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生活に根ざした思い、生い立ちから生まれた願い――3・11以前から原発推進という国策に挑んできた人たち

大久保真紀

大久保真紀 朝日新聞編集委員(社会担当)

 ♪♪めだかの学校は川のなか そっとのぞいてみてごらん~~~

 だれもが口ずさんだことがある、童謡「めだかの学校」です。その2番はこうです。

 ♪♪めだかの学校のめだかたち だれが生徒か先生か だれが生徒か先生か みんなで元気にあそんでる~~

 佐伯昌和さん(57)が、仲間と1978年11月にスタートした反原発学習グループ「京都反原発めだかの学校」の活動は、この歌詞の思想を大切にしています。

 「原子力問題に素人は口を挟んだらいけないという流れに異議を唱えたかった」と佐伯さんは振り返ります。

 同じ童謡でも、「すずめの学校」の歌詞は、先生がむちを振るうという、先生と生徒の関係が描かれています。

 ♪♪チイチイパッパ チイパッパ すすめの学校の先生は むちを振り振り チイパッパ~~

 歌そのものはかわいらしいものですが、佐伯さんたちは原発について勉強していく市民グループの名称としては、縦の関係で

拡大軒先で無農薬の京野菜を売る佐伯昌和さん(伊ケ崎忍撮影)
はなく、横の関係の「めだかの学校」を選んだのでした。一人ひとりが自分で考え、行動することが大事という思いがこもっています。

 佐伯さんは京都市内で続く農家の5代目です。島根大学農学部に入った1974年、大学から8キロのところにある島根原発が稼働を始めました。自転車で20分もかからない場所です。佐伯さんは仲間と「公」害研究会を作り、原発について学習を始めました。

 まずは、地元の漁師町に足を運びます。自転車で通っては漁師たちと話し、原発の危険性を訴えるビラも配りました。しばらくすると、島根原発2号機の建設の話が浮上してきます。

 地元の漁師によると、すでに稼働していた第1原発近くでは、原発から出される温排水のために、海中がうるんで見えて、アワビやサザエなど箱めがねを使って取る漁に影響が出ているというのです。漁民らと協力して2号機の事前調査の反対運動を始めました。

 75年からは、核燃料の輸送の監視もします。

 一方で、ムラサキツユクサの観察も始めました。ムラサキツユクサは低線量でも放射線を浴びると、その影響でおしべの毛に突然変異が起こります。それで、原発周辺に放射線が出ているのかどうかを調べようというのがその観察の趣旨です。佐伯さんらはその研究で有名な当時は京大にいた故・市川定夫さん(元埼玉大学名誉教授)の教えを請いました。

 ムラサキツユクサの観察は、目に見えない放射能の影響を生物の中にとらえ、花が送る危険信号を受け止めようというものです。原発が建ってしまったという既成事実に抗して始まったもので、浜松(静岡県)、島根(島根県)、高浜、敦賀(ともに福井県)、東海(茨城県)などで行われていました。

 佐伯さんは、学生時代、ずっとムラサキツユクサの観察という地道な作業と、そして、地元へ通い、ビラを配ったり、漁民と話をしたりという活動を続けました。

 卒業後、佐伯さんは京都に戻って家業を継ぎます。都会の人間は事故が起こらない限り、原発問題からは逃げていられます。ですが、佐伯さんは「めだかの学校」で月に1回は勉強会を開き、京都を通る核燃料の輸送を監視し、高速増殖炉「もんじゅ」をめぐる訴訟の傍聴に福井や金沢に通いました。いまも活動を続けています。

 何が佐伯さんの背中を押しているのですか? その問いに、佐伯さんはこう答えました。

 「活動するのは、百姓やさかいですわ。事故が起こって放射能が飛んできたらどないしようと思う。生活の糧を奪われてしまうさかい」

 86年のチェルノブイリ事故の後は、京大原子炉実験所助手の小出裕章さん(63)に測定したもらったところ、京都にもわずかですが、放射能が飛んできていたそうです。

 福島の事故があった昨年は怖かった、と佐伯さんは言います。福島から避難できない農家の思いは理解しつつも、京都という都会で農業を営むがゆえの不安をひしひしと感じました。京都で、問題になるほどの放射線が測定されはしまいか、と。

 佐伯さんは京都市内の住宅地を中心に、5カ所で計70アールの畑をもっています。そこで、京野菜を無農薬で栽培しています。種類は1年で70種にもなります。畑は住宅に囲まれています。

