはずだ。実際、この日のCNN、BBC、アルジャジーラなどの海外テレビは一斉に東京発で報じている。だが、日本のマスコミの反応はすこぶる鈍かった。既存のメディアは報じない一方、インターネットでは映像や原稿を配信する市民メディアがこぞって書き立てたのが対照的だった。

 6月22日(金)のデモは、主催者発表で4万5千人、警察発表でも1万1000人。テレビではその規模に驚いたのか短いニュースで伝えた局もあったが、夕方や夜のニュースで黙殺・無視を決めこむ日本テレビのような局もあった。その翌週の6月29日(金)は主催者発表で20万人(警察発表で1万7千人)の規模となり、それまで消極的だった日本テレビも短い時間ながら報じ始めた。これらのデモが労働組合などの運動の玄人によって組織された従来型デモとは違い、普通に日常生活を送る一般の人たちが自発的に参加する新たな形のデモだという認識がマスコミの中でも広がりつつある。

 もともと政治にはノンポリで反原発運動に関心があったわけでもない人たちが、それぞれの素朴な思いを届けようと仕事帰りに駆けつける。イデオロギーと無縁な人たちによる身の丈にあった自然な動きが生まれていることに既存メディアも気がつき出している。7月に入って新聞やテレビではこの運動が従来の運動とはどう違うか、民主主義の観点から分析する報道を始めている。若者や主婦など一人ひとりの参加者を追いかけて個々の目線で追うスタイルの報道も増えた。

 私はテレビ局の特派員として、80年代終わりから90年代始めのイギリスに4年間、90年代終わりから2000年代前半のドイツに5年間、計9年間をヨーロッパで暮らしてきた。そこで感じたことの一つが、ヨーロッパでは「デモ」という表現行為が、政治であれ、労働問題であれ、あるいは増税反対や戦争反対であれ、環境問題であれ、さらにはそこで暮らす外国の少数民族や性的なマイノリティーの問題であれ、頻繁に行われ、日常生活の中で定着していることだった。

 数多くのデモを取材したが、天気が良ければ家族を連れてピクニック気分で出かけるイベントという感じだった。警察も過度な警戒をせずにデモの雰囲気を壊さない形で規制し、デモをする側も警備する側も互いに尊重し合う「大人の関係」が築かれていた。中には悪乗りして暴動に発展させるグループもいるため、そうした極右や極左のグループに対する取り締まりは厳しく時に威圧的だったが、それ以外は警察も友好的だった。おおむねデモをする側と警備を行う警官とが時折、談笑しながら、楽しげに歩く。そんな光景はイギリスでもドイツでも当たり前のように見られた。場合によっては

・・・ログインして読む
(残り:約6271文字/本文:約7983文字)