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[3]統計上実証されていない死刑の犯罪抑止効果

現代国家では「むき出しの報復や復讐は刑罰の目的ではない」

瀬木比呂志 明治大法科大学院教授

  以下、私自身が「死刑はできればなるべく早期に廃止することが望ましい」と考える理由、より穏やかにいえば、「死刑に疑問を感じる理由」を、順に述べてゆきたい。

「死刑廃止」のプラカードを手に傍聴券を求め順番を待つ人たち。最高裁は連続射殺事件の永山則夫被告の上告を棄却し死刑が確定した=1990年4月17日、東京都千代田区隼町の最高裁前拡大「死刑廃止」のプラカードを手に傍聴券を求め順番を待つ人たち。最高裁は連続射殺事件の永山則夫被告の上告を棄却し死刑が確定した=1990年4月17日、東京都千代田区隼町の最高裁前
  第一に、法哲学的な疑問が立てられる。

  それは、「国家は、犯罪者の生命を奪う権限を認められているのか?」、言い換えれば、「国家は人を殺しうるのか?」という疑問である。

  かつての世界では、殺人については私的な仇討ちも正当とされていた。日本にもそういう時代があった。
しかし、近代国家においては、私的な仇討ちは禁止され、殺人についても、刑罰権は国家に集約された。また、一般的な刑罰の根拠についても、応報刑論、ついで目的刑論ないし教育刑論が唱えられ、徐々に、「むき出しの報復や復讐は刑罰の目的ではない」と考えられるようになっていった。

  簡単に説明を加えておくと、応報刑論とは、「刑罰は、犯罪に対する(適切な)公的応報である」というもの、目的刑論とは、「刑罰は、犯罪の防止を目的とする」というものだ。目的刑論には一般予防論と特別予防論がある。一般予防論は、「刑罰の威嚇効果により一般人が犯罪におちいることを防止する」というもの、特別予防論は、「刑罰により犯罪者が再び犯罪におちいることを防止する」というものだ。教育刑論は目的刑論の一種であり、犯罪者の教育に重点を置く。

  実際には、刑罰の根拠はこれらのうちのどれか一つに割り切れるようなものではなく、それらの複合であるというべきだろう。実務家としての経験からいえば、応報と一般予防が主な根拠ではないかという気がするが、少年院の場合には、ある程度の特別予防的・教育的効果も期待できるかもしれない。大人の犯罪者については、刑務所で改善される可能性はあまり高くない。

  いずれにせよ、重要なのは、「近代・現代国家においては、少なくとも現代国家においては、むき出しの報復や復讐は刑罰の目的ではない」ということだ。これは民事裁判でも同じことで、「法廷は、被害回復のための場所ではあっても、復讐のための場所ではない」といわれる。

  そうすると、次に、「死刑は応報としてはたして適切なものなのか?」ということが問題となる。

  死刑を合憲であるとした1948年(昭和23年)3月12日最高裁大法廷判決(塚崎直義裁判長)は、以下のように述べる。

  「〔・・・・〕言葉をかえれば、死刑の威嚇力によつて一般予防をなし、死刑の執行によつて特殊な社会悪の根元を絶ち、これをもって社会を防衛せんとしたものであり、また個体に対する人道観の上に全体に対する人道観を優位せしめ、結局社会公共の福祉のために死刑制度の存続の必要性を承認したものと解せられるのである」

 「一人の生命は、全地球よりも重い」と大見得を切って始まりながら、結局は、公共の福祉等の内容に乏しい概念を持ち出して死刑を肯定するに終わるこの判決は、法的な文章としてみてもスタイルを欠いているのみならず、あまり論理的な文章とはいえず、内容にも乏しく、はっきりいえば、調査官裁判(調査官の報告書意見をそのまま鵜呑みにする最高裁判決。多数意見の下書きも調査官が書くことが多い。『ニッポンの裁判』162頁、236頁)が定着する前の最高裁判決、最高裁判事たちがみずから書いていた最高裁判決のレヴェルはこの程度のものだったのかとがっかりさせられるような、陳腐な文章だ。

  要点である前記の部分については、 ・・・続きを読む
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筆者

瀬木比呂志

瀬木比呂志(せぎ・ひろし) 明治大法科大学院教授

1954年名古屋市生まれ。東京大学法学部在学中に司法試験に合格。裁判官として東京地裁、最高裁などに勤務、アメリカ留学。並行して研究、執筆や学会報告を行う。2012年から現職。専攻は民事訴訟法。著書に『絶望の裁判所』『リベラルアーツの学び方』『民事訴訟の本質と諸相』など多数。15年、著書『ニッポンの裁判』で第2回城山三郎賞を受賞。

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