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[20]チームの一員として夢を追う魅力的な女子マネたち

守田直樹 フリーライター

 女子マネジャーが初めてベンチ入りしたのは1996年の夏だった。第1号となった東筑高校(福岡)の女子マネは、ツインテールがよく似合う女の子だった。勝利後のこぼれんばかりの笑顔と、敗戦後の涙も印象深い。

1996年、女子マネのベンチ入りが解禁となった。試合後、スタンドへのあいさつを終えて戻る東筑の三井由佳子さん(名字は当時)

「甲子園は私にとってあこがれだったので最高にうれしい」

 そう語っていた彼女も、いまは苗字が変わっているらしい。

 今夏もたくさんの魅力的な女子マネがいた。

 そのひとりが初出場でベスト16入りした宇部鴻城(山口)の野室千尋(のむろ・ちひろ)さん。小学2年から始めた少年野球ではセカンドを守り、高校に入るとき、女子マネになりたくて宇部鴻城を選んだという。

 身長145センチで、野球帽をかぶると小顔の半分が隠れてしまう。甲子園のベンチは半地下なので、「椅子に座るとグラウンドが見えません」と笑う。

宇部鴻城のマネジャー、野室千尋さん

 ただ、ベンチで一度も座らず、ずっと立ったままスコアブックをつけていたのは甲子園だからではない。新チームが発足した昨年の7月25日からずっと貫いてきたことだ。

「全部で80試合くらいだと思います。選手たちと1日でも長く野球するために、自分に何ができるんだろうと考えて決めました」

 ペンをもつ右腕の方が左腕より日焼けしているのは、運転焼けならぬ“スコアつけ焼け”。選手とともに戦ってきた勲章だ。

 2回戦では、今大会最多の21安打を放って相手を圧倒。4番打者が逆転の2点本塁打を放ったときには、ベンチは大いに盛り上がった。だが、野室さんはうれしそうに笑ったあと、すぐにグラウンドへ目を戻した。

「ベンチでは選手に話しかけません。選手のなかの空気、というのがあるので自分が乱すわけにはいかないんです」

 3年生の女子マネは1人だけで、ほかには1年生に1人いるだけだ。

「監督さんなどから認められないとマネジャーにはなれません。チャラチャラした子が入ってきても困ります。野球部は恋愛禁止なんで」

 宇部鴻城の3年生部員は8名。まさに9人目の選手だった。

倉敷商のマネジャー、小谷理紗さん=撮影・筆者

 倉敷商(岡山)の女子マネには、味方が守りについたとき、相手の次打者のそれまでの打撃結果をナインに大声で知らせる仕事がある。小谷理紗さんは高い声で絶叫していた。

「バッター1番! 空振り三振、センターライナー!」

 甲子園の大観衆のなかでも声が届くのか。主将でサードの藤井勝利は言う。

「ちゃんと聞こえていました。甲子園でも堂々としていてびっくりしましたし、大きな声を出してくれて感謝の気持ちでいっぱいです」

 小谷さんは中学時代、吹奏楽部でクラリネットを吹いていた。だが、父や弟が野球をしていたこともあり、倉敷商では女子マネを選んだ。

「最初のころは大きな声が出せませんでした。森光(淳郎)先生から『先輩の方が大きかったぞ』と言われ、負けじと大きな声を出すようになりました」

 ほかにもノッカーへのボール渡しや、夏の大会に向けて千羽鶴を折ったり、選手一人ひとりの名前などを糸で縫いこんだお守りを作ったりした。

 浦添商(沖縄)の知念真莉香さんも、2回戦の勝利後は満面の笑顔だった。

「今が一番楽しい。つらかったこと? 思い出せません。中学のころに浦添商に行くと決め、甲子園で優勝し、パレードして卒業するイメージトレーニングをしていました。そのイメトレに今、近づいてきています」

 鳥取城北の有本友実子さんは、小学生のときから高校野球が大好きだった。友達に誘われ、先輩のいない野球部の女子マネの仕事を2人で開拓していった。

「ファンとして応援するんじゃなく、チームの一員としていっしょに夢を追いかけたかったんです。つらくて辞めたいと思ったこともありましたが、チームのみんなに助けられてつづけられました。甲子園のベンチにセンバツと夏の2回も入れて本当にうれしかった」

 ほとんどの女子マネの仕事には、選手のユニホーム

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