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[9]過去百年に起きた3大震災から学ぶこと

福和伸夫 名古屋大学減災連携研究センター教授

阪神・淡路大震災で倒壊して生き埋め者の出たJR甲子園口駅北側で救助作業が始まった=1995年1月18日
 大震災と呼ばれる3つの地震がある。1923年関東地震、1995年兵庫県南部地震、2011年東北地方太平洋沖地震である。それぞれ、関東大震災、阪神・淡路大震災、東日本大震災と呼ばれる。地震の規模は東北地方太平洋沖地震が最も大きく、マグニチュード9.0(モーメントマグニチュード)、次いで関東地震の7.9、兵庫県南部地震の7.3と続く。一方、犠牲者の数は関東地震が圧倒して多く約10万5千人、次いで東北地方太平洋沖地震の約2万2千人(行方不明者、関連死を含む)、兵庫県南部地震の6,437人(行方不明者3人を含む)であり、それぞれの主たる死因は、地震火災、津波、家屋倒壊と異なっており、軟弱地盤上の木造家屋密集、超巨大地震による大津波、断層直上の強い揺れが災いした。

関東大震災

 大正時代は、元老を中心とした藩閥主義を脱し政党政治に移行した時代である。第1次世界大戦による好況で、護憲運動や労働運動、婦人参政権運動、部落解放運動など、民衆運動が活発だった。洋食・洋服・文化住宅など西洋式の衣食住が広がり、芸術・大衆文化、新聞・ラジオ、路面電車や乗り合いバス、家庭電化製品など、都市文化が形成された。1914年秋田仙北地震を除き、多くの犠牲者を出す地震もなかった。そんな中、1923年9月1日11時58分に関東地震が発生した。

 小田原周辺を震源とする相模トラフでのM7.9の巨大地震で、1703年元禄関東地震より一回り小さい地震だった。震源域が神奈川西部から房総半島南部にわたるため、神奈川県や千葉県南部で強い揺れになった。また、震源域からやや離れていたが、地盤が軟弱な東京の下町も強く揺れた。死者・行方不明者は、東京や横浜を中心に、10万5,385人に達した。

 地震の時の揺れの様子は、物理学者・寺田寅彦が「震災日記」に書き残している。「それにしても妙に短週期の振動だと思っているうちにいよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時に、これは自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた土佐の安政地震の話がありあり想い出され、丁度船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。仰向いて会場の建築の揺れ工合を注意して見ると四、五秒ほどと思われる長い週期でみし/\みし/\と音を立てながら緩やかに揺れていた。・・・中略・・・主要動が始まってびっくりしてから数秒後に一時振動が衰え、この分では大した事もないと思う頃にもう一度急激な、最初にも増した烈しい波が来て、二度目にびっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長週期の波ばかりになった。」

 寺田は、震源から離れた上野の喫茶店で揺れを経験した。このため、上野の揺れは相対的に小さかったと考えられるが、初期微動と主要動との時間差、揺れの長さ、長い間続く長周期の揺れなど、震源から少し離れた場所での巨大地震の揺れの特徴をみごとに描写している。震災日記には、地震後の下町の惨状や、社会の様子も端的に描かれている。

東京への人口集中が被害拡大につながる

 関東地震は火災被害の印象が強いが、揺れによる全壊家屋数も約11万棟あった。家屋倒壊による死者数は全死者の約1割の1万1千人で、阪神・淡路大震災の倍である。住宅全壊棟数は、東京市が12,000、東京市の1/5の人口の横浜市が16,000で、横浜市の被害の方が遥かに大きい。

 全死者の9割は焼死だった。焼失棟数は21万棟にも上る。昼時の地震であり、前夜の台風で風が強かったため、住家が密集した東京や横浜で大規模な地震火災となった。多くの住民が避難していた本所の陸軍被服廠跡では、火災旋風により4万人弱が犠牲になった。

 地震後には、伊豆半島から相模湾、房総半島の沿岸に高い津波が押し寄せ、熱海、伊東、鎌倉などで、200~300人の犠牲者が出た。土砂災害も各地で発生し、全体で700~800人の死者となった。とくに小田原の根府川駅での列車転落事故では、山津波により列車が海中に没し100人を超える犠牲者を出した。ここでは山津波と津波の両方に襲われた。

 規模が大きかった元禄関東地震に比べ大正関東地震での東京の犠牲者は二百倍にもなった。主たる原因は、軟弱な地盤への町の拡大と家屋密集による火災の延焼にある。東京の西側の家屋倒壊による死者は1500人程度に過ぎず、元禄関東地震と大きな差はない。改めて、危険を回避した土地利用の重要性が認識される。

