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「復興」から置き去りにされる震災遺族の心

西岡研介

西岡研介 フリーランスライター

 午前5時。夜も明けないうちから、人々が集まり始めた。公園の真ん中には幾本もの竹灯篭が「1・17」を模って並ぶ。誰彼ともなくロウソクを手にとり、その一本一本にあかりを灯していく。「祈り」と書かれた竹灯篭に向かって静かに手を合わせる高齢の男性。数珠を手に、これまでその頬を何度つたったか分からない涙を拭うこともなく、炎に語りかける女性。そして震災後に生まれた我が子を胸に抱き、「あの日」のことを伝えようとする若い夫婦……。

 阪神・淡路大震災の被災地にまた、1月17日が巡ってきた。

 神戸市役所に隣接する「東遊園地」では今年も、「阪神淡路大震災1・17のつどい」が行われ、昨年に引き続き、岩手県陸前高田市や大槌町、福島県南相馬市など東日本大震災の被災地から参加した人達の姿もあった。

 1995年に発生した阪神・淡路大震災から18年。神戸や芦屋、西宮などの被災地では今や、その傷跡を探さなければ見つからないほど「めざましい復興」を遂げた。そして東日本大震災の被災地でも、前政権時代には遅々として進まなかった復興が、政権交代によって少しでも前に進むのではないか……との希望が芽生えている。

 5時46分、東遊園地での黙祷で私は、阪神で犠牲になった6434人の冥福とともに、「東北の希望」が再び失望に変わらないことを強く祈った。が、その歩みの遅い復興からさえも、置き去りにされている人たちがいる。震災で亡くなった人々の遺族と、行方不明者の家族だ。

 宮城県名取市閖上で、祖母と両親、そして生後8カ月の長男、雅人ちゃんの4人を津波で奪われた竹澤さおりさん(35)と守雅さん(45)夫妻。祖母と父親は遺体で見つかったが、母親のすみ子さんと雅人ちゃんは未だに行方不明だ。

 名取市閖上に津波が到達したのは、地震発生から約1時間10分後の午後3時55分ごろ。同地区の住民7000人のうち900人以上の命が奪われ、未だ40人以上が行方不明のままだ。

「あの日、閖上地区では防災行政無線が鳴らなかった。地震から津波が来るまで1時間以上あったのに……。せめて防災無線だけでもちゃんと作動していれば、雅人だけでなく、より多くの人達が助かったのではないか」

 竹澤さん夫妻は今もそんな気持ちを抱えている。

 守雅さんは昨年5月に、「名取市震災犠牲者を悼む会」を他の遺族とともに立ち上げ、市の避難指示・誘導や防災無線の故障についての質問状を5月と7月の二度にわたって、佐々木一十郎(いそお)名取市長に手渡した。しかし、「市長の回答からは誠意の欠片も感じられなかった」(守雅さん)という。

 このため「悼む会」は11月、名取市の避難指示態勢を検証する「第三者委員会」の設置を求める請願を市議会に提出。守雅さんも市内の仮設住宅を一軒一軒回り、4000人を超える署名を集めた。そして12月、市議会は請願を全会一致で採択。検証に極めて消極的だった名取市も「第三者委員会」の設置を渋々、認めざるを得なくなった。

 「その名取市は今、津波で浸水した地域をかさ上げ、盛り土して、新しい街を作ろうとしています。そこにまだ、雅人やお義母さんがいるかもしれないのに……。そんな『復興』ならいらないし、雅人が見つからない限り、私たち夫婦に『復興』など永遠に来ないと思っています」(守雅さん)

 22回目の月命日となる今年1月11日、守雅さんは、所轄の宮城県警岩沼署に捜索を行ってくれるよう、三度目の陳情に向かった。


 ただ、「2011年3月11日」から時計が止まってしまった震災遺族は、被災地だけにいるのではない。

 兵庫県西宮市に住む藤田敏則さん(64)は、4年前に岩手県陸前高田市に嫁いだ長女の朋さん(当時29)を東日本大震災で亡くした。結婚後、陸前高田市の職員となった朋さんは、市民会館に避難していたところを津波に浚われ、帰らぬ人となった。朋さんのお腹の中には4カ月になる赤ちゃんがいた。

 震災から約1カ月後、岩手県一関市で朋さんと赤ちゃんを荼毘に伏した藤田さんは「娘を温かく迎えてくれたこの地に何かできることを」と、岩手の被災地を回る移動お絵かき教室「けっぱれ岩手っ子」を立ち上げた。絵心を持つ藤田さんには18年前、阪神・淡路大震災で被災した子供たちの心のケアにと「移動お絵かき教室」を開いた経験があった。

 勤めの合間を縫って、西宮と岩手を何度も行き来した。陸前高田をはじめ、大船渡、釜石、大槌、山田、宮古……。レンタカーの走行距離が200キロに及ぶ日もあった。53の保育園や幼稚園などで1800人の子供たちが、津波に流された画用紙やクレヨンを再び手に取り、思い思いの絵を描いた。震災発生から半年後の9月に盛岡と大船渡で開いた作品展には子供だけでなく、多くの大人が訪れ、子どもたちの絵に心を癒され、励まされた。

