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[2]オーサーコーチと描く未来

青嶋ひろの フリーライター

 「赤いカナリアを見ましたよ!」

 5月のカナダ・トロントは、日差しがまっすぐに明るく、豊かな緑が目にまぶしかった。街のあちこちにある公園には小動物も多く、走りまわるリスに喜んでいると、

 「リスなんて、どこにでもいます。僕は赤いカナリアを見ましたよ!」

 ちょっと自慢そうに羽生結弦が言ったのは、彼がトロントに入って3日目。遅れて到着したこちらに、もうわけ知り顔だ。

 赤いカナリアは珍しい。見るとラッキーが訪れる鳥だと、土地の人が教えてくれたという。

 初めての海外拠点、トロント。3月の世界選手権で傷めた足首は、まだ癒えていない。アパートがなかなか決まらないなど、海外生活お決まりのトラブルも続いている。今後ホームリンクとなるはずのトロント「クリケットクラブ」のリンクは氷の張り替え中で、トロント市内や近郊のリンクを転々とする「ジプシー生活」がしょっぱなから待っていた。

 まだ時差に慣れない体を、エナジードリンクで奮い立たせて練習を始める……そんな状況だというのに、羽生結弦はご機嫌だ。ささいなラッキーチャームひとつにも、心を浮き立たせるほど。

 急なトロント行きに、彼自身、悩まなかったわけではない。小学6年生のころから師事してきた阿部奈々美コーチと別れるのは辛かったし、母親はしばらく同行するが、父や姉と離れ離れになることも心細かった。

 「ほんとは家族みんなで、トロントに来たかったくらいですよ!」

 トップアスリートとはいえ17歳の少年が、独力で拠点を選び、外国人コーチにコンタクトをとったわけでは、もちろんない。そこにはさまざまな人々のアドバイスがあり、議論もあった。それでも最後に決断をしたのは、彼自身だ。

 「たぶん、勧めてくれた人たちを、僕は信頼していたんだと思います。家族も含め、いろいろな方向で僕を心配してくれる人がたくさんいて、道を示してくれた。その道で待っている人がいるならば、僕はそこに行こう、と思ったんです。

 あとは、世界選手権であれだけの演技ができたこと! あれだけの評価をもらって、あの順位をとれたこと。そこでひとつ、自分で納得することができました。これまでの練習環境でやるべきことを、やり終えたかな、そんな感触があった。表彰台に上がれたからこそ、これからさらに多くのものを吸収したいと思った。

 今までの僕のスケートは、日本の枠のなかで固まってましたよね。外の世界を知らなかった。でもトロントに行ったり新しいコーチに習ったりして、違う方向からもスケートを考えられるようになれば……もっと変われるんじゃないかな? もっといろいろな世界が見えてくるんじゃないかな、って思うんです。ここらでもう一段階、一皮むけたいな、と! ソチオリンピックに出る、その思いを強くするには、今までどうりじゃなく、新しいことをしないとね」

 これは彼がトロントに渡った直後に語った言葉であり、その後、コーチ変更の理由を聞かれるたびに説明してきた心情だ。しかし彼の中で、多少「後付け」的なものもあるのではないか、と思う。まず、行くことを決めた。その後、「こうだから、やっぱり行くべきだったんだ。来て良かったんだ」と、沸き上がってきた気持ちだ。

 また当時、羽生結弦の海外行きを進めようとする人々とともに、それに反対する人々も少なからずいた。敏感な彼は、自分の決断で多くの人が責任を背負うこと、自分の今後の成績いかんで、尽力してくれた人々の立場が変わることに、気づいてもいた。

 「いろいろな人がいるから、支えてくれたみなさんのためにも、頑張んなきゃね。それは、プレッシャーではあります。でも僕、プレッシャーは大好きなので! 期待してもらえるなら、頑張んなきゃって気持ちになりますよ」

 が、言葉でここまでのことを語れても、実際にトロントに来るまでは、新しいコーチにつくことに実感はわかなかったし、心残りも不安もあった。決断に至るまでは、考え過ぎて混乱し、3時間も4時間も泣き続けた、などという話も聞く。

