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バレリーナ谷桃子さんが日本のバレエに残したもの

初期の大スターとして活躍、そして日本らしい踊りで後進を育成

菘あつこ フリージャーナリスト

 日本のバレエの初期の大スターと言える谷桃子さんが4月26日、川崎市内の病院で敗血症のため死去した、94歳だった。私は谷桃子さんの踊りを生で観ることができる時代には残念ながら生まれていなかったが(1974年に「ジゼル」で引退、その頃私は幼稚園児、バレエを自分の意志で観に行ける環境ではなかった)、大人になってバレエ取材を重ねるようになり、谷さんの元で育った優秀なバレエ指導者、振付家、ダンサーに数多く出逢い、バレリーナとして素晴らしかっただけでなく、日本のバレエ界に大きな貢献をされた方なのだということをつくづく感じている。訃報に接して、あらためて、谷さんをよく知る方に話を聞き、また、手元の資料を見ながら振り返ってみた。

 谷桃子バレエ団発行の「谷桃子バレエ団の40年」には、谷さんの生い立ちからバレエ団を設立するまでのこと、そしてバレエ団の公演記録が丁寧に記されている。1921年1月11日、兵庫県姫路市で生まれ、7歳まで西宮市で育った谷さんは3歳の時、神戸の聚楽館でアンナ・パブロワの「瀕死の白鳥」を観ている。母・上田きよさんによると、その時彼女は白鳥の死に涙していたのだという。

 そんな繊細な感受性を生まれ持った人だったのだろう。谷桃子バレエ団の創立当初から関わり、共に全国を公演して回った松岡伶子さん(松岡さんも現在、指導者として世界中で活躍するバレエ・ダンサーを数多く育てている)によると谷さんは「心のある、大人の踊りをするダンサー」、感じて、表現できる人だった。「決して背が高いわけではないけれど、手脚が長いから大きく見える、優雅に見える」。もの静かで穏やかな人柄だったようだが、一面、「踊りで納得いかないところがあると夜中でもスタジオで踊って近所から苦情が来たり……」。そんな芯の強さもあった。他のダンサーに聞いても、後年に演出・振付として関わる中、譲れないところは強く主張する方だったことがうかがえる。だが、だからこそ、質の高い芸術を創り上げることができたのだろう。

 ここで、264ページに及ぶ「谷桃子バレエ団の40年」を観ていて、ある意味、谷桃子さんの全盛期の方が今よりも充実していたのではないかと、ふと、感じてしまう。1949年に谷桃子バレエ団を立ち上げてから、全国津々浦々を公演して回っている。東京や大阪と言った都会だけではなく、全都道府県に及び、ある時には、まだアメリカの占領下だった沖縄までも。劇場がなくても映画館のようなところなど、決してバレエに

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