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[1]スタンダード化する興南スタイル

中村計 ノンフィクションライター

■プロローグ

 蝉時雨が虫の音にすり替わり、ようやく「夏の甲子園」のほとぼりも冷めた。

 ガッツポーズをする選手が少なくなった――。それが、この夏の甲子園の全体的な印象だった。

 その答えを得たのは、準決勝後のことだった。

 「我喜屋監督のパクリです」

 2012年8月22日。決勝進出を決めた光星学院の監督、仲井宗基は、ある記者の「選手たちが一喜一憂しないのはなぜか」という記者の質問に対し、照れながらそう明かした。

 「我喜屋監督」とは、2010年、興南高校を史上6校目となる春夏連覇に導いた我喜屋優のことである。夏制覇は、県勢として初の快挙でもあった。

 仲井が続ける。

 「あのとき、興南はすごくいい野球をやられてるな、と思って見ていた。選手たちが、本当に淡々とプレーしていた。ヒットを打っても、喜怒哀楽を表に出さずにね。喜びを爆発させるということは、苦しいときも表情に出してしまうということですから。要は、反省は終わってからすればいいということなんですよね」

 漠然と、そういうことではないのかなと思ってはいた。

 というのも、甲子園では、一世を風靡するようなチームが表れると、そのスタイルが「スタンダード」になることがままあるからだ。

 最近の例で言えば、2004年から06年まで3年連続で甲子園に出場し、04年、05年と夏連覇を達成した駒大苫小牧の「イチバン」のポーズがそうだった。

 彼らはピンチのとき、マウンドに集まると、最後にみんなで空を人差し指で指してから輪を解いた。日本一になる。気持ちをひとつにする。そんな意味合いがあった。

 優勝したときも、拳ではなく、人差し指を突き上げ、喜びを爆発させたものだ。

 今日では、高校野球だけにとどまらず、大学野球でも、社会人野球でも、プロ野球でも、勝ったときのお決まりのポーズになった。

 それほど、駒大苫小牧の躍動感あふれる野球は衝撃的だったし、それを象徴するイチバンポーズは印象的だった。

 同様に、興南の「静の野球」も異彩を放っていた。笑わない。ガッツポーズをしない。そうしたプレースタイルは、勝ち進むたびに迫力を増し、他チームを圧倒した。

 おそらく、そうした印象は、映像や活字を通し、多くの球界関係者の心に刷り込まれた。意識するしないにかかわらず、である。

 この夏は、それが浸透し、その影響が表れ始めた最初の年だったということなのかもしれない。単純に恰好を模倣するだけではない。その奥にある興南の、我喜屋のイズムに気づき始めたのだ。

 光星学院ら「静の野球」の躍進で、今後、興南スタイルはますますスタンダード化していくことだろう。

 首里高校が沖縄勢として初めて甲子園を踏んだのが1958年のことだった。当時、沖縄にはフェンスで囲われた球場がひとつもなく、野球場で初めてプレーすることになった首里高校は、大阪へ向かう途中、鹿児島県の鴨池球場を借り、クッションボールの処理の練習を何度もしたという。

 同じ頃、本土では立教大学のスーパースター、長嶋茂雄が読売巨人軍に入団し、まさにプロ野球黄金時代に突入しようとしていた。

 そんな中、沖縄だけが、取り残されていたのだ。

 あれから50年余――。

 興南の春夏連覇によって、今度は、「本土」のチームが沖縄ベースボールを追いかける時代になった。

■木鶏

 隙を見せないのは、メディアに対しても同じだった。

 「笑って、笑って」

 カメラマンのそんなリクエストにも、興南の選手等の表情は緩む気配すらなかった。

 執拗なカメラマンの要求に、監督の我喜屋優の眉間に軽くしわがよる。そんな監督の緊張感が空気中を伝播し、選手たちの表情がさらにこわばる。

 2010年8月21日。地下鉄の住之江公園駅の階段を上がるとすぐの場所に立つ「ベストウェスタン・ジョイテル大阪」の大広間でのワンシーンである。

 ショッピングビルの9階に入っているホテルの窓からは、眼下に、広大な住之江公園や、競艇の聖地、住之江競艇場などが見渡せる。

 1時間ほど前、阪神甲子園球場で深紅の大優勝旗を手にした興南高校のメンバーは、宿舎に戻り、その優勝旗とともにメディア用の集合写真の撮影に応じていた。

 用意されていた撮影時間は5分。カメラマンの間に、にわかに焦燥感が広がる。業を煮やしたあるカメラマンが、思わずこう叫んだ。

 「本気の笑顔で!」

 少々強引だが、気持ちはわからないでもない。しかし、そんな最後の一太刀も、興南の選手たちには、さほど効いたようには見えなかった。

 沖縄県勢として全国高校野球選手権大会、いわゆる「夏の甲子園」を初めて制した。しかも同時に、春の選抜高校野球大会の優勝に続く、史上6校目となる春夏連覇の達成でもあった。掛け値なしの快挙である。どんなに喜んでも、喜びすぎるということはないだろう。それでいながら、この自制心はどうしたことだろう。

 木鶏――。

 興南の戦いぶりを見ていると、いつも、そんな2文字が頭の中に浮かんだ。

 木鶏とは『荘子』の中の故事に由来する言葉だ。広辞苑には〈強さを外に表さない最強の闘鶏をたとえる〉とある。

 つまり、相手を威嚇したり、虚勢を張ったりしているうちはまだまだ未熟であって、木で造った鶏のように何事にも動じなくなってこそ本物だという意味である。

 日本では、双葉山のこんなエピソードでよく知られるようになった。その昔、大横綱の双葉山の連勝記録が69勝で途切れたとき、横綱はある知人に「未だ木鶏たりえず」と自分の未熟さを嘆く電報を送ったのだ。

 それをきっかけに日本人の中にも、木鶏の姿こそが、戦う者の理想型なのではないかという考えが浸透した。

 興南の選手たちの姿は、木鶏そのものだった。打っても、抑えても、勝っても、実に淡々としていた。試合中に、ガッツポーズはもちろん、笑うことさえほとんどしない。これだけの偉業を成し遂げながら、こんなにも喜びを表現しなかったチームは過去になかったのではあるまいか。

 ここまで、喜ばないのか――。そう、畏怖した場面がある。

 選手権大会、準決勝の報徳学園戦だった。

 興南は2回が終わった時点で0-5と、5点ものリードを奪われていた。指揮官も「崖に落とされた」と振り返る。

 だが、5回に3点を返し反撃の狼煙を上げると、6回にもさらに1点を挙げ、4-5と1点差に詰め寄る。この段階で、4万6000人の気持ちは「興南劇場」へ向け、すでに心の準備は整っていたといっていい。

 興南は準々決勝で3点差を跳ね返していたこともあり、この試合、観衆はどんなピンチに陥ろうとも復活を果たすヒーローもののドラマを見ているかのような心境になっていた。そして、最後に必ずおとずれるだろうカタルシスを今か今かと待ちわびていたのだ。

 クライマックスは、7回表におとずれた。

 興南はまずはヒットと送りバントで、1アウト二塁の好機をつくる。

 舞台は整った。

 ここで興南野球の象徴的存在といってもいい3番の主将、我如古盛次(がねこ・もりつぐ)が右打席に立つ。言ってみれば、千両役者の登場だ。

 その我如古は、初球、119キロの外角高めのスライダーを叩いた。初球でいきなり決めるのが興南の十八番だった。ちなみにこの日、我如古が放った4安打のうち3安打は初球をとらえたものだった(残る1安打も初球ファウルのあとの2球目である)。

興南の我如古盛次

 漆黒の金属バットから弾かれた興南打線特有の低く速い打球は、センターの右を抜き、瞬く間に右中間フェンスの最深部に到達した。右打者は真ん中から右方向。左打者は真ん中から左方向。これも何度も繰り返し見た光景だった。

 一塁ベースを回った我如古は、迷うことなく二塁ベースも蹴った。二塁から三塁へ到達するまでの数秒間は、歓喜への助走となった。徐々に高まるテンション。そして、我如古が三塁ベースへ頭から突っ込んだところで興奮は最高潮に達した。

 大歓声と指笛が甲子園を揺らす。

 さすがの我如古も情動を抑えきれずに右腕を高々と突き上げる……ものだとばかり思っていた。が、何のリアクションも見せなかったのだ。

 このあと4番・真栄平大輝の中前打で1点を勝ち越し、最終的にそれが決勝点となった。

 しかし試合後、こう思った。この試合の勝敗を決めたのは我如古のあの態度だと。

 王者の風格を感じた。

 あとからVTRで確認すると、ヘッドスライディングをした我如古は、立ち上がった瞬間、腰のあたりで右手を握りしめ咆哮しているのだが、そこまでの小さな動きをスタンドからとらえることはできない。実に淡々と振る舞っているように映った。相手チームの選手をはじめ、大部分の人たちの目にもそう映っていたに違いない。

