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頑なに時代と闘ったラストサムライ・北の湖

天性の素質いかした横綱時代は最強の敵役、理事長としては守旧志向だが相撲ブーム作る

倉沢鉄也 日鉄総研研究主幹

初場所千秋楽で土俵入りする北の湖=1978年1月初場所千秋楽で土俵入りする北の湖=1978年1月
 13歳での入門以来、49年間をたった一つの名跡で大相撲界を走り抜けた、元横綱の北の湖親方が、日本相撲協会の現職理事長のまま急逝して1カ月がたった。12月22日には協会葬が行われ、24日から両国国技館内の相撲博物館で特集展示が催されている(2月19日まで)。すでにさまざまな追悼と歴史の振り返りが多くのメディアで記されている中、少々異なる切り口から「北の湖と時代との相克」を論じてみる。

 北の湖は現役力士生活約18年のうち、昭和50年代の10年を、20歳代の横綱として過ごした。その10年間の日本は、高度経済成長もオイルショックもあさま山荘事件も田中角栄内閣も終わった1975(昭和50)年からはじまり、多様かつ洗練された娯楽系のライフスタイルの萌芽と、職業観を中心とした「国民的○○」の古臭い価値意識とが混在し、その次の10年で前者が後者を圧倒していくであろう雰囲気の中、自動車と電機を中心に輸出経済が成長をつづけ、1985(昭和60)年のプラザ合意後のバブル経済スタートに至る、という時代の風景であった。昭和50年代の時代の総括はあまり世に多くないが、その10年間を小・中学生として過ごした筆者の、当時も現在も変わらない印象である。

 北の湖は、最も古臭い職業の頂点に立って伝統文化を体現する立場に、20代そこそこの年齢で登りつめてしまった。下半身の低さ、スピード重視の圧倒的な攻撃力、上半身の怪力と器用さ、自分の全取組を記憶している明晰な頭脳、といった天性の相撲の素質を最大限鍛えぬいて相撲だけに打ち込み、師匠の教えを忠実に守り、その古臭い職業観を全うすることに愚直に取り組んだ10年間だった。「人気なんか関係ない」と公言し、人気No.1・悲劇のヒーロー貴ノ花、派手な生活が世に知られていた輪島、甘いマスクと華麗な取り口でテレビ出演も多かった若乃花(若三杉)、といった人気力士を向こうに回し、「憎らしいほど強い」と形容された。他の3横綱(輪島、若乃花、三重ノ海)とともにまる3年半21場所にわたり大関以下の優勝を許さなかったことは、彼が後年掲げた「土俵の充実」を物語る史上1位の記録であり、その21場所中12回優勝した第一人者であった。

 横綱在位63場所、横綱皆勤連続43場所、優勝24回(全勝7回)、5連覇、年間82勝、などの土俵上の大記録とともに、北の湖を象徴するメディアの大記録がある。それは、もはや「国民的人気スポーツ」と呼びうる最後の灯の状態であった大相撲テレビ中継において、歴代1~3位の視聴率(いずれも40%以上。1位は瞬間最高視聴率で65.3%)を記録した日はすべて、その場所の優勝力士(貴ノ花、千代の富士、2代目若乃花)が、その場所最後の一番で、北の湖を破った日だった、という事実である。敗れることでヒーローを生み出し、優勝への最後の難関となることで大相撲の人気を支えていた、昭和50年代最強の敵役であった。

 一方で、北の湖という力士は、思考の硬直した失敗の繰り返しを見る場面がいくつかあった。大関になる前の朝汐(のち朝潮)に策なく繰り返し敗れていた

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