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生活保護から考える「貧」と「困」を伝える難しさ

NHKの「貧困女子高生」報道に寄せて

みわよしこ フリーランスライター

 8月18日のNHK「ニュース7」で、自らの貧困を訴える高校生女子の暮らしぶりが紹介された。画面には、イラスト用ペンセットが映り込んでおり、ネットでは参考価格約2万円とする買い物サイトの画像が掲載された。まもなく本人のツイッターアカウントが特定され、友人と時に千円ランチを楽しんでいること・約1万円のコンサートチケットを購入していたことなどから、「本当は貧困ではないのでは?」という疑念がネットに広がった。参議院議員・片山さつき氏も、ツイッターで「高校生の消費ぶりには節約の余地があるはず」という内容の発言をした。高校生は、ネットに実名・住まい・学校生活などを“晒され”、多数の非難・冷笑・嘲笑を浴びせられる憂き目を見た。

 貧困の中で、人間はどのように自分と家族の生活の形を作っていくのだろうか? 高校生の家庭は生活保護世帯ではないが、生活保護世帯を手がかりに、貧困と生活の関係を浮かび上がらせてみたい。

各家庭・各人のニーズが、生活のバリエーションを生む

「かながわ子どもの貧困対策会議」のメンバーたち
 社会保障、特に生活保護について取材と記事化を続けている私は、しばしば、生活保護世帯のお住まいを訪問し、暮らしぶりを直接見ながら、親、時には高校生以上の子どもに、お話を聞かせていただく。生活保護基準は、「健康で文化的な最低限度の生活」=「ふつうの生活」の最低ライン、つまり相対的貧困ラインを定める「貧困線」と同等か少し上、言い換えれば「貧困ではない」と「相対的貧困」の境界線そのものか少し上にあるべきものである。しかし現在は実態として、「絶対的貧困よりは上だが相対的貧困」という生活しか保障できなくなっている。

 ともあれ、生活保護で暮らすお宅で目にする風景は、さまざまだ。まず、住まいはアパート? マンション? 公営住宅? 一軒家? 持ち家? 賃貸? 広さは? 間取りは?

 たとえば、東京都立川市で賃貸住宅に住んでいるシングルマザーと子ども2人の3人世帯ならば、生活保護で認められる家賃の上限額は69,800円だ。この上限額は、世帯人員数と地域によって決められているのだが、それでも実際には、住まいそのものに幅広いバリエーションがある。家族によって、時期によって、住まいに対するニーズが全く異なってくるからだ。たとえば「母25歳(就労)・長女3歳(保育園児)・長男1歳(保育園児)」と「母40歳(障害のため就労不可能)・長男17歳(高校生)・長女13歳(中学生)」では、一家が住まいに求める利便性・広さ・間取り、さらに近隣に必要な公共施設や生活施設が、かなり異なってくる。「家賃は69,800円以下」という条件の中で、一家がどうしても必要とする条件は死守し、しかし多くの希望を断念し……という選択の結果、住まいそのものにバリエーションが生まれる。これは当然のことではないだろうか?

貧者の社会生活は「見栄」なのか?

 家賃の上限額という制約の中で、各家庭の生活の「容器」である住まいのバリエーションをもたらしているのは、各家庭それぞれのニーズだ。では、持ち物や暮らしぶりに見られる、ちょっとした「ゼイタク」を、どう見ればよいのだろうか? 引き続き、生活保護世帯を例に考えてみたい。

 2013年8月以来、生活保護の生活費(生活扶助)・家賃補助(住宅扶助)・暖房費補助(冬季加算)が次々と削減され、その他多数の目立ちにくい削減が行われる中で、生活保護世帯が使える生活費は確実に減少してきた。もともと余裕のない暮らしを、さらに切り詰めるとき、何を切り詰め何を残すのか。その選択に、その家庭そのもの・その人そのものが現れる。

 最後まで残される可能性が高いのは、多くの場合、「社会の中で生きている自分」を実感する“よすが“となる何かである。友人の多い80代男性にとっては、自分の葬式のための貯蓄かもしれない。孤立した70代女性にとっては、自分の墓石かもしれない。病気で思うように動けない50代男性にとっては、スマートフォンと通信費かもしれない。小学生の子どもを抱えた親にとっては、学校でクラスメートが外食を話題にしたときに我が子が話せる外食経験かもしれない。冒頭の高校生にとっては、友人たちとの時折のランチだったかもしれない。

