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女性初の金字塔、伊調馨が探究し続けたレスリング

カール・ルイス、フェルプスらと並ぶ個人種目5人目の五輪4連覇を達成できた理由

増島みどり スポーツライター

リオデジャネイロ五輪レスリング女子58キロ級決勝でコブロワゾボロワを攻める伊調馨(右)=2016年8月17日、カリオカアリーナ拡大リオデジャネイロ五輪レスリング女子58キロ級決勝でコブロワゾボロワを攻める伊調馨(右)=2016年8月17日、カリオカアリーナ
  決勝の相手、コブロワゾロボワ(ロシア)は恐らく金メダルを確信したのだろう。伊調馨(32=ALSOK)の4連覇を阻止する歴史に名前を刻むのにあと数十秒で、さらにタックルを仕掛けに出た。最後まで守りに入らず、積極的に女王を倒しに仕掛ける。勝利のセオリー。しかし、その勝ち気こそ、レスリングを知り尽くした百戦錬磨の伊調にとって最後の最後にかけるビッグチャンスになった。

 「このタックルを返せば勝てる」

 伊調は確信した。

 そこから世界でも玄人好みで知られる彼女の技の全てが凝縮したような逆襲が始まる。手で相手の力を消しながら自分の態勢を徐々に変える。残り3秒、伊調は激しい技と力の攻防を制してついにうしろに回った。その瞬間試合終了。伊調はぼう然とし、ウインングポーズも忘れてひざに手を置いたまま動けなかった。今年6月、痛む肩の精密検査を受けるために極秘入院もしていた。試合中に痛みを感じたくない、と試合前には注射を打つ。

  自宅にレスリング道場を構えていた父の手ほどきでレスリングを始め、地元で力をつけた、いわば「レスリング・エリート」の吉田沙保里(33=フリー)に対し、青森・八戸で姉千春とレスリング教室に通い、そこから吉田たちも所属した中京女子付属高校(現在至学館高校)に1人留学したキャリアの伊調はある意味全く違ったレスリング道を歩んできた。

  伊調はまるでレスリングを究めようとする探究者のようだ。08年の北京五輪後、一緒に世界で戦ってきた千春が引退すると1年ほどの長期休養を取ってカナダへ単身留学した。ここでも3連覇を、と口にし続けていた吉田とは対照的なアプローチを取った。そこで出会った元重量級の選手、ノードへ―ゲンさんに「何のためにレスリングをするのか」を教えられた、と話す。

  「勝つためのレスリングに執着し過ぎていた自分に気付かせてもらいました。レスリングをどこまで楽しんでいるかを考えるようになったと思います」

  帰国後は警視庁を拠点に換え、男子との練習を日常化した。男子の技を体得しながら、スタミナもパワーももちろんつける。付いて行けなかった練習を同じようにこなす。楽しむ、とはもちろん厳しさ、苦しさと一体だ。

  追い込まれて、追い込まれて、最後に繰り出した逆転の技に、彼女が研究者のように取り組んできたレスリングの全てが込められていたのだろう。

きつい訛りとホームシックに泣き続けた日々から始まった長い挑戦

  女子レスリングの歴史はまだ新しい。04年、アテネ五輪から始まり当時はまだ4階級での実施だった。五輪実施が決定した頃、聞いた話は忘れられない。まだ実施が決定していない競技にもかかわらず、五輪を目指して八戸から上京した当時の話だ。毎晩、寂しくて辛くて涙で枕を濡らしていた、と言った。

  「(青森の)なまりが強くて、必ず、え?と聞き返される。それが恥ずかしくて人前で話せなかったんです。レスリングも上達しないし・・ひどいホームシックでした」

  そこで優しく見守ってくれたのは母だった、と美談になるところだが、母・トシさんはそうではなかった。 ・・・続きを読む
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筆者

増島みどり

増島みどり(ますじま・みどり) スポーツライター

スポーツライター。1961年生まれ。学習院大卒。84年、日刊スポーツ新聞に入社、アマチュアスポーツ、プロ野球・巨人、サッカーなどを担当し、97年からフリー。88年のソウルを皮切りに夏季、冬季の五輪やサッカーW杯、各競技の世界選手権を現地で取材。98年W杯フランス大会に出場した代表選手のインタビューをまとめた『6月の軌跡』(ミズノスポーツライター賞)、中田英寿のドキュメント『In his Times』、近著の『ゆだねて束ねる――ザッケローニの仕事』など著書多数。

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