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生きる意味を見いだすための介護の自立支援(下)

町亞聖 フリーアナウンサー

“医療への過信”を医師自らが過ちだったと認めること

 先日、「平穏死のすすめ」で知られる石飛幸三医師の話を聴く機会があった。若くて元気な頃に戻れないことを受け入れられなければ施設は「肺炎製造工場」になり、病院は「胃ろう製造工場」になると厳しく指摘した。

介護の現場では、介助できなければ食事できない入所者が少なくない=2016年3月介護の現場では、介助できなければ食事できない入所者が少なくない=2016年3月
 還暦の頃からただ命を延ばすだけの医療に対して疑問を持っていたという石飛先生。胃ろうをつけ寝たきりで手足は拘縮してしまっている状態。長い人生を生きてきてこの姿……と誰もがおかしいと思っていたと。

 18歳の時に私が抱いた疑問を石飛先生が持っていたと認めることには大きな意味がある。何故なら、進歩する医学を過信し命を生かしたことは間違いだったと医師自らが告白することだから。

  “医療への過信”を捨て、“医療の限界”を知らなければならないのは医療関係者だけではない。本人や家族も同じである。病院に行けば先生がなんとかしてくれるという過度な期待を多くの人が抱いていないだろうか。残念ながら医療にも不可能なことがある。

 石飛先生には忘れられない患者がいるという。顔に出来た血腫を取り除くために30回も手術を繰り返した男性患者だ。手術により顎が無くなり物が食べられなくなり目も見えなくなった。会話も呼吸もできず、胃ろうと永久器官ろうを装着していた。その男性から送られてきた手紙にはこうしたためてあった。「病は自分の人生の一部。盲人ソフトを使って頑張ります」と……。

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