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追悼・大鵬に思う、テレビの今昔と違和感

倉沢鉄也

倉沢鉄也 日鉄住金総研研究主幹

 元横綱大鵬が、大相撲初場所中の1月19日、72歳で世を去り、生前の偉業をたたえて政府は通算21人目の国民栄誉賞を贈ることを、2月15日に決定し、25日に授与された。

 1950年代後半のテレビ黎明期を相撲界で支えた名人・栃錦と土俵の鬼・若乃花は、野球選手、プロレスラーと並ぶスポーツ界のヒーローだったが、やはり古臭い姿見の「おじさん(実際に、当時30代半ばの高齢力士)」だった。彼らと入れ替わるように現れた大鵬は、ウクライナ人の血を半分得た端正な顔立ちとすっきりした立ち姿を備えた「20歳すぎの現代青年」であり、最年少記録(当時)を塗り替えながら圧倒的な一強時代(柏戸は大鵬の人気に便乗できなければ横綱にすらなれなかった)をその後10年作り上げた不世出の大力士だった。同年代の王貞治氏、長嶋茂雄氏ととともに「アンチ」まで作る国民的ヒーローとして、高度経済成長の偶像であり、1960年代半ばまでの白黒テレビの主役だった。子供たちはみんな「巨人・大鵬・卵焼き」(当時通産省職員だった堺屋太一氏が広めた)が好きだった、あのころの日本は元気だった‥‥‥という文脈が、たまたま経済復興の気分だけ盛り上がっていてまだ何も始まっていない現在、50歳以上の人たちの回顧趣味として報道されていたことに、筆者は少々違和感をもっている。

 大鵬の全盛期は、引退直前の45連勝も含めて1961~1970年のちょうど10年間続き、ほとんど波もなく、圧倒的な強さを発揮した。しかし彼が現役でいる間に、民放テレビでも流されていた相撲中継は視聴率低下から打ち切られていったことを思い出せる50歳以上の方は少ないだろう。単に大鵬が強すぎてつまらなかったのなら、V9の巨人戦も視聴率が低迷するはずだがそうではなかった。実際には年を追うごとに少々低下したが、読売巨人軍であるがゆえにメディア露出の展開が上手だった。

 テレビ放送開始からほぼ10年がたち、現在の民放キー局が大筋出そろった1965年前後は、テレビにとって大きなターニングポイントだったと言える。単にカラーテレビ急成長の年というわけではなく、このころから急激に番組(いわゆる制作もの)の質が上がり、今見ても面白かったり見ごたえがあったり、になっている。それは録画映像を安価に使えるようになったという撮影機材の技術の向上が大きいが、番組制作のノウハウが10年たって結実してきたから、とも言える。この魅力の向上した感覚は、各局のアーカイブ映像を見ても理解が可能だ。

 テレビが、スポーツや報道の箱から制作番組の箱になり、そのことで娯楽産業として映画を完全に逆転する力を持つに至った時期であった。録画映像はレジャー・ライフ(ドライブ、ボーリング、テニス等)の魅力も映し出すことが可能になり、バリエーション豊富な、よく練られた娯楽の前に、大鵬率いる大相撲は静かに敗れていった、と言わざるを得ない。おそらく当時の子どもたちにとって、相撲が二度とかっこいいスポーツではなくなっていく瞬間が、その時代だったのだろう。だから、多くの50代の人たちの記憶では、大鵬は颯爽とした青年横綱のままで、当時の引退(1971年5月)もニュースで「大鵬のことを思い出した」のではないかと思われる。

 産業も生活も情報も、何もかも拡大していった時代であった。大鵬自身が渡米帰りに拳銃を密輸入して書類送検されたが不問に付されるおおらかな時代だった。ヒーロー大鵬を忘れた当時の子どもたちは、安保闘争の風を知らないまま、学生としてレジャーに憧れ、若い社会人としてバブルを謳歌し、新人類というありがたくない名前をもらって、いま50代になった。大鵬の訃報とともに往時を回顧し、その映像を構成する判断をする側にいるのがこの世代と思われる。そうした事情を分かった上での、「当時を自慰的に振りかえる、明らかに説明不足な映像」が、2013年における世代のコミュニケーションギャップの象徴であるように、思えてならない。「若い大鵬もいた時代」を振り返る一連の映像報道は、横綱大鵬も長嶋選手も記憶に持たない1969年生まれの筆者に、疎外感を起こさせるには十分だったのだ。当然、それ以下の世代にこの時代の魅力が伝わるはずがない。これは今まで訃報に関わる他のケース(例えば美空ひばり、渥美清など)では決して感じなかったことであった。この「伝えたいことを伝えられない、50代の映像」あたりに、今後の日本経済の先行きの不透明さを感じる、というのは、言い過ぎだろうか。

 メディア論とは切り離して、以下、偲ぶ文を記させていただきたい。

 努力家・納谷幸喜氏の真骨頂は引退後からだったと、筆者は偲びたい。若くして脳梗塞で倒れ、懸命のリハビリで左半身不随と戦いながら、親方として何人かの幕内力士も育て、協会理事を長年こなした。それだけでも大変なところを、献血血液の運搬車「大鵬号」の寄付の継続など幅広い慈善活動、見知らぬルーツの地・ウクライナ(父親はシベリアに抑留されていた)での相撲の普及、と幅広い活動を続けていた。そして人生最後に来ての不幸の連続(弟子・露鵬が麻薬で解雇、部屋の後継者・貴闘力が野球賭博解雇し実の娘とも離婚、そして出身部屋の消滅。死去の半月前には実兄が死去しており、体調不良で葬儀に参列できなかった)に耐え、車椅子姿で東日本大震災などの街頭募金活動にいそしんだ。彼は色紙に好んで「忍」とサインした。納谷氏と夫人の二人三脚による引退後の活動は、「巨人大鵬卵焼き」と匹敵する、偉大な足跡であった。

 大鵬という力士のスポーツ技術について、偲び方、少し解説しておきたい。彼は半分ヨーロッパ人であるがゆえに、足が長く、ディフェンス時の反り腰の力に弱さを抱えていた。これが、 ・・・続きを読む
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筆者

倉沢鉄也

倉沢鉄也(くらさわ・てつや) 日鉄住金総研研究主幹

1969年生まれ。東大法学部卒。(株)電通総研、(株)日本総合研究所を経て2014年4月より現職。専門はメディアビジネス、自動車交通のIT化。ライフスタイルの変化などが政策やビジネスに与える影響について幅広く調査研究、提言を行う。著書に『ITSビジネスの処方箋』『ITSビジネスの未来地図』など。

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