 「僕は常に少数派です。近くの人たちにどう理解してもらって畑を残していくか、という課題をいつも抱えている。それは原発問題につながるものです」

 佐伯さんは親の代では農薬を使っていたそうです。学生のころから、農薬は使いたくない、という思いがあり、父親とけんかしながら、変えていったそうです。除草剤をかけると、緑だった草が黄色く変色し、死んでいきます。それを見ると、佐伯さんは罪悪感を覚えました。もともと気管支も強くなく、農薬や除草剤を使うと、自分が咳き込むということも起こりました。健康になるために野菜を食べましょうって言っているのに、その健康を害するような農薬や除草剤は使えない、という思いに至りました。

 まずは除草剤を止めました。2年は畑が草茫々になったそうです。その後、だんだんと農薬をやめていき、10年ほど前に無農薬栽培を果たします。

 「野菜は虫に好かれないかん。そやけど、虫に食われたらいかん」

 無農薬栽培は、「いまも途上ですわ」と佐伯さんは笑顔で話します。

 ただ、無農薬はあとからついてくるもので、おいしい野菜をつくる、ということが目指すところだといいます。直売と店頭で、佐伯さんの無農薬の野菜は売られています。毎朝、午前6時には畑に行き、その日の収穫をする日々です。

 佐伯さんの地元には400年伝わる秋の祭り、北野天満宮・瑞饋神輿があります。平安時代に五穀豊穣に感謝し、そのお礼として、自分たちがつくった新穀、野菜、果実などに草花を飾り付けた神輿を、菅原道真公の神前にお供えしたのがお祭りの始まりと言われています。祭りは10月にありますが、その作物作りは、前年の10月末、つまりほぼ1年前に麦をまくことから始まるそうです。麦から始まり、神輿に必要な、瑞琪、千日紅、赤ナス、五色トウガラシ、ミョウガ、白ゴマ、ネギなども作ります。

 佐伯さんは農家として神輿の材料となる作物を作るとともに、保存会の副会長も務め、資金集めなどにも奔走しています。

地元に根ざした暮らしを送る、佐伯さんはこう言います。

 「そこに住むということの大事さ。住む以上はいい環境で住みたい。その思いは、原発に問題につながるという気がしている」

     ◇

 京都には市民団体「グリーンアクション」代表のアイリーン・美緒子・スミスさん(62)もいます。

 アイリーンさんは世界的な写真家だったユージン・スミスさんの元妻です。

 自身は、米国人の父と日本人の母との間に生まれ、幼いころは日本で生活していました。しかし、両親が離婚し、7歳から父方の祖父母が住む米国セントルイスの郊外で育つことになります。

 ユージンさんとの出会いは、スタンフォード大の学生だったときです。富士フイルムのテレビコマーシャルの撮影現場で、アイリーンさんは日本語通訳兼コーディネートの仕事をしていました。そのコマーシャルにユージンさんが起用されていました。

 年の差は31歳です。アイリーンさんは、ユージンさんに見初められ、猛烈なアタックを受けます。そして、結婚。71年秋からふたりで水俣で暮らしました。

 ユージンさんと共同で写真を撮影し、制作した水俣の写真は、あまりにも有名です。

 アイリーンさんは水俣に行って、自分が救われた、と言います。

 アイリーンさんの父親はプラスチックや農薬を扱う大きな貿易商でした。その父親について、11歳のときに訪れた香港では、自分が乗る外車の外側に、難民が群がってきて、「食料をくれ」と叫んでいました。高校生のときには、サイゴンに行き、父親とともにキャバレーに足を踏み入れました。酒とダンスに酔う大人たちの姿を見る一方で、トイレに行くと、若いベトナム人の女の子がタオルを渡す仕事をしていました。その少女との親近感を抱きます。ですが、そこには大きな壁がありました。

 幼いころから、ずっと自分の生きる世界と外の世界との違いを感じていました。「社会の全体像を知りたい」「自分の外の世界を知りたい」と思っていたアイリーンさんにとっては、ユージンさんと飛び込んだ水俣は、かつては自分の外側にあった社会のことがわかる世界でした。

 そして、何よりも患者たちは温かかったそうです。雨が降ってくると、外に布団を干したまま出かけてしまったアイリーンさんたちのために、隣に暮らす患者さんがだまって布団を取り入れてくれていました。地元の人たちはいつも声をかけてくれ、世界的に有名な写真家と若い妻という夫婦を、温かく見守ってくれたそうです。その一方で、 ・・・続きを読む
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筆者

大久保真紀

大久保真紀(おおくぼ・まき) 朝日新聞編集委員(社会担当)

1963年生まれ。盛岡、静岡支局、東京本社社会部などを経て現職。著書に『買われる子どもたち』、『こどもの権利を買わないで――プンとミーチャのものがたり』、『明日がある――虐待を受けた子どもたち』、『ああ わが祖国よ――国を訴えた中国残留日本人孤児たち』、『中国残留日本人』など。

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