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メリーポピンズを探すのは難しい

薄雲鈴代 ライター

 京都の古い町では、ご近所さんの町内会というネットワークが根強く、「ちょっと留守をするので子どもを預かって」という無理が利いた。「遠くの親戚より近くの他人」を日々、実感する町である。

 しかしこの場合の「他人」は、見知った顔の家族同然の他人である。この古き良き(ときに鬱陶しいほどの干渉が入る)人間関係も、マンションやテナントビルが町に蔓延り、途絶えがちになっている。隣近所の関係が希薄になった昨今、むかしのお母さんのように「ちょっと子どもを預ける」ことはできない。代金を払ってしかるべき機関に頼まなければならない。ベビーシッターという職業も必要になってくる。

 もとよりベビーシッターという職業は、イギリスの家庭で子どもたちを教育する乳母(ナニー)にみるとおり、歴史のある厳格なものである。映画『メリーポピンズ』に描かれているのがまさにそれで、髪をひっつめた厳めしい顔つきの女性が象徴的に描かれている。昨今アメリカの海外ドラマなどで見る、高校生がアルバイトで子守りをするのをベビーシッターだと安易に捉える向きがあるが、それはあまりに安直で危険だ。

 『メリーポピンズ』の冒頭では、いかに子どもを託せるベビーシッターを見つけることが大変か、滔々と謳われる。ベビーシッターを決めるには、頼む側に洞察力と思慮分別、そして人を見る目がなくてはいけないと明言している。それで家長のバンクス氏みずから、乳母の面接に当たるのである。ベビーシッターの文化が根付いていても、子どもを託せる適任者を探すのは難題であることがうかがえる。

 ところで私は、保育士を養成する専門学校で国語の教科を担当している。子どもたちが親もとを離れて初めて出会う大人が保育士であり、その重要性を痛感しているので、授業の中で必ず志賀直哉の『清兵衛と瓢箪』を取り上げる。清兵衛を取り巻く大人たちの残酷さ、罪深さを俎上に載せ、子どもの芽を摘むことの重大性を問うべきところが、昨今の学生の反応は「清兵衛がキモイ(気色が悪い)」という意外

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