ジャンプばかりでなく、「スポーツ」でない部分を!
2014年12月30日
「ルッツの入り方を変えた点、少し詳しく説明してください」
「ルッツ自体が崩れているのか、あるいはプログラムに入れることで崩れてしまうのか?」
「ルッツの影響を次のステップまで引きずりましたか?」
たったひとつのジャンプミスについての質問ばかりが、いくつもいくつも続くミックスゾーン(記者と選手の取材ゾーン)。
いったいこの人たちは、フィギュアスケートの何を見ているのだろう?
男子も女子もアイスダンスも、様々な波乱、混乱、興奮、歓喜がうずまいた全日本選手権。
初日の男子シングルショートプログラムにおいて印象的だったシーンのひとつが、羽生結弦演技後のミックスゾーンだった。
この日、羽生は4回転とトリプルアクセルはきれいに決めたものの、トリプルルッツからのコンビネーションジャンプをミス。最初のトリプルでバランスを崩し、セカンドジャンプがダブルに――実に4試合連続で同じジャンプをミスしてしまったのだ。
記事やリポートを書く者にとって、そこが大きな論点になることは、よくわかる。しかし、そこまでしつこく? と思うほど、彼に向けられる質問はルッツのミスに関することばかり。もちろん翌日の記事にも、たった一つのジャンプミスに言及した記事ばかりが並ぶ。
いくら目立ったミスだったとはいえ、何試合も同じミスが続いているとはいえ、〈トリプルルッツ‐トリプルトウループ〉は彼のショートプログラムを構成する要素のひとつに過ぎない。羽生結弦の「バラード第一番」を語る時、また彼のキャリアを後々振り返る時にも、ほんの些細なものでしかないだろう。
「でも、仕方ないんですよ。今日の演技では、ルッツのミスしか明確に説明できるところがないから」と記者たちは言う……。
ことは羽生結弦のルッツに限ったことではない。跳べなかったジャンプだったり、初めて跳べるようになったジャンプだったり、「そこしか明確な違いが見いだせない」と、エレメンツ、特にジャンプの成否ばかりでその日のプログラムの解説が終わってしまうことは多い。
「それはフィギュアスケートだって……スポーツですから」とある記者は言う。最もスポーツ的な部分に、やはりスポットは当てられるべきなのだ、と。
たとえば今回の、羽生結弦のショートプログラム。いちばん気になったのは、ルッツの失敗などではなく、グランプリファイナルではあんなにきらきらしていた「バラード第一番」が、その一切の輝きを失っていたことだった。
バルセロナで見た、あの清冽な作品が今から始まるんだ! そう思うとこちらの背筋も伸びるような、そんなショートプログラム。
それがこの全日本の舞台では、身体から芯が抜けてしまったように、彼の動きに力がない。あんなに漲(みなぎ)っていた緊張感も、感じられない。スピンの回転もジャンプの助走も遅く、「普通のショートプログラム」として滑りきるのがやっと……。
いったい、なぜこんなことになってしまったのか? なぜファイナルのあの演技が見せられなかったのか?
そこをこそ彼には聞きたかったし、聞かなければならないことではなかったか。
彼の演技直後、我々に与えられた時間はたったの5分、ごく限られた取材時間だ。大きな声で次々続く「ルッツのミス」への質問の嵐の中、何も聞きたいことが聞けなかったミックスゾーンで、ああ、以前もこんなことがあったな、と思い出した。
2010年、バンクーバー五輪前のある試合にて。
トリプルアクセルに苦しんでいた浅田真央に、
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