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報道機関は、停波発言を凌駕する国民の信任を得よ

高市総務相発言をめぐる議論や反対表明で欠落していたもの

倉沢鉄也 日鉄総研研究主幹

放送法関連の質疑があった衆院予算委員会に出席した高市早苗総務相(左)=2016年2月15日放送法関連の質疑があった衆院予算委員会に出席した高市早苗総務相(左)=2016年2月15日
 さる2月に取り上げられた高市総務大臣の発言に端を発する「放送停波狂騒曲」は、アベノミクスの総合評価となるであろう参院選での重要論点になることは考えにくく、大筋総括のタイミングとしてよいだろう。直近では電波の日(6月1日)にも取り上げられ、高市氏は政府公式発言を繰り返し、新聞やテレビが拒否反応の報道を繰り返した。

  賛否の議論は、報道機関からブログまで少々ネット検索するだけでも2~3月に尽くされている感があり、双方良し悪し対比について本稿では省略する。あらゆる議論に欠落しているのは、ジャーナリズムを担う報道機関が誰のコストと誰の信任によって成り立っているのか、という点にある。これを少々論じる。

  安全保障関連法案のような情報発信の行動に出る国民が、この停波問題についてここまでまったくない現状からは、反対表明を真っ先に行った著名ジャーナリストや新聞社論説陣たちの「独り相撲」になったと総括するしかない。彼らの言い分が正しいか否かはもはや問題ではなく、ジャーナリストが国民に考える材料を提供できなかったこと、すなわち報道機関を代表してものを言った人たちが自らの機能不全を明らかにしてしまったことは、大変残念である。

  筆者はWEBRONZAにおいて、メディアビジネスの行き着く先に報道という社会的に不可欠なコストを誰が担うのかの課題があり、それが悲観的な状態にあること、その状態を国民が自覚し産業界の自覚を促すことが日本国百年の課題であること、を繰り返し述べてきた(「『報道編集』の重要性を国民に訴える活動が先だ」=2015年12月24日など)。

 問題解決のエンジンとなるのは、政治家のように選挙で選ばれていない報道機関の担当者が国民の信任を得て権力構造(三権=立法行政司法、それ以外の産業界や学界など)を監視すること、いわば「第四の権力」の裏付けの確かさ、と考える。それは日本国憲法や各法律の解釈で盲目的に保障されるものではない。

 報道する者が自らの知見と教養を鍛え、新聞社やテレビ局が経営上必要とするメディアビジネスとは一線を画したヘルシーなビジネス環境(拙稿「報道事業の『収益のヘルシーさ』が本質」(=2010年10月4日より)に身を置き、政治家以上に「清さ」と中立性を自負して、自分たちが「選挙がなくても国民からおのずと選ばれるに値する人物・組織」であることを証明しなければならないのではないか。前述の著名ジャーナリストたちも、報道機関の論説陣も、十分に証明・説明し国民の信任を得ているとは言い難い。

  「第四の権力」はそれ以外の権力を監視する役目にあるが、イコール権力を批判するだけの役目ではない。権力がないがしろにした弱者を救済すべしという視点は報道機関本来の役割だが、弱者救済の「コンテンツ」がメディアビジネスの為替レートとも言うべき視聴率や部数に貢献する目的を持っていることも否定しがたい実態である。権力側の活動に含まれる正当性の説明を報道機関がすることは、決して権力に迎合していることではなく、報道機関の持つ十分

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