 試合後、お立ち台に立たされた我如古は、その場面をこう振り返ったものだ。

「(ガッツポーズを)やりかけて、やめました。まだ同点ですし、相手を刺激したくないというのもあって」

 我喜屋にも聞いた。

 「僕は、(ガッツポーズは)やるな、なんて言ってないよ。3アウト取った瞬間なら、喜んでもいいと思っている。まあ、明日にとってるんじゃないですか」

 だが、その「明日」も勝った瞬間はそれなりに喜びを表現したものの、その後、宿舎に戻ってからは既述の通りだった。

 おそらく選手たちは、あえて言われなくとも、我喜屋がそういった華美さを何よりも嫌っていることを熟知しているのだ。

 それは、たとえば、こんな部分にも表れていた。

 グラウンドに出入りする際、選手らが肩からかけている野球カバンがある。そのシーンはテレビにもよく映るので、甲子園出場が決まると各メーカーとも、ここぞとばかりに目立つカラーやデザインのものを提案してくる。

 だが、興南のそれは、黒一色だ。そこに金色の糸で小さく校名と名前が刺繍されているだけ。これ以上シンプルなものもない。

 また、寮内などで着るTシャツでさえ、部員らは、色は白か紺か黒を選ぶ。赤や黄色などの派手なものは避ける。さらに、プロ野球選手らがよく首にかけている磁気を発するネックレスなどのアクセサリー類はもちろん、現役中は、腕時計をすることさえ自粛する。

 それらは我喜屋がルールとして明確に定めているわけではない。だが、日ごろの言動や態度から自然と部内の了解事項となっているのだ。

 そんな我喜屋の、春夏連覇を達成した瞬間のリアクションは、驚きを通り越し、不可解ですらあった。

 手を後ろに組んだまま、大きく二度、うなずいただけだった。

 ベンチ内で、そんな我喜屋のそばにいた部長の真栄田聡は思い出す。

 「選抜のときもそうでしたけど、試合が終わった直後はいつも座っていましたね。疲れた顔をして。試合中は、神経、張っていますからね。監督はベンチの中では、いつもホームよりのところに立っているんですけど、甲子園は、三塁側はよっかかれるところがないらしいんです。だから、三塁側は(背後の)階段から落ちそうで、怖いって言ってましたね。決勝は三塁側でしょう? それもあったんじゃないですか」

 いや、それでもわからない。どんなに疲れていても、勝った瞬間、そんなものは吹っ飛んでしまうものだ。人は、あれだけのことを成し遂げたときでも、あそこまで冷静沈着でいられるものなのだろうか。

 「指導者は、ホッとするだけなんだよ。次、次、って」

 我喜屋は、そうとしか言わない。

 胴上げも好まない。そんなところも、いかにも我喜屋らしい。県大会で優勝したぐらいでは、断固として拒否する。

 「相手に対する配慮というか、遠慮が先行する。心の中の胴上げでいいよ、と」

 春の選抜高校野球大会で優勝したときも最初はやんわりと断った。だが、選手の気持ちをくみ、相手チームが球場を去ったのを確認してから受けた。

 「選手たちも、そうやって喜びを表現したいだろうしね。ただ、相手に敬意を表する意味でも、誰もいなくなってからやるよ、と」

 ただし、胴上げのときも、感動にひたっていたわけではない。

 「1回目(に宙に舞ったとき)はそれなりに喜んで、2回目のときは『明日からどうしようか』って考えて、3回目のときは『おまえら、頼むから落とすなよ』って。瞬間、瞬間、次のことを考えるのが僕だもん」

 ただ、この夏は、表彰式などのすべての行事が終わったとき、比較的すんなりと受けた。その理由については直後、こう語った。

 「やるかやらないかは、その瞬間、決めた。(宙に三度、舞って)正直、胸がいっぱいになりましたね。むしろ、私の方が選手たちを胴上げしたいぐらい」

 今にして思えば、我喜屋がこれだけ素直に喜びを表現するのは相当、珍しいことである。ただし、そんなときも、声をつまらせたりすることはない。あくまで口調は乾いている。

 この監督にして、この選手たちあり、なのだ。

 ただ、彼らもやはり普通の高校生でもある。記念撮影のあと、選手らに個別に話を聞く時間になったときのこと。我喜屋は選手たちに背中を向ける恰好で記者陣に囲まれた。

 すると、選手たちは金縛りが解けたかのように、弾けるような笑顔を見せはじめた。レンズを向けられ、笑顔。インタビューに答え、笑顔。

 なるほど、そういうことか――。

 そんな光景を見て、ちょっとホッとした。

 何かの雑誌の中に、選抜大会の紫紺の優勝旗を囲んだ集合写真を見つけたことがある。その中の選手たちは、一様に解放感に満ちた笑顔を見せていた。そんなバカなと思い、目を凝らすと、その理由はすぐにわかった。やはり、そこには我喜屋がいなかった。

