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浅田真央がトリプルアクセルに固執する理由――完成形としてのSP「ノクターン」

青嶋ひろの フリーライター

 浅田真央のスケートは、人の心を打つのだろうか?

 そんな論議を取材の場ですることが、時々ある。日本には高橋大輔、鈴木明子、さらには町田樹と、パフォーマンスで魅了できるスケーターがたくさんいる。浅田真央にももちろん独特のチャームがあり、多くの人が「真央ちゃん」の頑張る姿に心惹かれているだろう。

 しかしそれは国民的アイドルである彼女の存在感やキャラクターが引き起こすものであり、演技者としての彼女が、最上級なのかどうか、と。

 そんな議論のなかで出てきた「真央論」のひとつに、こんなものがあった。

 高橋や鈴木といった、どうしようもなく観客を引きつける力を持つスケーターは、表現技術の高さもさることながら、とても大きなメッセージを発しながら滑っているのではないか。

 それは「俺を愛して!」「私を見て!」という、観客や視聴者に向けた強いアピールだ。目立ちたがり屋であったり、寂しがり屋であったり、愛されたがりであったり、そんな人間くさい生の感情がほとばしる時、人は彼らのスケートを、愛さずにはいられなくなる。

 浅田真央には、決定的にそれが欠けているのではないか、という見方がある。彼女は滑りながら、他者に愛を乞わない。演技に関して、ほとんど人の評価を必要としない。そういえば彼女の母、匡子さんが存命中、取材陣にこんな話をしたことがあった。

 「真央にはね、お世辞は通用しないよ。あの子は誰に褒められても、そんなにうれしいとは思わないの」

 そして匡子さんは、さも面白そうに笑ってこう付け加えたのだ。

 「真央がほめてほしい相手はね、私だけなの」

 なるほど、と思う。姉・舞とふたりでスケート教室に通い始めた小さなころ、真央の口癖は「ママ、見て見て!」だった。ちょっとでも自分を見てほしい。ちょっとでも上手になったところを見せて、ママの視線を自分に向けたい。舞じゃなくて、真央だけを見てほしい……それが、浅田真央がスケートを上達しようとがんばった、大きなモチベーションのひとつだ。見てほしいのはたった一人、最愛のママだけ。

 だから彼女は、今でも他者に向けて「私を見て!」「私を愛して!」というメッセージを、スケートを通じて発することはない。それを物足りなく感じる人もいるだろう。また逆に、こちらに向けた愛情を感じられない孤高のアイドルの姿に、心惹かれる人も少なからずいるだろう。

 「それは見る人の、恋愛スタイルに通じるかもしれない」

 そんな意見もあった。多くの人は恋をするとき、相手からの愛情を感じ取り、好きだという気持ちをお互いに育て合っていく。双方のコミュニケーションの果てに恋愛が成就する、そんなパターン。しかし自分に見向きもしない相手を一方的に好きになり、ひたすら追いかける。そんな恋愛に喜びを求めるタイプもいるだろう。

 前者がフィギュアスケートを見たとき、惹かれるのは高橋大輔や鈴木明子の演技。彼らのパフォーマンスには、見る者との間にコミュニケーションがある。一方、恋愛タイプが後者の人は、浅田真央の外側に何かを放たないスケートに、強い魅力を感じるかもしれない。

――そんな浅田真央を巡る話を、デトロイトで、東京で、モスクワで交わしつつ、私たちは福岡で、グランプリファイナルを迎えた。

 競技初日のショートプログラム。浅田真央が見せてくれたのは、我々の与太話などどこかへ吹き飛ぶような、珠玉の「ノクターン」だった。

 すべてのカギを握っていたのは、冒頭のトリプルアクセル。3つしかないジャンプの失敗は許されないショートプログラム、一か八かの確率のジャンプは避ける――その定石で言えば、浅田はここでトリプルアクセルを跳ぶべきではない。しかしこの日の「ノクターン」には、是が非でも一発目のトリプルアクセルが必要だったのだ。 

GPファイナルのショートプログラムで=マリンメッセ福岡GPファイナルのショートプログラムで=マリンメッセ福岡
 テクニカルスペシャリストの判定は厳しく、厳密には回転不足ということで、認定はされなかった。

 しかし浅田自身も、見る者の多くも、今回は「行けた!」と思っただろう。足元を厳しく見れば回転不足、しかし流れが美しく、迫力があった。

 よく伊藤みどりのトリプルアクセルを知るものは、浅田のアクセルを「本物ではない」と否定する

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