やり場のない子供の怒り、もはや危機的な状況
2016年03月02日
親や世の中を恨まずにいられた自分は幸運だった。「子供の貧困」をテーマにした記事やニュースを目にするたびに痛感する。1日に1食、身に着ける下着もない、病院にも行けない、教育を受ける機会さえ奪われる・・・・・・。「親を選べない」子供がこう思わざるを得ない状況に追い込まれるのはとても悲しいことである。
まだ母が元気だった頃から、私の父は仕事から帰ると焼酎のお湯割りを飲むのが習慣だった。どんなに身を粉にして働いても上手くいかない人生で深く悩むこともあったのだと思う。普段から言葉数も少ない父は、お酒の力を借りて鬱積した不満を家族にぶつけることが度々あった。
しかも翌日には本人はそのことを覚えていない。まだ私が中学生だったころ、今思い出しても他愛もない理由で、突然父は人が変わったように暴れだし、卓袱台の上にあるものを手当たり次第に私達めがけて投げつけてきた。身の危険を感じた私は弟を連れて家から逃げ出した、そんなこともあった。「お父さんさえいなければ」と殺意に近い感情を抱いたこともある。
豊かさの中の貧困や目に見えない貧困と表現されているが、「貧困」は時代と共に姿を変えていく。物質的、経済的な困窮だけが貧困ではない。日本が直面している貧困は「相対的貧困」と言われているものだ。普通とされる生活が送れない状況であり、人間らしく生きる力や機会を奪われた状況である。無償の愛で包んでくれるはずの親からネグレクトされ、最も安全で安心できるはずの家庭に居場所がない。貧しさを口にすることができず身近な大人である学校の先生や近所の人にも助けを求めることができない。親や大人を恨み、手を差し伸べてくれない社会に絶望し、最終的には生まれてきた自分を否定する。子供達のやり場のない怒りは何処へ向かうのか。
医療と介護の現場を長く取材して目の当たりにするのは「当事者にしかその大変さや辛さは分からない」という現実である。ただし
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