 選抜大会は現場にいなかったので、優勝したあとの宿舎取材の様子がどんなだったかはわからないが、想像するに、似たり寄ったりだったのだろう。

■2010年、沖縄の年

 2010年は、高校球界にとって沖縄に始まり沖縄に終わった年だった。いや、もっといえば、日本の国内政治も、同じように沖縄に明け暮れていた。

 普天間基地の移設問題だ。2009年9月に歴史的な政権交代がおこり、民主党を中心とした鳩山由紀夫内閣が発足。民主党はかねて「普天間基地はできれば国外、最低でも県外移設」を標榜しており、さっそく鳩山内閣は基地問題に着手した。

 そのまっただ中にある頃、2010年1月に開かれた選抜高校野球大会の選考委員会では沖縄から、前年の秋季九州大会で優勝した嘉手納と、ベスト4の興南2校が選出。史上初めて沖縄県勢が2校選ばれた。

 「沖縄の流れ」は、このあたりからすでに始まっていた。また、嘉手納がある嘉手納町は極東最大の米軍基地がある町としても知られていただけに、普天間問題とのからみで、ちょっとした話題にもなった。

 ただ、鳩山の「夢物語」に近い移設計画をアメリカが簡単に認めるはずもない。米軍にとって必要なのは単なる基地ではない。沖縄の基地なのだ。軍事戦略上、沖縄にあるからこそ意味があった。すると、政府はあっという間に翻意し、沖縄県民の怒りをかった。全国各地で鳩山政権に対するデモ集会が開かれ、内閣支持率も急降下。結果、2010年6月に総辞職に追い込まれた。

 早実出身の王貞治が病床にあった2006年夏、甲子園の女神は早実に微笑んだ。「特待生問題」で揺れた2007年夏は、にわかに私学への風当たりが強くなり、公立の進学校である佐賀北が戴冠した。

 明確な根拠はない。ただ日本中が、情緒的、感情的になる高校野球の季節は、終わってみると、世論が後押しをしたように思えてならないときがある。そういう意味では、心のどこかでいつも沖縄を意識させられていた2010年は、まさに沖縄の年だったのかもしれない。

 春夏連覇は、1998年に松坂大輔を擁する横浜が達成して以来、12年ぶりのことだった。その横浜を率いていた監督の渡辺元智は、テレビ解説者として決勝戦を観戦し、興南をこう絶賛した。

 「大平原で獲物を逃さぬライオンのよう。こんなに強いチームは見たことがない」

 過去、甲子園で春夏連覇を達成したチームは興南を含めて7チームある。

1962年 作新学院(加藤斌、高山忠克、八木沢荘六)

1966年 中京商(加藤英夫、平林次郎、伊熊博一、矢沢正)。

1979年 箕島(上野啓三)

1987年 PL学園(立浪和義、野村弘樹、橋本清)

1998年 横浜(松坂大輔、小池正晃)

2010年 興南

2012年 大阪桐蔭

 カッコ内は、高校卒業と同時にプロに進んだ選手である。

 つまり、興南は6校の中で唯一、高卒で即プロの世界に進んだ選手がいなかったということになる。無論、プロ野球志望届を提出さえすれば(2004年より志望届を出さないと学生はプロ野球団と交渉できないことになった)、エースの島袋洋奨などはドラフト会議で間違いなく上位指名を受けていたことだろう。だが、実際には提出しなかったわけだから、ひとまずそう言い切っていい。

 ただ、この事実が、興南が勝った理由の説明をさらに難しくさせてもいる。

 たとえば、横浜なら明快だ。松坂(大輔=レッドソックス)がいたから。無論、それだけではないが、ひとまずそれで納得はできる。PL学園もそうだ。立浪(和義=元中日)がいたから。野村(弘=元横浜)がいたから。橋本(清=元巨人)がいたから。乱暴だが、ひとまず納得できる。

 しかし興南は、島袋がいたから、それだけではやはり足りない。島袋だけだったら、少なくとも報徳学園戦で敗れていたはずだ。

 渡辺もこう話す。

 「興南は、島袋君も素晴らしいが、うちが連覇を達成したときよりも、周り(の選手)が素晴らしい。横浜は(春夏連覇を)達成できると思わなかったが、興南は予想通りだった」

 渡辺をして、ここまで言わせるチームの強さとは、いったい何だったのだろうか。渡辺の「こんなに強いチームは見たことがない」という言い回しを借用し、私なりに言葉を当てはめると、こんなところに落ち着く。

 こんなに隙のないチームは見たことがない――。

 そう、ちょうど、それは連覇を達成した直後の写真撮影のときのイメージとも、ぴったりと重なるのだった。(つづく。敬称略)