 外に出て人に会う時に、本人が「恥ずかしくない」と思える衣服も、社会との”よすが“の一つだ。それは、10年前に買った洗いざらしのポロシャツでよいのか? それとも、せめて1年前に新品で買ったフェミニンなブラウスでなくてはならないのか? どの程度の化粧品で肌の手入れをしていれば、自信を持って他人の前に出られるのか? 本人にしか判断できないことである。

 これらは「見栄」なのだろうか? それとも「必要」なのだろうか? はっきりしているのは、その人の「見栄」と「必要」を区切るラインを他人が引くことは不可能だ、ということだ。

貧者の「一点豪華主義」は非難されるべきゼイタクなのか?

 次に残される可能性が高いのは、「自分が自分であること」を実感できる何かである。一言で言えば「生きがい」。誰かにとっては趣味のプラモデルであり、誰かにとっては大好きなアイドルタレントのグッズ。冒頭の高校生にとっては、演劇などのチケットだったのかもしれない。

 これらはもちろん、生物として生き続け、肉体的な「まだ死んでいない」を持続するために必要な物品ではない。だから「貧困といいながら、なんというゼイタクを」という反論が簡単に成り立つ。正論を言うならば、人間の生活の土台である生物としての生存を充実させ、心身の健康状態をなるべく向上させ、生活を安全にし、ついで社会的生活を充実させ、就労し、その次に「生きがい」もある生活へと向かうべきなのかもしれない。

 しかし生活保護基準が削減されていったとき、私が見たのは「社会の中で生きている自分」を確認するための“よすが”を必死で守りつつ、1カ月のうち数日・数カ月に1回だけでも「自分が自分であること」を実感しようとする生活保護受給者たちの姿だった。彼ら彼女らが守ろうとしているのは、“ヒト“という生物の一個体としての自分ではなく、人間社会で生きている人間の一人しての自分である。さらに、時折・つかの間でも「生きがい」に没頭する時間は、他の誰でもない自分の一度きりの人生の輝きを、本人が自分で確信するためになくてはならないものなのである。何が「生きがい」となり、何が人生の輝きとなりうるのか? それは、本人にしか分からない。

 現在、多くの生活保護世帯で起こり続けているのは、「人間でありつづけるための努力が、生物の“ヒト”を侵食する」という事態だ。一見小ぎれいな服装をしていても、下着や靴下はボロボロで靴底に穴が開いている彼や、社会とのつながりと「生きがい」の費用を確保するために極度に貧困な食生活を送っている彼女を、「限られたお金の中での優先順位づけが間違っている」と非難するのはたやすい。しかし、生物の“ヒト”であることと社会的「人間」であることの両方を満たすことが不可能になっていくとき、人間は“ヒト”を少しずつ犠牲にすることを選ぶようだ。なぜならば、人間だから……生活保護世帯で実際に起こっている暮らしの変化を見る限り、「人間だから、人間であることを“ヒト”であることより優先する」としか言いようがない。

貧困世帯の子どもは、未来をイメージしてはならないのか?

 中流以上の家庭に育ち、特に苦労することもなく大学・短大・専門学校などに進み、職業人となり、職業経験を積み重ね、あるいは家庭を持った方々に、自問していただきたいことがある。自分の将来の職業をイメージし始めたのは、何歳の時だっただろうか? 将来の職業をイメージし、往年の8ビット・16ビットパソコンのような高価な“オモチャ”を親に買ってもらったことはないだろうか? 職業選択のために必要な進学を意識し始めたのは、何歳の時だっただろうか? 志望校に合格する自分をイメージするために、あるいは自分を鼓舞するために、自分にとってはやや難しすぎる参考書や問題集を購入し、結局、ほとんど開かないままになったことはなかっただろうか?

 夢を持つことは、将来を切り開くために大切な一歩だ。たとえ、「公務員になって安定した職業生活を送りたい」という夢であっても、そうなった自分をイメージすることは、現在の自分を前進させる大きな力になる。夢が叶う気・夢を叶えた気になるためのパソコンや参考書などの買い物は、

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