 「でもね、もうトロントに来ちゃった。練習も、始まっちゃってる。ここまで来ちゃったらもういいや、って。これでうまくなるんだったら、すべてOK、って気持ちなんです」

 羽生結弦は、試合の直前やアイスショーの最中など、気持ちが盛り上がると奇妙にハイテンションになることがある。トロントでの最初の数日間も、ちょっとそんな雰囲気だった。なんだか嬉しそうだね、と言うと、

 「うれしいですよー!」と言って、手足をじたばたさせる。

 コーチ変更に伴う、気持ちの荒波、様々な雑事。そんなものを越えてやってきたこの街で、気持ちの踏ん切りはついた。いろいろなものを吹っ切れると、後にはわくわくした気持ちだけが残った。

 出会う人も、取り巻く環境も、彼にとってはすべてが新鮮だ。新緑のトロントは、羽生結弦ただひとりのために光に満ちているようにも見えた。

 新コーチ、ブライアン・オーサーは、満面の笑顔で新しい生徒を迎え入れた。

 「世界選手権が終わったばかりのこの季節は、世界各国のスケーターが動くよ。僕のところを去っていく選手もいれば、新しく入門したいという選手もいる。そんな様々な動きの中で……今年一番のサプライズは、ユヅルだ。彼が僕のところに来るなんて、考えもしなかったからね」

 1984年、88年と、2度の五輪で銀メダルを獲得したカナダの英雄。2010年バンクーバー五輪では韓国のキム・ヨナを指導し、五輪チャンピオンへと導いた。ここで一躍コーチとしての名声も得たが、実は指導者としてのキャリアはそれほど長くない。ブライアン・オーサーが日本人選手を本格的に教えるのは、初めてのことなのだ。

 「良いジャンパーだけれど、スケーティングスキルはまだまだ」

 そう語るオーサーは、しばらくの間、新しい生徒につきっきりだった。最初はほとんどプライベートレッスンに近い形で教え、じっくりと羽生結弦を観察する。

新コーチ、ブライアン・オーサーと=撮影・筆者

 オーサーコーチの指導する選手は、国際トップレベルがふたり。スペイン男子代表のハビエル・フェルナンデス、グルジア女子代表のエレーネ・ゲテバニシビリだ。彼らの他にも、カナダ期待のジュニア男子、ナム・グエンをはじめ、若い門下生をたくさんかかえている。

 まだ前シーズンが終わったばかりのため、フェルナンデスは休暇中だったが、地元の若い選手を中心に、リンクには常時10~20名程度の選手が集まっていた。通常はその人数を、オーサーを中心にスケーティング担当のトレイシー・ウィルソンなど、アシスタントコーチ数名で教えるのだ。

 だが初対面後、最初の数日間は、とにかく羽生結弦のことを知ろうと、ジャンプ、スピン、ステップ……さまざまなことを試させる。そして動く彼を見守るだけでなく、自身もスケート靴を履いて氷上に立ち、盛んに動いて見せるのだ。

 「ジャンプ、こんな跳び方はできる?」

 と、ダブルアクセルくらいなら軽く跳んでしまう。「これがまた、超うまいんです」(結弦)。 

 「ステップの間に、こんな動きはできるか?」

 ひょいひょいとコーチがこなす動きを、新入生は見よう見まねで真似するが、時にずどんと尻もちをつく。

 こんなこともできないのか、と大げさに笑われるが、彼はできないことが楽しそうで、何度でも挑戦する。

 「小さい子もみんな思ってるだろうな。『こんなことができなくて、どうして世界の3位?』『なんだ、ジャンプだけじゃないか』って」

 世界選手権3位。しかしジャンプを中心に強くなった日本の選手は、氷の上での遊び的な動作、ちょっと凝ったステップなどが意外にできないことが多い。

 それはこれまで、村主章枝や浅田真央など多くの選手たちが

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