 震災後には、帝都復興院が設置され、後藤新平総裁が中心になって帝都復興計画を立案した。国による被災地の買い取りや、100m道路、ライフラインの共同溝化など、斬新な計画だったが、財政緊縮のため計画は大幅に縮減された。だが、これによって現在の東京の都市計画の骨格が整えられた。

 東京の被災者の多くは地方に疎開した。東京市から疎開したのは人口の1/3の74万人にも上る。特に、被害が甚大だった浅草、本所、深川からはそれぞれ10万人以上が避難した。東京市民の多くは田舎に故郷を持っていたため疎開も容易だったと考えられる。

 関東地震による経済被害は、日銀の推計では物的損失が約45億円、また、東京市の推計では約52億7,500万円とされた。当時の日本の名目GNP約150億円の約1/3、一般会計歳出額約15億円(軍事費を除くと10億円)の3倍以上に相当する。政府は、緊急勅令によるモラトリアムをし、震災手形を発行した。また、震災手形割引損失補償令を公布し、震災手形による損失を政府が補償する体制を整えた。しかし、1927年にこの震災手形が不良債権化し昭和金融恐慌を招いた。

 関東大震災後、地震が続発した。1925年北但馬地震、27年北丹後地震、30年北伊豆地震、33年昭和三陸地震などである。この間、25年に普通選挙法と治安維持法の制定、ラジオ放送の開始、26年末に大正天皇の崩御による昭和への改元、27年には昭和金融恐慌が発生し中国で南京事件も起きた。さらに、29年世界恐慌、30年昭和恐慌、ロンドン海軍軍縮会議、31年満州事変、32年5・15事件、33年国際連盟脱退、36年2・26事件、日独防共協定締結と続き、その後、37年日中戦争、41年太平洋戦争と8年間の戦争に突入した。

 富国強兵の時代における東京への人口集中が沖積低地への都市の拡大や家屋の密集化を助長し、強い揺れと延焼の危険度を増大させた。このことが甚大な地震被害を生み出し、その後の我が国の困難な時代を招き、310万人もの戦争犠牲者を出す遠因となった。二度と繰り返してはいけないことである。

阪神・淡路大震災

 1995年1月17日に六甲・淡路島断層帯の活断層が動き、兵庫県南部地震が発生した。地震規模は気象庁マグニチュードで7.3、三連休の翌朝の朝5時46分に発生した。1948年福井地震の後に設定された震度7が初めて適用された。犠牲者は、死者6,434名、行方不明者3名に上り、戦後最大だった1959年伊勢湾台風の死者・行方不明者数5,098名を上回った。土木・建築技術者は、途中階が崩壊した神戸市役所旧庁舎や、横倒しになった阪神高速道路などを見て大きな衝撃を受けた。多くの日本人と同様、我が国構造物の耐震安全性を信じていたが、設計時想定を超える揺れの強さで甚大な構造物被害を出した。この震災は、その後の地震に対する考え方を大きく変えた。

 兵庫県南部地震では、神戸を中心に「震災の帯」と呼ぶ震度7の帯状地域ができた。当時は震度7については現地調査によって家屋が3割以上倒壊している場所を確認する必要があった。このため、発表に3日間を要し、防災上重要となる震度7の情報発信が遅滞した。地震観測体制も不十分だったため、震災の帯の中での地震観測記録は十分に得られなかった。このため、震災後、全国の約3000市町村に計測震度計が設置された。

 その後の調査研究で、「震災の帯」は、神戸直下の活断層と地下構造に原因があると考えられた。また、地震の危険性が事前に指摘されていなかったため、地震予知の限界と活断層調査の重要性が認識された。このため、予知から防災へと関心が移り、半年後に地震防災対策特別措置法が制定され、地震調査推進本部が発足した。そして、活断層調査、堆積平野地下構造調査、強震観測網の整備などが推進され、この成果がその後、地震動予測地図として結実した。

 震災直後に死亡した人の約9割は、家の中で亡くなり、その大多数は家屋倒壊によるものだった。住家被害は、全半壊合わせて約25万棟にも上る。とくに、古い木造家屋の被害が顕著だった。現行の耐震基準を満たさない建築物を「既存不適格建物」と言うが、この被害が甚大だった。このため、震災後、耐震改修促進法が制定され、既存不適格建築物の耐震診断や耐震補強が進められた。現状、公共建築物の耐震化は達成されつつあるが、民間建築物の耐震化はあまり進捗していない。耐震性が不足する家屋は未だ全国に1000万棟程度もあり、更なる耐震化が必要である。

 現行耐震基準による低層建築物の被害は軽微だったため、建築物の耐震基準は見直されなかった。ただし、

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