武田徹
2013年02月12日
この事件が大きな話題になったのは、近親者の生活保護不正受給発覚の時と同じく、芸能人の不正行為に対して非常に厳しく断罪しようとする世間の風潮もあったのだろうが、それだけでなく、多くの人の不安を喚起する事情もあったのだと思われる。そうした不安は、メディア情報における信頼性の脆弱性という問題にこの事件が触れていたからこそ増幅された面もあったのではないか。
●メディア情報と信頼の問題
メディア情報は、それについて既に知っている場合ならば真偽の判断がつくが、未知の情報に関しては判断する手掛りがない。それはメディア情報がまさにメディアによって媒介された情報であり、当事者が自分の眼で確かめたり、手で触れたりできる情情報とは異なるからだ。
では私たちは、どうやってそうしたメディア真偽に対して判断を下しているのか。かつて清水幾太郎は『流言蜚語』の中でメディア情報の真偽は知識にとって判断されているのではない、判断者は「知識の世界を出て信仰の世界に立つてゐるのだ。信仰と言って悪ければ信頼と言い換へてもよい」と書いている。
この古典的名著の指摘はインターネットの時代にも通用する。自分の生活世界から隔絶されているメディア情報を直接確かめられないにもかかわらず、真実だと判断するのは信頼があるからだ。ひとつにはメディアそのものへの信頼がある。正しい情報を提供してきた長い歴史がある伝統的なメディアが伝える情報だから信頼するということがある。また情報を提供する個人への信頼もある。著名な評論家だから正しいことを言うのだろう、という具合に。
こうした信頼の受け皿になるにはまず実名である必要がある。きちんとした名のあるメディアであり、怪文書の類ではないことが、メディアのブランドを確立する。実名で発言をしているからその評論家の過去からの業績が掌握できる。
逆に言うと匿名では信頼を得にくい。怪文書は当然だが、発言者がどのような人物なのかイメージができないと信頼を寄せることが難しい。情報それ自体が非常に重大であったり、刺激的な内容であっても「本当なのか」という懐疑がつきまとう。
こうした信頼の受け皿になるという事情を考えると、ただ実名で発言するだけでは不十分だ。その実名から発言者の人となりが分かるような知名度が必要だ。知名度のない人物の実名発言は名前を出しているのだから覚悟して発言しているのだろうと思いはするが、その名が本当のものだと確かめることもできないので、実は匿名と大差がない。
●秩序の社会性と繋がりの社会性
実名の判断はなぜ信頼されるのか。社会学者・北田暁大はニクラス・ルーマンの理論を踏まえて、コミュニケーションには2つの「社会性」が存在していると考える。意図が正しく伝わっていることを重視し、誤解の可能性をいかに低められるかで計られる「秩序の社会性」と、意図やメッセージが本当に伝わっているかどうかよりも、コミュニケーションが次々と繋がってゆくことをよしとする「繋がりの社会性」である。
有名な存在の場合、虚偽の情報を出すと非難され、社会的地位を低下させる。そうであるがゆえに「秩序の社会性」を求めるだろうと考える。逆に匿名での発言では嘘をついても本人に非難が及ぶことはない。そうであるがゆえに「秩序の社会性」への執着やその遵守義務意識は薄くなり、逆に「繋がりの社会性」が指向されやすくなる。匿名発言が基本のネット掲示板などはその典型であり、発言にレスがついて繋がってゆくことが至上価値となってに嘘だろうが、本心とは裏腹の発言だろうが平然となされる。
こうした信頼のメカニズムがあるからこそペニー・オークションのやらせ書き込みに宣伝効果が期待されるのだ。
ペニー・オークションでは開始価格が安価に設定され、1回の入札金額の単位も低額で固定されることが多いため、多数の入札があっても安価に落札することが可能だとされている。しかし実際には入札ごとに手数料が必要なため、競り合って何回も入札した場合などは落札額に手数料と送料を合計すると、決して安価で入手できたとは言い難い結果になる。中には自動的に入札を繰り返すコンピュータ・プログラムと競わせて手数料を稼ぐなど、悪徳なペニー・オークションサイトもあり、摘発されたケースもあった。
こうしたグレーな状況があり、本当に落札できるのか
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください