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広島カープの元4番打者・山本一義さんの逸話

しつこいほどに野球好きの姿勢が1975年のカープ初優勝を導く

薄雲鈴代 ライター

 あぁ、これが広島カープのスピリットなのだと思った。

 広島カープの25年ぶりリーグ優勝を病床で見届け、その一週間後に人生を旅立った山本一義氏。祝賀ムードに広島が沸いている最中、それに水をさすことのないようにと、最期を迎えるに際し自身で配慮し、訃報は公表されずにいた。

振り切ったあと顔を前に向けるよう指導する山本一義さん=2011年5月、山口市振り切ったあと顔を前に向けるよう指導する山本一義さん=2011年5月、山口市
 1961年に広島に入団して以来、4番打者としてチームを牽引してきた選手である。75年の初優勝の時も、選手であると同時にコーチとして支えた。その山本一義氏の訃音に半月も遅れて接し、あらためて想い出したことがある。それは初優勝をともにつかんだ不屈の投手・外木場義郎氏を広島で取材したときのことである。

  旧広島市民球場を歩きながら、75年の初優勝までの道のり、四方山話を伺っていたときのことだ。ふと「私は山本一義さんが大好きでね」と、外木場氏は広島弁で朴訥と話された。

  マウンドでノーヒットノーランの偉業を成しても、ましてや初優勝のときも、ポーカーフェイスで派手に表舞台へ出ることをよしとしない外木場氏が、取材中、唯一自ら語り出したことが「山本一義さんが好き」だった。当時の取材テープを、そのまま再生すると次のとおりである。

  「遠征では相部屋になるので、よく夜中まで野球の話をしましたよ。たとえば、窮地に立った時、バッターはどう考えるかなんてことを、打者の立場から私に教えてくれました。遠征先では、部屋の中で素振りの練習をされるのですが、夜中2時をまわっても、まだ私の枕もとで、ぶんぶんスイングされる。私は次の日先発だったので、『もう寝かせてくださいよ』といったら、『バカタレが!』って怒られましてね。『一晩ぐらい寝なくても、投げなくてどうすんや。まぁ、明日は俺が打ってやるから頑張れや!』と一言。そしたら翌日、本当にスリーランを打って、

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