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[4]市民とメディアは裁判の行方に一層の注目を

福島第一原発事故のあと下がり続ける日本の報道自由度ランキング

瀬木比呂志

大飯原発運転差し止めの判決を言い渡した樋口英明裁判長=2014年5月21日、福井地裁、代表撮影拡大大飯原発運転差し止めの判決を言い渡した樋口英明裁判長=2014年5月21日、福井地裁、代表撮影
  最後に、(3)の①ないし③の裁判に対する各種の批判について簡単にコメントしておきたい。

  まず、「国のエネルギー政策に司法が口をはさむべきではない」というものだが、これは、権力による行為の適切さをチェックすべき機関という裁判所の本質を全く理解しないものである。

  また、「わずか3人の裁判官が政治や行政の大きな方針をくつがえしてよいのか」という意見もよく出てくるが、本来、司法による権力のチェックというのは、そういうものである。権力の内部では、厳しく自己を見詰める眼は不足しがちであり、現在の日本では、それがほとんど失われてしまったのではないかと感じられる。

 たとえば、自民党についても、その中にかつては確固たる伝統として存在した批判勢力、また、一定の謙抑性の理念が、ほとんど跡を絶ってしまったようにみえる。こうした状況では、ことに、裁判官には、独立し、まさに、法の精神と正義の要請と自己の良心にのみ従う第三者の眼をもって、また、国民、市民の代理人として、冷徹に権力の監視を行う姿勢が求められる。このことは、「ニッポン」に記したとおり(152頁)だが、重要なことなので、再度繰り返しておきたい。

  「専門家でない裁判官に原発のことがわかるのか」という意見もある。しかし、そんなことをいえば、およそ専門的事項に関わる裁判などできなくなってしまう。私の経験からしても、少なくとも能力のある裁判官は、きちんとした説明さえ受ければ専門的な事柄でも正確に理解できるし、それについて適切な判断を行うこともできる。

 英米法系の国々では民事でも陪審制度の利用はありえ、そこではごく普通の人々が専門的な事項についても判断を行いうることをも考えてみるべきであろう。日本にも裁判員制度があるが、それが行われているような刑事の重大事件にも、理解することが非常に難しいものはままある。

  関連して、「樋口裁判官の判決および仮処分について理論面の問題を指摘する」意見もある。樋口判決の理論の運び、ことに被告側の主張に対する対応にやや性急な部分があることは、私自身、「ニッポン」で指摘した(150頁以下)。しかし、論理の大筋は通っており、そのことは後の仮処分でも変わらない(むしろ、前記のとおり、②仮処分は、①判決の考え方を整理してより明確化したものといえる)。

 この仮処分には確かに誤記が一つあるが、そのほかの点に関する原子力規制委員会委員長等の批判(それらの批判は内容の検証を経ないまま広く報道された)については、原告側弁護士から反論が行われており、その内容はおおむねうなずけるものである(河合弘之『原発訴訟が社会を変える』〔集英社新書〕29頁以下)。

  また、「日米原子力協定等のアメリカとの取決めの重要性」をいうものもあるが、日米原子力協定が日本に現時点における原発の再稼働を強いる内容のものとは思えないし、そもそも、協定を始めとする法的な約束事については、その基盤となる事情が変化すればその拘束力にも変化が生じるのは当然のことである。

 そして、福島第一原発事故のような深刻な過酷事故は、そのような事情変化の典型的なものであろう。もっとも、原発再稼働に向けた動きの裏に、日米の政治経済エスタブリッシュメントの暗い関係がありうることは、おそらく事実であろう。しかし、それは、当然のことながら、原発を再稼働する正当な理由になりうるようなことではない。

  ほかに、「原発から離れた地域の住民に原告適格を認めるのはおかしい」とか、「原告側弁護士は勝たせてくれそうな裁判官をねらい打ちする形で仮処分の申立てを行っているのではないか」とかいった言葉も出ているようだが、前者については、原発事故の被害が広範なものになりうる以上当然のことだし、後者については、憶測としかいいようがない。

  かつては、「原発が止まると必要な電気が供給できなくなる」ということがよくいわれていたが、そんなことは全くないことはすでに明らかになっている。また、「原発を稼働しないことによって日本経済が破綻する」などというのもおよそ根拠のない暴論なので、最近はさすがに聞かなくなった。

 もっとも、後者については、経済成長に一定の影響がありうることはあるいは事実であるかもしれない。しかし、先に述べたようなリスクの大きさを考えるならば、安全性に問題がないかの検証をまずきっちり行うことのほうがそれよりもはるかに重要なことは、間違いがないだろう。正確な事故原因すら確定できていないのに、なぜ性急な再稼働を行う必要性があるのか、そのことが問われているのである。

  それらに代わって登場してきたのが、①ないし③のような裁判の足下を何とかしてすくってやろうという底意の感じられる前記のような言説なのである。

 なお、基本的には減原発の方向を目指すべきという有識者の意見の中にも、たとえば、「裁判所が、原子力規制委員会の許可を受けた発電所について安全性に問題があるとして差止めを行うのはいささか行き過ぎで司法の枠を踏み越えている感がある。裁判所にそのような適切な科学的、技術的判断が可能であるとは考えにくい」などといった内容のものをみかけることがあるが、第三者としての冷徹な目で権力のあり方を厳しく監視するという司法の役割に対する認識を欠いた意見というほかない。

 一見中立性、客観性を装ったこうした意見の本質が前記のような言説と何ら変わらないことにも注意すべきであろう。原発に関することに限らず、 ・・・続きを読む
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筆者

瀬木比呂志

瀬木比呂志(せぎ・ひろし) 明治大法科大学院教授

1954年名古屋市生まれ。東京大学法学部在学中に司法試験に合格。裁判官として東京地裁、最高裁などに勤務、アメリカ留学。並行して研究、執筆や学会報告を行う。2012年から現職。専攻は民事訴訟法。著書に『絶望の裁判所』『リベラルアーツの学び方』『民事訴訟の本質と諸相』など多数。15年、著書『ニッポンの裁判』で第2回城山三郎賞を受賞。

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