 ところが……。

 「昨年の3月11日以降、つまり津波で娘を喪い、岩手と西宮を行ったり来たり、バタバタと忙しく過ごした1年が過ぎた頃から、娘を喪った哀しみやしんどさが重くのしかかるようになってきましてね。

 娘の1周忌が終わり、ボランティア活動も一段落して岩手に入る回数が減ると、被災地を遠く離れた『日常』に戻らねばならず、その頃から心が不安定になっていきました。

 震災から1年も経てば関西では、東北の地震や津波など、まるでなかったかのような雰囲気なんですよね。そんな周囲や職場の空気と、自分の抱えている気持ちのギャップがだんだん大きくなって、折り合いがつかない。自分の感情をしまい込んで、『普通』の生活をしているのが辛くなってきたんです」(藤田さん)

 結局、藤田さんは昨年5月末、自宅と同じ西宮市内にある勤め先を辞めた。

 ちなみに西宮では阪神・淡路大震災で、震災関連死なども含め1146人もの住民が亡くなり、61238世帯の家屋が全半壊するなど、神戸市に次ぐ被害を受けている。その、東北の被災地が抱く様々な「思い」を他の地域よりも共有できるであろう、阪神の被災地でも「津波など、まるでなかったかのような雰囲気」だというのだ。

 東日本大震災の県外避難者は、未だ「収束」などしていない東京電力福島第一原発の事故を抱える福島県だけでも6万人近くに及ぶ。そのなかには当然、震災遺族も含まれている。故郷を離れ、全国に散らばった震災遺族は今、どんな思いで暮らしているのだろうか。そして震災発生直後、盛大にバラ撒かれた「繋がろうニッポン」、「日本はひとつ」などというメッセージは一体、何だったのか……と改めて思う。

 昨年末、朋さんが勤務していた陸前高田市役所の庁舎が取り壊されるというニュースを知った藤田さん夫妻は再び、陸前高田を訪れ、市役所、そして娘が津波に浚われた市民会館に花を手向けてきたという。幾本もの「絆」と描かれた竹灯篭の中で揺れる炎を見ながら私は、藤田さんの胸中に思いを馳せた。

 「復興」の掛け声から取り残されていく震災遺族。それは阪神・淡路大震災でも同様だった。

 5時46分から始まった「追悼の集い」で、遺族代表として「言葉」を述べた藤本圭子さん(55)もその一人。神戸市東灘区の自宅で、長女の真奈さん(当時10)を亡くしたが、震災発生から18年間、娘の名前が刻まれたモニュメントのあるこの東遊園地にはどうしても、足を踏み入れることができなかった。6年前にも神戸市から遺族代表として式典への参列を打診されたが断った。しかし今回、娘の遺影に毎年、手を合わせにきてくれる同級生たちへ感謝の気持ちを伝えるため、初めて参列することにしたという。

 昨年末、前出の竹澤さん夫妻の紹介で会った、阪神・淡路大震災で我が子を失った母親はこんなことを教えてくれた。

 「阪神大震災でも(発生から)しばらく経って、新聞やテレビで『復興、復興』といわれましたけど、家族を失った時から、遺族には『復興』なんてないんです。18年経って、壊れた街並みは綺麗になりましたが、あの日のことを話せない人達は未だにたくさんいます。

 そのマスコミの報道も時間が経つにつれ『震災から3年』、『5年』と節目の時以外はめっきり少なくなっていって、『震災から10年』を機にほとんど見なくなりました。阪神・淡路大震災を今後、次の世代にどう伝え続けるか。それが東日本大震災を風化させないことにも繋がると思うんですが……」

 そんな彼女は今年の「1・17」の1週間前、ブログに自らの気持ちをこう綴った。

 〈今まで、新聞やテレビの取材を受けて思ったことがある。取材を受けることで、つらいことも話さなくてはいけなくなる。話したくないと思っても 取材を受けている以上話さなくてはと、ついつい頑張ってしまう。取材に来てくださった人はそれで記事を書いたり、番組を作って、お仕事終わり。

 でも、取材を受けた私。自分の意志ではなく、取材という形でこじ開けられた心の中の繊細な部分の扉は開いたまま……この開いた扉をどうやって閉めたらいいの?〉

 彼女の話に耳を傾け、ブログを読んで私は、ただただ頭を垂れるしかなかった。

 断っておくが、私も、1日も早い東北の被災地の復興を心から願う一人だ。また、その復興の過程を報じ、検証することはメディアの重要な仕事だと思っている。が、一方で、その「復興」から様々な形で置き去りにされていく人達がいることもまた、事実なのだ。

 阪神・淡路大震災で我々、メディアにかかわる者は果たして、何を学んだのか、そしてそれを今後どう東日本大震災の報道に生かしていくのか……。絶えず自分に問いながら「ふたつの震災」の取材を続けていこうと思う。

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